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〈五〉撫子




 左大臣家の姫のお相手(教育係)として故大納言の娘美夕姫(みゆき)が三条の大臣(おとど)の屋敷で暮らすようになってから、幾日かが過ぎていた。

 美夕姫は撫子(なでしこ)姫母子が住んでいる西の対に局を与えられていたが、東の対には時頼(ときより)どのと唯時(ただとき)どの、それとその母君が住まいしていた。

 東の対の北の方(おくがた)、つまり兄弟の母君は兄の左近中将どののほうに、どちらかというと贔屓されており、弟の唯時どのには撫子姫の母君が肩入れされていた。

 そんなわけで、唯時どのは異母妹の姫を睦まじくかわいがっており、時頼どのはいささか形式的な仲であった。

 ところが、火宮家の姫が西の対に暮らすようになってからは中将どの、足繁く西の対に現れる。


「太郎のお兄さまは、(あおい)の君にお会いになりたくて、こちらへいらっしゃるのでしょう?」


 裳着前の姫に読まれているのである。

 美夕姫は、葵の君と呼ばれていた。




 ある日、美夕姫は撫子に源氏物語の巻物を見せていた。そこへ、先触れもなく小次郎唯時がやってきた。


「葵の君は、()()()()()()()()()()()()()、お顔を隠されないのね」


 ついと撫子の傍の場所を譲り、少し下がったものの袖几帳まではしない美夕姫に少女は言った。


「小次郎さまは、わたくしの兄のご親友。もうひとりのお兄さまのように思わせていただいているかただからですわ」


 撫子に笑いかけると

「小次郎お兄さまが葵の君のお兄さまなら、葵の君は姫のお姉さまね」

 嬉しそうにうなずく。それを聞いて小次郎は快い笑い声をあげた。


「美夕姫どのに、何を見せてもらっていたんだ?」

 ひとしきり笑った小次郎が尋ねると

「源氏物語よ。たくさん読んでいただいたから、今日は末摘花の姫のお話までいったの」

「末摘花?」

 言われて見れば巻物の片隅にそんな絵が描いてあるような。もとより小次郎、文化的知識はあるようなないような……。

「ご存知ない? お兄さま」

 尊き生まれの男君があちらこちらで恋をものする物語という一般常識はあれど、どんな名前の姫と結ばれどうなるこうなる、のかまでは知らない。しかし、兄としてここは面目を保たねばならぬ、直感がそう告げていた。

 そういえば、いろいろと物知りの(さとる)がこれを読んでいたときに何か言っていなかったか?


 記憶を、振り絞る!


「たしか……なつかしき、いろ? 色ともなしに()()にこの、末摘花()()()()……()()()()?」


 あのとき、友はこう言ったのだ。

「わざわざこんな歌詠むとか、ありえないよな」


 小次郎も同感であった。

 あまつさえ、幼女とはいえ女性の前で、他の女性を語るなど男としてどうなんだ?

 ちらりと美夕姫の様子を窺うと、末摘花の歌で伊津良(いづら)の少将を退けた一戦を思い出し、笑いをこらえていて小次郎の視線に気づかない。


「少し、ちがうみたいだけどそのお歌、知ってるわ。でもお兄さま、葵の君ったらお笑いになるだけでお歌の意味を教えてくださらないのよ」


 拗ねる撫子に必要のない教育はしませんよ、というまなざしを向けて美夕姫は淡く笑んだ。

 それを見つめる小次郎に美夕姫が気づくと、そっと目をそらして彼は妹に言った。

「もっと大きくなれば、誰に教わらなくとも撫子にもわかるようになる」

「姫は早くオトナになりたいわ、お兄さま。葵の君のようなひとに、なりたい」

 大人になれば、あなたは女御入内なさりやがては国母として、国を支える礎として生きるのですよ。(いち)公卿の娘など、とるにたらぬ存在にすぎないのに──。


「はははっ、美夕姫どののようにか」


 朗らかな声に、はっとして美夕姫は謙遜する。


「わたくしのようななどと。撫子さまはこれから大人におなりになるにつれ、より賢く、よりお美しくお育ちになります。わたくしなど、比べようもなく」

 すると、撫子はにっこり笑った。

「でも、お(もう)さまが言ってらしたわ。お(もう)さまが裳着の腰結をなさった姫君はたくさんいらっしゃるけれど、葵の君ほどお美しいかたはいらっしゃらないって」

「まあ……過分なお褒めのお言葉ですわ」

 そんなことはない、思ってはいても比較対象を見たことがない小次郎はばか正直に沈黙を守る。


「美夕姫さま……七条より」


 更に撫子が父の言葉をああ言っていた、こうも言っていたと兄に教えていると、密やかに小雪(こゆき)が何かの書面を手渡してきた。

 そっと開いて目を通す美夕姫の表情が一瞬こわばるのを小次郎は見た。が、ふと首をめぐらした撫子に向ける美夕姫の笑みはやわらかなままだったので、少女はまたすぐに兄を見上げた。その間に美夕姫はひそりと女房の耳に囁いた。うなずいて小雪が出ていく。


