〈三十三〉梓弓
七条の火宮家に主が揃った翌日、美夕姫は伯母である兵部卿宮の北の方の訪問を受けた。
「突然に、申し訳なかったことですね。何しろ、あまり悠長にも構えておけぬことですからね」
母のきょうだいで、一番に格式や貴族らしいふるまいに煩いこの女性が、美夕姫は少し苦手だ。一緒に遊ぶと、必ずといっていいほど梓の髪やら衣類がぐしゃぐしゃになるので、火宮の子供は乱暴者と眉を顰められていたからだ。
女房をすべて下がらせ、姪とふたりきりになると、らしくもなく性急に清子は前置いて言った。
「葵の君、あなた、おいくつになられましたか?」
「……尚侍さまと同い年でございますが」
当然、わかっていることを何をいまさら訊くのか、とは言わないが、きちんと数で答えないところに、伯母への警戒心が表れている。
「そう、ですよね……聞くところによると、あなたに左大臣家の若君とのお話があるそうですね、おめでたいこと」
「あ、はい……」
美夕姫の応えの歯切れが悪いのは、伯母の意図が見えてこないからである。人払いされたのをいいことに、対応を免れた兄が羨ましく、かつ、恨めしい。
「本日わたくしがこちらに参りましたのは、実はそのことであなたにお願いしたきことがあるからなのです、葵の君」
「お願い、でございますか?」
持ち得るかぎりの猫を身にかき集め、可憐なしぐさで首を傾げてみせると、伯母はうなずいて続けた。
「あなたと同い年だというのに、うちの尚侍はちっとも婚姻いたそうという気を起こしてくれぬのです。降るようにくるお文は山のように積み上げ、見向きもしません。亡くなったかたへの想いを大切にしたいからと」
その言葉に、美夕姫は内心、ひきつる。
「亡くなったかた……」
「火宮……建と申される、あなたの双子の兄上のことです」
「伯母上っ」
確かに、乱暴者認定される程度には建の姿で兵部卿宮の屋敷を訪れていた。そして、兵部卿宮家に火宮家の事情は公表されていない。つまり、兵部卿宮家の人々にとって、火宮建は故人なのだ。
思わず膝を進め、伯母との距離を詰めた。弱々しく首を横に振りながら、北の方は続ける。
「いえ、忌み子と謗っているのではありません。わたくしの妹が産んだお子ですもの、いとおしいと思う気持ちは当然に持っておりますよ。そして葵どの、あなたは……本当に、かの君と瓜二つでおられること」
「え……?」
いったい何が言いたいのだろう、益々、警戒を強める。
「以前はうちの橘王も似た面差しをしておりました。これは、わたくしたちの父方のお顔なのですよ。少し幼いようでいて、きりりと凛々しいのです。建どのの面影を追って兄に傾倒するのではと案じていたのですが、最近は橘王も面変りして宮に似ていらしたので、そちらは問題ないのですが」
「伯母上……わたくしに、何をお望みなのでございますか?」
とうとう、美夕姫は訊いてしまった。
「おお……葵の君、わたくしの願いをきいてくれると? ならば、そう、難しいことではないのです。いまいちど、建どのになってくれるだけでよいのです」
「ええっ?」
だいたいの見当はついてきていたが、それでもやはり、美夕姫は驚きを顕にした。
「わたくしが、建に?」
「葵の君!」
がばっと北の方が姪の手を取る。
「ただ一言、ただ一言、建どのを忘れて他の殿御と幸せに暮らすようにと言ってくださればよいのです。ただ一言、建どのを忘れるように、と」
「しかし、伯母上」
「あわれな従妹を、独り身のままにしておいてもよいと、あなたは思うのですか。愛し、愛され、子を産みいつくしむ、そんなあたりまえの幸せを、あの子に与えるのは嫌だと? 尚侍として地位を極め宮中の月読とまで称された梓が世間に誹られ、笑いものにされても、あなたは平気だと?」
賢女として名を馳せるわけではないが、兵部卿宮の唯一の妻として他者を寄せつけぬ女である。あれやこれやと心理をつき、美夕姫の感情を一気に罪悪感へと流しやる手管はさすがだ。
泣き落としに嵌ってはならぬと気丈に意識を保とうとするのだが、やはり建であることを隠している後ろめたさから断れないと美夕姫は観念した。
「……わかりました。わたくしに出来うる限りのことを、いたしましょう」
その後の伯母の段取りに、してやられたと察するがもはや遅かったことを痛感した美夕姫であった。
三日後──夜半。
水干姿で美夕姫──火宮建は、五条にある兵部卿宮邸の門をくぐった。清子は抜かりなく手筈を整えており、警備の者も都合よく場を外れている。さらに女房たちも下げられており、梓のいる対屋はほぼ無人だった。早緑が無言で示す局に、音もなく建は進入した。
「あずさ……梓!」
少しだけ意識がぼやける薬湯を飲ませると伯母が言っていたせいか、梓の眠りは深い。声を低く抑え、そっと揺り起こすと、おぼろげに梓は目を開けた。
「ん……なぁに、早緑? わたくし、まだ、眠くてよ?」
