〈三十五〉葵
「北の御方に申し上げます」
雪乃と名を改めた小雪が静かに呼びかけると、文机に向かい筆を走らせていた美夕姫は程よきところで手を止め、顔を上げた。
「左馬助さまがおいでになりました」
「まあ、めずらしいこと。お通しして」
筆を置き、対面の用意を整えさせようとした主に、
「お庭のほうへ、まわられるとのことにございます」
端近へ寄るよう伝えて、そっと移動の手を貸す。この来客の相手では御簾をおろす必要はない。
「美夕姫どの」
衣の裾や髪を整えたところへ、花盛りの葵の群生を掻き分けるようにして左馬助こと柳沢怜行が近寄ってきた。十九歳になった由岐丸はめきめきと成長し、いまや一端の美丈夫である。
「相変わらず、盛り上がるように咲き広がっておりますね、こちらの葵は」
若者らしく、清々しく笑いながら話す怜行に、美夕姫も笑みを返す。
「残念なような気がいたしますわ。この対屋の主として葵を見るのも今年が最後ですから」
「では、衛門佐どのの館に移られるのは取り止めにされるか?」
郷里を離れ宮仕えとなり、都人らしい軽口を覚えた怜行に、真顔で美夕姫は応えた。
「いいえ、佐さまがわたくしのためにお屋敷をご用意くださったのですもの、屋移りに否やはございません。来年からは義姉上のところへ遊びに来れば、また見ることができますから」
付け入るような勢いで言わねばよかった、と怜行は内心ほんのりと凹む。しっかり、あてられてしまったではないか。
「ところで怜行さま、北の方はお元気かしら?」
にこにこと尋ねる美夕姫に、少々つむじ曲がりに応える。
「あれは殺しても死ぬような女ではありませんからね。いまにも羅王どのの北の方と結託して女盗賊団でも作りだしかねないくらい、色々と持て余しておりますよ」
それに何と相槌を打ったものか、美夕姫はだだただ笑顔のままでいる。
「何ですか?」
「いいえ。……せっかくおいでになられたのですもの、上がって吾子らのお相手をしていってくださりませ」
「はあ」
そこまで言われては仕方ない。浅沓を脱ぎ階を上がって室内に入ると、筆を置いたままの文机に目を留める。
「佐どのに文を?」
琴や琵琶が出してないことを意外に思いつつ、尋ねる。
「……日記を、認めておりましたの」
目顔で雪乃に指示を出しながら応えると
「日記、ですか」
和歌や手紙などとは異なり長時間を要する書き物に不思議そうな顔をされる。
「いまの日頃の事柄のことではなく……わたくしが佐さまと初めてお会いした頃よりのことを、書いておりましたの。娘が育ちましたとき、何か訊かれましてもきちんとお応えできまするよう、覚え書きのようなものですが」
「美夕姫どの」
「はい」
怜行が膝を揃えてかしこまったので、こちらも姿勢を正して見つめた。
「何でございましょう」
親しき間柄としての慣行で美夕姫は顔を覆って表情を隠したりはしていない。怜行は思いつめたように大らかな美貌を凝視するばかりで、何かを言おうとするのだが口をついて言葉が出ない。
「……姫さまをお連れしました」
そこへ雪乃が女児を抱いてきた。美夕姫が産んだ小次郎の娘である。ますます、怜行の口が重くなる。
「若は?」
「佐保さまとお遊びです」
「そう」
佐保とは美夕姫の兄の長子で、春に生まれたことから“佐保の君”と呼ばれている。後に成長したその双子のかたわれが“佐保姫”と呼ばれるようになるのだが──。
「……母君に似て、きっと美しい姫になるのでしょうね」
つぶやくともなく口にして、怜行は赤子のほっぺたを軽くつついた。
「すこやかに育ってほしいと思っておりますわ。怜行さまのほうは、その、お子さまは?」
少々、遠慮がちに尋ねる。
「ああ、当分はないでしょう」
ぶっきらぼうに怜行は言った。彼自身がまだ若く、自分の子供といわれても考えが及ばないのもある。
「だいたい、あれに子を産むような母性があると思いますか? 姿かたちは女でも、わたし以上に海賊の素養にあふれ、血の気の多い暴れ者ですよ?」
「まあ」
雪乃と目を合わせ、美夕姫が笑う。
「なっ何です?」
なおも笑みを深めて美夕姫は言った。
「いえ、豪気な女性ほど愛情は密で細やかだといいますわ。司王のところがそうでしょう? あちらには玉のような若君がお生まれですし」
「美夕姫どの……」
怜行は困ったような顔つきになった。
「……怜行さま」
美夕姫の微笑が温い。
「まだお若うございます。時がくれば、愛らしくすこやかなお子が、お生まれになりますわ」
「そうかな……」
気乗りしない返事をしながら、怜行はぎこちない手つきで抱かされた小さな姫をあやした。うれしそうに赤子は笑う。