「ああ、そういえば、葵の君、おうちからのお知らせはなんだったの? 何か困ったこと?」


 ややあって、驚いたことに撫子がそう切り出した。七条の一言で察した聡明さに、なにげない様子で美夕姫は応えた。


「いいえ、撫子さま。困りごとなどではないのですが、少しだけ戻らねばならぬようなのです」


 変に隠し立てせず、美夕姫は告げた。長くて半日、それだけの不在となるだけなのだが、ごまかしたくなかった。


「戻る? 葵の君、おうちに帰っちゃうの? もう姫に物語を読んだりお歌の意味を教えてくださったり、してくださらないの?」


 とたんに姫の目がうるうるする。


「用事を済ませれば、またこちらで撫子さまのお相手をさせていただきますわ」

「ほんとうに?」

「ええ」

 安心したように撫子が笑い顔になった。

「じゃあ、すぐに帰ってこられるように、お車のことをお(たあ)さまにお願いしてみる」

 健気にも立ち上がると乳母(めのと)を引き連れ、母の局へと歩き出す。


 小次郎とふたりきりになると、美夕姫はしっかりと目を合わせて訊いてきた。

「小次郎さま、大和の姫というかたをご存知ですか?」

「大和の姫? それは、怜の」

 どうやら同じ人物を認識しているようだ。美夕姫はにこりともせず肯首する。

「どのようなおかたです?」

「どのようなって、大和の姫が何か?」

「いま、(みやこ)に来ておられるのです」

「えっ?」

 想定外の行動力に驚く。


 その姫は、初めての大和路で美夕姫の兄の怜が見初めた女性で、一緒に垣間見たので小次郎は少しだけ知っていた。顔まではよく見えなかったが、豊かな髪は輝くばかりの艶があった。


「実は」


 声をひそめたが、美夕姫は臆さずに言った。

「大和の姫は……みごもっておられるようなのです」

「みご」

「しーっ」


 叫びかけた小次郎を制し、美夕姫は先程の文を見せた。

「小次郎さまと大和へ行かれた折に、兄上は姫と契りを結ばれた?」

 文面を何度読んでも小次郎の頭にはその内容がまったく入ってこない。

「わたくしには何もおっしゃってくださらなかったけれど、小次郎さまには?」

「いや、そんな話は聞いていないが」

 大和の守に宿として提供された部屋は別室だったので、彼の知らぬ間に抜け出すことは可能ではあった。だが、あの爽やかな男が、夜這いを……?


