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〈六〉阿修羅王

人生でいちばん揺れを感じた能登の地震から半月が経ちました。

こんなことをしていていいのかと思いつつ、自分が自分として生きた痕跡を残す行為をやめることはできませんでした。










 小次郎(こじろう)が妻戸の近くに腰を下ろしたので、美夕姫(みゆき)大和(やまと)の姫の真向かいに座った。

 扇で慎ましやかに顔を隠しているが、なるほど、長い黒髪はしっとりとまとまり、艶々と美しい。(うちぎ)の重なりで明確には捉えられないが、腹部も何となく丸やかなように見える。


「……遠いところを、よくおいでくださりました。大和の姫、初めまして。わたくしが美夕姫でございます」


 義姉(あね)という初めての存在を前にして、美夕姫の声は心なしか硬かった。冷たささえ含んでいるように小次郎は思った。

 大和の姫はうなずいたようである。

 間を置かず、直截に美夕姫は続けた。


「最後にお会いになられたとき、兄は何か申しておりましたか?」

「……はい」

 内心の不安を物語るかのように、姫の声は小さい。

「近く、(みやこ)へお喚びいただけると……」


 約束を口にしているのだ、やはり(さとる)はこの姫と契りを交わしたのだと美夕姫は、そして小次郎は確信した。


「わたくしは三条の大臣の姫君にお仕えしておりますので、いまはこの屋敷には暮らしておりません。ですが、わたくしたち兄妹(きょうだい)乳母(めのと)佐久(さく)が姫のお世話をいたします。大和の姫にはご自分のおうちのように心安くお過ごしいただき、健やかな赤さんをお産みくださいませね」

「え、あ? 美夕姫さま?」


 ふんわりとした姫君だ、訊くまでもなく、怜の行方の手掛かりは期待できないと判断して美夕姫は立ち上がった。

 それにしても、早い時期に姫を屋敷に迎え入れることができたのは幸いであった。佐久は悟が生まれる前からふたりの母に仕えており、妊娠中のことも、出産後のこともわきまえている。もしも姫が産む子供が()()であったとしても、火宮家の事情を熟知している佐久がついていれば万事まちがいはないだろう。

 でしゃばらず、姫の世話を女房に託し、美夕姫は局を出た。そのまま、撫子(なでしこ)が葵の花を見ている対へは向かわず、いつぞや小次郎が入った矢の祭壇のある部屋へと足を向ける。


「美夕姫どの」


 後を追って小次郎は声をかけた。何か気懸かりがあるのか、美夕姫は硬い表情で、彼の存在を気にする様子もなく少し心細げに自分の腕を抱いている。

 

 ──震えているのか?


「美夕姫どの?」


 もう一度、小次郎が呼びかけると、ようやっと美夕姫は応えた。

「小次郎さま……」

 いつになく乾いた、何かに怯えるような弱々しい響き。

「どうされたか?」

「いえ……何だか、嫌な心持ちがするのです。胸騒ぎのような、ざわざわした、おちつかないような」

 それでとりあえず、神の矢に触れて気を落ち着かせようと無意識にこの局にやってきたのだが……小次郎の気遣いにせめて笑顔で応えようと男を見上げた美夕姫は驚きに目を見開いた。

 彼女が凝視しているのは小次郎ではない。小次郎の肩越しに見える()()だ。


 美夕姫の視線を追って振り返った小次郎が息をのむ。


 ──あれは、何だ?


 つい、いましがた出てきた大和の姫のいる局の前の高欄に禍々しくも黒い霧のようなものを濃くまとった異形──赤鬼とでもいうのか、縦にも横にも人ばなれした大きな体躯、太い腕、乱れた頭髪の額に角を生やす何かがいた。

 それは、局の中をじいぃっと見ている。


 小次郎が太刀を引き抜くよりも速く、美夕姫は袿をとりはらい祭壇の弓に漆黒の征矢をつがえ、放った。

 鳴弦に気づいた異形が立ち上がったため、首元を狙った矢はその太い二の腕に深く刺さった。

 生きもののように何かが腕を這い回り表面が激しく隆起する。聞くに堪えぬ怒号をあげるも飛来したニの矢、三の矢を身をよじって避けるが、抜き身を手に駆け寄る小次郎を難敵と看做したのか、異形は逃げた。

 さらに濃い闇の霧が異形を取り巻き竜巻のようにその周囲を旋回した。霧が薄れ散ると、そこにはもはや何もいない。


 大和の姫に女房を三人手配し(張りつけ)、佐久が矢の局に駆けつけてくる頃には、小次郎も庭を戻ってきた。弓を置き、美夕姫は袿を着ける。

「姫さま……」

 心配そうに見つめる乳母に、美夕姫は真顔でうなずいた。

「ええ。生まれてくるのは、女の子……」

 喜ばしいことではあるが、内心、忸怩たるものがあるのも事実だ。

「まさかこんなに早く、あれらが嗅ぎつけようとは……」

「あれらとは、さきほどの異形か?」

 思いがけず冷静に、小次郎が尋ねる。取り乱すことなく果敢にも斬りかかっていくとは、昨今の柔和な公達にはめずらしいふるまいであった。さすが、悟が友としてつきあう男である。

