〈三十四〉桜賀
一条宮司王が帰京したのは、すでに京の桜が満開に達した頃であった。
一条の館に落ち着く間もなく、彼は七条の葵屋敷に火宮怜を訪ねた。本当はその妹の美夕姫に用があったのだが、彼女の居室のある対屋から徒ならぬ気配を感じたため、行き先を怜の居間へと変えたのだ。
「やあ、司王」
胡座の膝の上で赤子をあやしながら、朗らかに従弟は彼を迎え入れた。
「あれは……いったい、何だ?」
入口近くに立ち止まったまま、司王は対屋の方に視線を向ける。
「あれ?」
赤子から目を上げ、怜が問う。
「美夕姫の室の辺りが、異様だ」
「ああ」
怜が苦笑する。応えるように、赤子が声を立てる。それをまたあやし、事も無げに怜は言った。
「小次郎がな、通うことになったのだが」
「夜離れでもしたか?」
「まさか! それ以前の問題だ。通ってきたのは昨夜が初めてなのだが……」
「その、ひょっとして?」
「……小次郎にな、迅速な後朝の歌を期待するのは間違いだと、思ってはいたんだがな」
改めて司王は外を見た。
陽はもう高い──!
仕方なく、訊いた。
「美夕姫は……荒れているのか? 話はできるか?」
「何だ、美夕姫に用なのか?」
司王がうなずくと思案顔で怜は対屋の様子を覗う。
「さて、どうかな? 何しろ、誰も傍へ近寄らせないからな」
「暴れているのか?」
「暴れる? いや、静かなものだ。却って不気味なほどだ」
暴れたり騒いだりしていないなら、会話は可能だろうと判断し、部屋を出ていこうとする背に怜は声をかける。
「あまり刺激せんでくれよ」
「わかっている」
渡殿付近で乳母の佐久や小雪が止めようとしたが、司王は気迫で防衛線を突破した。一夜を過ごした男から後朝の歌が届かないのは、確かに女として一大事である。だが、彼のほうも、そんな状態だから放っておいてやる余裕がある心境ではないのだ。
冷えびえとした威圧感に、女房ふたりは怯んでしまった。主の心を煩わせぬよう、声もなくうずくまる。
司王はほとんど足音を立てないが、閉ざされた戸口の前で立ち止まると、さすがに簀子が小さく軋んだ。
「どなたです」
すかさず、誰何の声──落ち着いた口調だが静かな中にぴりぴりとした緊迫感が含まれている。
「俺だ」
「……司王?」
「話がある。入ってもいいか?」
しんと辺りが静まり返る。が、やがて美夕姫は言った。
「……どうぞ」
一方、こちらは三条左大臣邸。
明け方に帰るなり、藤原小次郎唯時は自室に閉じこもった。朝餉もとらず、絶えず何やらぬぷり、こぷりと粘り気の強い物を混ぜているような音がする。
「……小次郎」
宮中から戻った兄である時頼が、ふらりと部屋を訪れその様子を見て絶句した。
黙念と墨を磨っているだけなのだが、思案しながらのため変に目がすわり、焦燥感が凝り固まって鬼気となって溢れ出ている。
「お、まえ……何を、しているんだ?」
「兄上?」
不思議そうな顔で兄を見上げる。と同時に手が止まり、ぬちぬちとした怪音もやむ。
「おま……それ……」
手元を指され、照れたように赤面する。
「美夕姫どのにき、後朝の歌を……」
再び指先の粘つく音が始まる。
「き……? 後朝、だと? まだ送っておらんのかっ」
自分も正式な妻は娶っていないくせに、説教口調で時頼はせっついた。小次郎は素直にもうなずく。
「もう昼過ぎだぞ」
「ええっ、何とっ!」
文机を蹴倒しそうな勢いで立ち上がろうとするが……長時間、端座していたので気づかぬうちに痺れがまわっていた。
「──っ!」
一度上げた腰を再び落とし、小次郎はのたうつ。声にならない呻きが漏れる。
「おまえ、本当に、何をしていたんだ?」
「すっ墨を……」
磨っていたのだ。初めて夜を共に過ごした妻へ送る特別な歌を記すために。
普段は陶硯を使い、勢いだけは覇気があってまことによろしいと褒められる悪筆にはもったいなくて使っていなかった唐渡りの歙州硯をおろしていた。もの凄く粘性が高じた墨に蹂躙され、もはや金星すら、墨に覆われているが。
と、そこへ
「北の方さまがおなりです」
女房に先導されたふたりの母親が姿を見せた。
「唯時どの、おや、中将どのもおいでですね」
慌てて時頼は座を立とうとしたが、母に止められ、しぶしぶ小次郎と並んで端座した。
常になくにこにこと、不肖の次男坊に挨拶をした後、母ゆえに当然という顔で徳子は切り出す。
「して、姫からの返歌は?」
「それがその……」
小次郎が口ごもると、瞬時に母親の顔から笑みが消えた。
「唯時どの、そなた、ひょっとして」
「はい、実は、ま──」
「時頼どの!」
応えの途中からわなわなと身を震わせた北の方の鋒先が、突如、時頼に向けられた。
「そなたがついていながら、唯時どのは未だ後朝の歌をお送りしておらぬのかえ?」