「兄上が……わたくしや小次郎さまに隠しごとをなさるなんて……!」


 ふたりが衝撃を受けている観点は実はまるきり異なっているのだが、それでも同じ人物から与えられた驚愕にうち震えるのは一緒だ。思わずついたため息が重なる。

 そこへ、足音軽く撫子が戻ってきた。


「お(たあ)さまは良いとおっしゃったわ。ただ、ちかごろは()()()なヤカラが多いからお供に小次郎お兄さまをお連れなさいましって」


「小次郎さまを?」

 ふたりは顔を見合わせた。

「……ね、葵の君?」

 撫子の声が甘えたものになる。

「葵の君のおうちは葵の花がいっぱい咲くから葵やしきと呼ばれていて、葵の君も葵の君なのよね?」

「そうですが……まさか、撫子さま?」

 察するまでもなく、わかってしまった。

「まさか、葵の花が見たいと?」

「ね、お兄さま、よろしいでしょ?」

 撫子は小次郎の袖をつかんですり寄る。

「葵の君やお兄さまがいらっしゃらないと、さびしいんですもの」

「撫子……」

 小次郎は小さな妹を抱き寄せ、頭をなでた。

「母君さまは、良いとおおせなのですか?」

 美夕姫が確認すると撫子は首を横に振った。

「では、だめだ」

 優しいがきっぱりとした声で小次郎は断じた。

「なぜ? お兄さまがお供なさるのに、どうしてだめなの?」

 すでに撫子の涙腺は決壊している。

「葵の花を、撫子さまのために持ってまいりますわ。それでいかがでしょう?」

 美夕姫がなぐさめるが、撫子は激しく首を振る。


「イヤ、嫌っ! ちゃんとお庭に咲いてるお花が見たいの。切ってしまったお花は嫌なのっ!」


「じゃあ、今度だ。撫子の母上が良いと言ったときに、一緒に見に行こう」


 兄歴の長さで小次郎のほうがなだめるのが巧妙だった。


「ほんとう? 小次郎お兄さま」


「ああ。なあ、美夕姫どの」


「ええ。今度のときに、一緒に葵を見ましょうね、撫子さま」


 それでようやく、撫子は泣き止んだ。

「美夕姫どの、何か笛を」

 小次郎に促されるままに、撫子のために美夕姫は懐に持っていた高麗笛に息を吹き入れた。




 翌日、撫子の気が変わらぬうちに、小次郎が美夕姫の乗る馬の轡をとる形で三条邸を後にした。


「三条の大臣の若君さまに轡をとらせるなど、畏れ多いですわ」

 馬上で美夕姫が言った。虫の垂れ衣で顔が見えないが、その声は心なしか弾んでいる。

「……馬には」

 小次郎は言いかけたがやめた。

「え? 何かおっしゃって?」

「いや、馬は恐ろしくないですか?」

「いいえ」

 さらりと美夕姫は言った。

「馬は、優しい生きものですもの」

「優しい生きもの……」


 どこかで聞いたことがある言葉だ。


「いつだったか、お兄さまがそうおっしゃったのです」

 馬は優しいと言ったのは、(たける)である。

「兄上というと、怜が?」

 建のことを訊くと怜や佐久(さく)がすぐに話をそらすことに気づいた小次郎は、直接美夕姫にあたることにしたのだった。


「どういう意味でょう? わたくしの兄は怜だけですわ」


「いや、もうひとり、いるでしょう?」


 建のその後を美夕姫は知っていたが、一族以外には秘匿のため知らないことになっている。そして人は、隠していたことを真正面から突きつけられると動揺するものなのだ。しかし、美夕姫は韜晦した。


「さあ? いったい、何を思い違いなさっておられるのか、わたくしにはわかりませんわ」


「美夕姫どの! 馬は優しい生きものだと言ったのは……あなたの双子の兄上、火宮建どのだったはずだ!」


 小次郎の勢いに()され、美夕姫は認めてしまった。


「はい……そう言ったのは建です」

「建どのは、どこに葬られたのですか?」

「葬られ……?」


 小次郎には建は亡くなったと怜が言ったことを、美夕姫は知らなかった。


「わたくしは……存じません」

「美夕姫どの」


 それきり、美夕姫は口を開かなかった。

 仕方がないので、自分もおし黙ったまま小次郎はゆっくりと馬を進めた。

 時々、馬上の美夕姫を見上げてみるが、頑なに前方を見ていて彼を見ようともしない。

 そのうち、美夕姫はこっそりと後ろを振り返るようになった。

「どうしました?」

 わだかまりなく小次郎が尋ねると、彼のほうに顔を寄せ、小さな声で美夕姫は言った。

「小次郎さま、後ろをご覧にならないで聞いてくださいませ」

「後ろ?」

 見るなと言われたのに小次郎は見てしまう。

 少し離れて後ろにいる二人連れのうちのひとりが、小雪に見えた。もうひとりは、(かづ)きを目深にかぶっているのでよくわからないが、まだ子供のようだ。

「まさか?」

 いや、本当にそうとしか思えない。

 ふたりはうなずいて、そのへんの物陰に隠れて追跡者をやりすごし、後ろから美夕姫が声をかけた。


「小雪?」


「えっ? あ、ひっ姫さま」


 やはり小雪である。その連れが小次郎に駆け寄った。


「お兄さま」

「撫子」

 すかさず小次郎が抱き上げる。


「小雪、あなたは何ということを……」


 薄い衣を隔てていても、美夕姫が自分の行動を良くは思っていないことを察して小雪は訴えた。


「だって、七条へお連れしなければ美夕姫さまが三条へ戻られたらもう二度と帰さないっておっしゃられるんですもの!」

「撫子さま……」


 少女のべそべそで、小次郎の狩衣はじっとりと濡れてきた。


「ほんとよ。お(もう)さまやお(たあ)さまや、お兄さまが何とおっしゃられても、帰さないんだからぁっ」


 かわいらしい姫君だと、美夕姫は改めて思った。


 ここまで来てしまっては、小雪とふたりで帰すより七条へ同行させ、四人で戻るほうが安全だ。自分が大和の姫と応対しているあいだは、小雪や佐久に相手をしてもらえばいいではないか。

「小次郎さま、撫子さまをこちらに」

 持ち上げてもらった姫を馬の背でしっかりと抱きかかえる。安心させるように妹をそっとなでてから、小次郎は馬を歩かせた。


「ね、葵の君。お馬は急にあばれたりしない?」

 心配そうな撫子に美夕姫はうなずく。

「大丈夫ですわ」

 虫の垂れ衣の内で内緒話をするように囁いた。


「馬は優しい生きものですもの」










〈五〉撫子──なでしこ──

 




毎年、お正月に某教育的TVチャンネルで早朝に舞楽が放映されます。

遥か昔より継承されてきた音、衣装、舞い──紫式部や清少納言が仕える后の傍で見聞きした宮中行事でも披露された演目なのだと思うと、撫子はいつかこれを見るようになるのだなぁと妙な感慨に包まれます。

2024年放送の舞楽は『陵王』。美貌の王が龍の仮面をつけて軍を指揮した故事にちなみ、舞人は龍の面をつけることからの選曲と推察されます。

辰年、ブラボー(≧∇≦)b






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