 何から説明したものかと美夕姫が思案しようとしたとき、小雪が撫子を連れてきた。案内していた庭のあたりは安全だったはずだが、さすがにあの鬼の悲鳴を聞いて恐ろしくなったのだろう。駆け寄ってきた撫子をしっかり抱きしめると、美夕姫は小次郎に言った。

「撫子さまを連れて、一刻もはやくこの屋敷から出てくださいませ」

「ああ?」

「あれが狙うのは当家の娘だけですが、万が(いち)ということもございます。どうか()くご帰還を」

 身の安全の確保はもちろんだが、足手まといにならないよう離れてほしい、その気持ちもあるのではないかと思った。異形を相手とする戦いとなれば、自分が屁のつっぱりにもならない自覚は小次郎とてある。

 

「理由はいずれお話しいたします。ともかく、いまはお急ぎください」


 期待以上の言質(げんち)をもぎとり、小次郎は撫子と小雪を連れて葵屋敷を後にした。

 美夕姫は外せない用事ができてしまい、遅れて三条に戻ると言った。そうして、火宮家の牛車と牛飼い童を貸してくれた。





「小次郎お兄さま」

 騎乗して牛車と並進する兄に撫子が声をかけた。

「葵の君はどうなさったの? お顔の色がすぐれなかったようでしたけれど」

「う、ん……」

 小次郎は何と応えたものか、困っていた。というより、残って陰陽寮(おんみょうりょう)への連絡や加持祈祷などの手配をすべきだったのではないかという気がしてならない。だが、そのために家令の武光(たけみつ)を残して小次郎を護衛に牛車を出させたのだとわかっているので、あまり押しつけがましく世話を焼くのは美夕姫への過干渉なのではないかと遠慮してしまったのだ。撫子と小雪を三条に送り届けたら、牛飼い童を送りがてらまた七条へ戻るのもありだと思っている。

「小雪は? 何か知っているのではない?」

 急に撫子の矛先が自分に向き、小雪は焦ったが

「ほ、ほら、あれですわ、撫子さま」

 苦し紛れになんとか言い訳する。

「あれって?」

「ですから、大和の姫という義理のお姉さまがいらっしゃるので、もっとお話ししたかったんですよ、きっと」

「じゃあ、姫と小次郎お兄さまを先に帰したりなさるのは?」

「ええっと、それは、ですね」

 本当の理由を小雪は知っている。だが、美夕姫が話していないのを自分が明らかにすることはできない。

「えっと、それは、ですねぇ〜」

 同じ言葉を繰り返し口ごもっていた小雪は、はっと口をつぐんだ。


「何だ、おまえたちは!」


 いつになく厳しく、鋭い小次郎の声。


 隙間から外の様子を見て、小雪が身をすくませた。


「どうしたの、小雪? そんなに震えて?」


 不思議そうにこれまた外を覗い見ようとした撫子を抱きとめ、小雪はその耳に囁いた。

「しっ、撫子さまお静かに。盗賊です」

 とたんに撫子も身体をこわばらせた。

 外では乱闘が始まったらしく、粗粗しい喚き声が聞こえてきた。


「童よ、撫子たちを連れて逃げろ! ここは俺が何とかする」


 休みなく斬りかかってくる賊をはねのけつつ、小次郎が叫ぶ。

「だめです、とうてい逃げきれませんっ」

 少年は賢くも自分が扱う牛の速度を完璧に把握していた。よく世話をし、懐いている自慢の一頭ではあるが、大人の男を振り切れる速さではない。

 と、賊のひとりが牛車に乗り込もうと上半身を突っ込んできた!

「撫子!」

 かかってきた者を薙ぎ払い、返す刀で振り下ろされた刃を受け止めた小次郎が叫ぶが、その場から動けない。

 兇悪な賊を見るなり撫子は小さく悲鳴をあげて気絶した。それを後ろ手にかばい、小雪は後退ったがあまり後ろへもさがれない。どうにか勇気を振り絞り、がっと爪を立てて男の顔面を引っ掻いた。立ち上がる勢いを利用して足先で蹴り出す。

「無礼者、おさがり!」

 後ろにのけぞった首根っこを誰かが掴んで男を車外に放り出した。小次郎ではない。牛飼いの少年でもない。

 女物の被衣(かづき)をしていたが、それを取り払ったのは水干を着た童姿──年齢は十六、七ほどなのに元服前の若者の髪は長く、表情を崩さない白皙は……あまりにも()()()と似ていた。