「はっ、母親! わたしは宮中に」
「ああ、言い訳は結構」
長男を冷たくあしらうと、北の方は改めて次男に向き直る。
「唯時どの、何を惚けていやるのじゃ! 早う歌を詠まれませぬか。亡き大納言さまの姫君に後朝の歌も送れぬとは、父君やこの母に、いかほどの恥をかかせてくれるおつもりかっ?」
かくして、実母と実兄の監視の中、小次郎は得意ではない歌を詠まされていた。
「わたくしに、何のご用が?」
閉めきられた室内の暗がりの中で美夕姫は言った。静かな声音なのに、押し込めたような圧がある。
「……どういうつもりか、説明してもらおうか」
司王のほうも、冷静な表面を見せているが、込められた気迫が違う。結局、美夕姫が気圧されてしまった。
「それはいったい、何のことでございましょうか?」
「しらばっくれるな」
一喝して司王は真正面から従妹を睨む。
「……あなたらしくないことを、なさるのですね」
思えばこの従兄は拳骨などの暴力で美夕姫を支配しようとした事がない。それは彼女が拳には拳を返す、体が小さくても理不尽には屈しない対応を徹底していたから。年下でも、自らの正義に悖る言動には絶対に恭順しない性質ゆえに、理を諭せば解すると認識されていたからだ。
その従妹に威圧を放つほどの性急さである。
「……怒っていらっしゃるのですか?」
はぐらかそうと意図してではないが、つい確認してしまう。
「美夕姫」
常にも増して、司王の声が低くなる。
「前の式部卿の宮の養女のことを、俺は聞きたい」
余裕のなさに免じて、形式すべてを取っ払って美夕姫は応えた。
「麗景殿の女御さまの御母君が、源の中納言さまの三の姫でいらしたでしょう? そのご縁で京に送らせた白菊たちを綾子さまの女房にしていただいたのです」
「その女房が養女になったのか?」
「そうですわ」
「……美夕姫」
やや考えた後、司王は言った。
「俺は、おまえが白菊の新しい主人になるものと思っていたぞ」
「なにゆえに? 白菊の主は、生涯かけて水美だけでございます」
「だから血縁の、左大臣の北の方の女房にしたのか?」
「……わたくしが手配したわけではありませぬ。ただ、彌勒王にゆかりの者と知られぬようにと、小次郎さまと大将さまが、そのようにしてくださったのです」
小次郎の名が出て、頬が赤らむ新妻である。
「ふ、ん……そうか」
頬の火照りがさめるのを待ってから美夕姫は訊いた。
「直接に、前式部卿さまにお尋ねにならないのはどうしてですの?」
司王は応えない。
「下手に関心を示しては、ご養女さまの婿に望まれてしまうのではと思っているのでしょう?」
何も言えないのは、その考えが当たっているからだ。
「いっそのこと、そうなさればよろしいのに」
この娘は、なんと残酷なことを、なんと無造作に言い放つのか──!
司王の視線が殺気にも似た怒りに満ちる。
そこへ小雪が文を持ってきた。たちまち、喜びに笑む美夕姫にますますどす黒く苦い思いに胸中が染まる。
幸せの只中にいる者はそうでない者に対しては鈍感で悪辣だ……中を開いて読んだ美夕姫は、とまどったように瞬いた。が、次第に何ともいえぬあたたかな微笑が、目元口元を彩ってゆく。
憎いほどに輝く美夕姫の笑みを、さりとて壊すこともできず、司王は立ち去ろうとした。
「宮さまのご養女のお名前、ご存知ですか?」
彼のことなど意識外にしていたはずの女が声をかけてきた。司王が振り返ると、文しか見えていないはずの美夕姫は嫣然と彼に笑いかけている。
「……水美さまとおっしゃるそうよ」
その言葉の終わらぬうちに、司王は走り出していた。
得たりかしこし──文机に向かって筆をとりながら、美夕姫は幸せな気持ちをかみしめた。
〈三十四〉桜賀──さくらのが──
ということで新婚さんとネタばらしの回でした。
実際、どれだけ磨ったら墨が粘液化するのか実験まではしてないのですが、輸入品の高価な硯を(何かのお祝いでいただいたけれど自分の字の下手っぷりを知ってる小次郎くんは大事にしまいこんでいたんですね)ドロドロにしてしまうくらい、どんだけ考えてたんですかねぇ(笑)
ちょっとネットで見てみたのですが、現代でも墨だっていいものはお値段もイイです。それをあっちゅ〜間に消費しちゃって、結局、小次郎はお坊ちゃまなんですかね〜。
それはさておき、桜餅の季節です。
私が子供の頃、学校給食で出てくる桜餅は関東風(長命寺)でした。それが今や、コンビニや菓子舗に並ぶのは関西風(道明寺)です。保守的と言われる富山県で、いったい、どのような桜餅勢力争いが為されたのか!?
いや、どっちも好きなので、供給が安定してるなら、私に否やはございません( ^^) _旦~~