「そうだと葵も言っておりますわ」
「葵?」
つい顔を上げて庭を見るが、美夕姫の目は娘に向けられている。
「わたくしは、姫のことをそう呼んでおりますの。この子も、葵の花が大好きなようで」
へえ、とも、ほう、ともつかぬ相槌を打ち、ひとしきり姫のご機嫌をとると雪乃に引き取らせて怜行は座を立った。
「もうお帰りですの?」
「ええ」
「またおいでくださいませ。姫も喜びます」
「はい、きっと」
庭に降り立つと、怜行はもときた道を戻り出したが、ふと振り返った。
「美夕姫どの、その日記」
「はい?」
妻に読ませたならば、さすがにあの女にも情緒やら情操やらといった柔らかい感情が芽吹くのではないか──埒もない思考を笑って押しやり、怜行は誤魔化すように花をちぎって投げた。
「怜行さま?」
「……佐どのに、よろしく」
簀子まで届いた葵を拾い上げ、美夕姫は怜行の後ろ姿を見送る。
「すっかり大人におなりですね」
「そう、ね」
女房の言葉にうなずくと、美夕姫は文机に花を置いた。雪乃の腕の中の愛娘をいとしげに見つめる。
「……愛らしゅう、育ってくださいませね」
ほっぺたをうりうりとくすぐると、葵はとろけそうに目を細めて笑い声をあげた。
「この目元、殿によう似ておられますこと」
「お顔立ちは、美夕姫さまに似ておられるように思いますが」
「そうかしら」
美夕姫は、今度は紅葉のような手のひらをくすぐった。
「あなたはいったいどのような時を過ごし、大人になるのかしらね、葵……」
まだ赤ちゃんである。親が貴族である以上、そのように教育され生きるようになるのは必至だが──火神矢の巫女とは違い、男児として育てられることはない娘に、少しだけ安堵する。
文机の前に端座すると、再び美夕姫は筆をとった。
「……美夕姫さま」
腕の中で葵が寝息をたてはじめると、そっと雪乃が主人に話しかけた。
「なあに?」
躊躇いながらも雪乃は伝える。
「あの……わたしの娘が一人前に育ちましたならば、姫さまの女房にしていただけましょうか」
「まあ、小雪」
美夕姫は乳母の昔の名を呼んだ。
「あなたの娘以外に、姫を任せられる女房が見つけられると思うの?」
「あ……ありがとうございます」
雪乃は涙ぐみ、頭を垂れた。
その日の夕暮れどき──。
美夕姫は娘を胸に抱き、庭へ降りた。
手折られたものより、群生する立葵の間近まで寄って視界いっぱいの花を眺めるのが美夕姫は好きだ。どうやら娘もそのようである。
「あなたを、この花と同じ名で呼びましょうね。物語では不遇な姫君の名前だけれど、きっとあなたは自分で幸せをつかみとるでしょうから」
いつものように、そっと娘に話しかけていると簀子を足早に歩いてくる足音が聞こえてきた。
左衛門の佐藤原唯時は遠慮会釈ない足さばきで婚家の簀子縁を歩いていた。逸る気持ちを表すように、相当な早歩きだ。
ふと見ると、庭先に人影がある。足を止めると人影は振り向いた。赤子を抱いている。
「──上」
唯時が呼ぶと、微笑みながら近づいてくる。
「お帰りなさいませ、殿」
夕陽を受け、愛し子を胸に抱く妻は観世音か天女の如くに美しい──声もなく、唯時はじっと見つめた。
夕暮れの風が、さわやかに夏の夜を運んできた。
〈三十五〉葵──あおい──
『初恋の君はわたくしの双子の兄にご執心のようです。』
── 完 ──
完結です。
ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。
高校時代、友人にいつの間にか2児の母になった美夕姫のことを「♪(←私のあだ名)にまだ理性がある」と言われましたが(だって書くほうが恥ずいやい。恋愛ものとか青春学園ものとか、何か小っ恥ずかしくて(´∀`*)ウフフ 一応、らびゅし〜んの研究に官◯小説とかTLな漫画とかアダルトな関連を閲覧したりしましたが……だんだんムナシクなってきまして、人間とことん合わないモノは合わない=無理することはナイと悟りました(笑))これはそういう設定のお話なので、そうじゃないお話はそういうレーベルがなろうさんにはありますので対象年齢に該当されるかたはそちらでお楽しみくださいませ(*^^*)
今後の予定ですが、しばらくお休みをいただき、2025年7月1日に新作をお目にかけることができたらと思っております。完全新作となるか旧作のリライトになるかは未定です。もしよろしければ、当日、私のMP→作品へとお立ち寄りいただけましたら幸いですm(_ _)m
2025年4月1日
高峰 玲 拝