「……(たける)どのっ?」


 小次郎は驚いて呼びかけた。だが、若者は知らぬ顔で腰の刀を抜き放ち、目の前の賊を見据えている。


「建どの!」


 もう一度、小次郎はその名を呼んだ。

 若者は小次郎の方を見たが応えることなく、そのまま賊に斬りかかる。


 どこからか、笛の音が聞こえてきた。


 すると、賊の動きがぴたりと止まり、徐々にひとり、またひとりと姿を消してゆく。


「あ、待て!」


 追おうとした小次郎に、漸く若者は言葉をかけた。


「賊を追うよりも、早く屋敷へ帰りなさい」


 低く抑えられているが、少女のような声だった。建の声だと小次郎は確信した。

 話しかけようとした彼をよそに、若者は踵を返すと被衣を拾い、懐から取り出した葵の花を牛車の中へ投げ入れると走り去っていった。




 三条の屋敷に着く頃には、撫子も意識を取り戻した。それでも、用心して小次郎が西の対まで抱き上げて運んだが

「お帰りなさいませ」声をかけてきた者を見て驚いた。美夕姫である。


「美夕姫どの?」

「わたくしのほうが、早く着きましたわね」

「あ……」


 三人は、自分たちよりも美夕姫が先に帰っているのが不思議で声も出ない。


「どうかなさいましたの?」

「い、いや、べつに」

 何とか小次郎が言葉を返したが、小雪が素直にうふふ、と笑った。

「美夕姫さまが、わたしたちよりも早くお戻りなので、驚いているのですわ」

「そう」

 種明かしをする気はないらしく、美夕姫は微かに笑む。それを見て撫子は兄にさきほどの葵の花を手渡すと何やら耳打ちし、小雪を連れて奥へ入っていった。


「美夕姫どの」

「はい」

 曇りなきまなざしで美夕姫は小次郎を見上げた。

「何でございましょう?」

「あ、いや……撫子が、これをあなたに、と」

 美夕姫の髪にそっと葵の花が差し入れられる。

「わたくしに?」

 迷いつつ、小次郎はほのめかした。

「さきほど、賊に襲われたところを助太刀してくれた若者がくれた花なのだが」

「賊……」

 美夕姫はつぶやいて髪の葵に手をやり、小首をかしげてどこかあらぬ方を見ていた。

 逃げられぬよう、小次郎はその手を掴む。

「美夕姫どの、あなたの双子の兄、建どのは……生きているのではないか?」

 驚いたように美夕姫は小次郎を見たが、またすぐに目をそらす。

「美夕姫どの!」

 焦れた小次郎は華奢な身体を引き寄せ、正面から美夕姫の瞳を見つめた。

「あなたは知っているはずだ」

 多少強引ではあったが、強い力での束縛ではなかった。身を引く気配を察すると小次郎はすぐに両手を離した。二、三歩後退して美夕姫は言った。


「…………はい」

「え?」


 小次郎が一歩前進すると、再び美夕姫は後退した。そして、応えた。


「建は、生きておりますわ」

 ささやかな声で告げると、美夕姫は与えられている局へと逃げた。




 その夜──。

 三条の大臣の館の近くに怪しげな人影が三つばかり集まって話をしていた。

「おい、本当に三条の大臣の姫か?」

「まちがいない。牛車が入るとこまで見届けたんだからな」

「まったく、昼間はひどいめにあった」

「おかげで仲間中の笑いものだ」

「だからこうやって仕返しに姫を(さら)いに来たんじゃねぇか」


 どうやら、日中、撫子の牛車を襲撃した賊の一部のようだ。


「ここで上手くやらんと、お頭に面目ねえ」

「んだ、んだ」

 悪い仲間はうなずく。

羅王(らおう)さまに面目ねえばかりか、阿修羅王(あしゅらおう)一族中の笑いもんだぞ」

「だからこそ、上手くやらねば」

 そして、三名は屋敷に忍び込んだ。

 

 西の対屋の様子を窺っていると、話し声が聞こえた。

「それでは姫さま、おやすみなさいませ」

「おやすみ、小雪」

 美夕姫と小雪の会話である。ところが、三人の賊はこれを大臣の姫と女房とのやりとりだと思いこんでしまった。

 小雪が局を出ていったのを確認するとこっそり対屋に上がり、気配を殺して(ふすま)の上から三人がかりで押さえつける。いくら美夕姫といえども、手早く猿轡をかまされ、簀巻き同然に衾ごとぐるぐる巻きにされては抵抗の手も足も出せなかった。

 速やかに賊は美夕姫を担いで連れ去った。

 三条の屋敷でそのことを知る者は未だいない。


 夜は、しんしんと更けていった。










〈六〉阿修羅王──あしゅらおう──

 




火宮家の牛飼い童の名前って何だっけ?つけてなかったかもしれません。いい子です。女房の誰かの親戚の子で、お端の女の子と兄妹かも。




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