意外にもはっきりと話すが、とろんとした目元が睡魔の支配下にいることを示している。つまりこれは半覚醒状態──有り体にいえば、寝ぼけているのだ。
「んん? だぁれ? あなた、早緑じゃない……」
「わたしだよ、梓」
折良く開いた遣戸から差す月光が建の姿を照らしていた。くっきりと浮かび上がる若き公達を、素直に梓は受け入れる。
「……建さま!」
多少抵抗を感じるものの、にこりと建は笑みを浮かべた。
途端に覚醒したかのように梓の視線がしっかりと建に固定される。
「生きて……生きていらしたのね」
吐息でささやくような声に、何となく視線をそらしてしまう。だが、梓が抱擁を求めて伸ばしてくる腕が見えたのでやんわりと回避する。
「どうして? なぜ抱きしめてくれないの? 建さま、それともこれは夢なの?」
「そうだよ、これは夢。いまここにいるわたしは、現実の者ではない。梓を抱きしめて、慰めたり安心させてあげられる存在じゃないんだ」
「そんな……」
口元に手をやり、身動ぎひとつせずに梓は建を見つめた。
「伯母上が神仏に盛んにお祈りなさったというのを聞いたんだ」
「え?」
「梓が誰とも契りを結ばないと言っていると。誰にも想いをかけない生き方をするのだと……それでいいの、梓? そんなの、淋しいよ? 全然、楽しくないよ? 誰かと笑い合って生きるほうが、絶対いいよ」
「それでわたくしを説得しようと、ここへいらしたの?」
建はうなずく。
「わたくしの心には、あなただけ。誰が何と言われようと、わたくしの心はあなたのもの。神仏のおわす世からおいでになったのならば、どうぞわたくしをそこへお連れくださいまし」
「梓……」
泣き伏してしまった梓に、思わず建は手を差し伸べてしまった。
「……あたたかい……?」
その手に触れた梓のつぶやきに、はっとなって手を引っ込める。
「ぬくもりでさえ、わたくしにはいただけないの?」
じっと目に涙をためて見つめる梓から目をそらし、建は言った。
「ずっと想っていてくれたことは、嬉しいよ。でも、だからこそ梓にはきちんと誰かと子をなし、幸せになってほしいと思っている。それはわたしが梓にあげられる幸せじゃないから。わたしのことは忘れて。どうかわかってほしい、梓」
「でもあなたは、他の誰にも残せない美しい思い出をくれたわ。わたくし、きっと一生、忘れないわ」
「忘れられないなら、それでもいい。だけど、梓は──」
そのとき、建は梓が静かなまなざしで自分を見ていることに気づいた。
「なに?」
「……わかりましたわ」
しんみりと梓は言った。
「えっ」
「お母さまのご希望にそえるよう、やってみます。でも」
「でも?」
「ひとつだけ、わたくしの願いをかなえてくださる? そうしたら、あなたのことをずっと思い出として大切に心の奥にしまっておけるから」
「梓……」
妙にしっかりとした従妹の言葉に、どう応えたものか判断に迷う。まだ、夢の中でおぼろな記憶に収まるものか、現実として残ってしまうのか──。
「かなえていただけましょうか?」
ひとつ息をつき、尋ねる。
「……願いは、何?」
「わたくしに……接吻してくださいませ」
恥じらって顔を袖で覆った梓をまじまじと見る。
からかわれてるわけじゃない、よね? 伯母上、いったい何の薬湯を飲ませたの? これ、まったく効いてないのでは? ──逡巡したのはどれだけだったか、ややあって建は言った。
「……いいだろう」
「ええっ?」
素で驚いている様子はどう見ても夢うつつという感じではない。それでも、夢の中でのこととしてすませてくれようという梓の気持ちに応えるのは悪くないように思えた。
「さ、目を閉じて」
ためらいがちに瞼を閉ざす頬が紅潮している。冷やりとした建の手が頬にそっと触れ、梓は身を固くした。
やわらかなものが額に押し当てられ、優しい手が髪を撫でてくれる。
「建さま……」
そのまま建の肩口に顔を寄せられ──つまり梓は抱擁された。
「……梓」
髪を撫でる手はいつしか下がり、梓の背中を撫でている。
「梓、大好きだよ。どうか……どうか、幸せに」
そのまま梓が眠りにつくまで、建は抱いていた。
会話が交わされなくなり、梓が完全に寝入っているのを見計らって局に入ってきた早緑の手を借りて寝具に横たえる。
「……後はわたくしが」
できた女房の言葉にうなずき、美夕姫は簀子縁に出た。
「……気づいていて、あんなことを言ったのかしら?」
ひとりごちながら歩いていると、中年の女房に手招きされた。ついていくと、清子が待っていた。
「……ご首尾は?」
ため息しか出ない気持ちで応えた。
「尚侍さまは、わたくしだと気づいたかもしれませぬよ」
頼まれたように幸せになれ、とは言えた。良縁を世話されるなり、自ら恋人を見出すなり、それは美夕姫が関知することではない。
辞去の挨拶をすると、伯母に呼び止められた。
「あ、これ。このような夜中に」
「ご門前に車を待たせております。どうぞ、ご心配なく」
そのまま立ち去ろうとして、ふと美夕姫は足を止めた。紙と筆を所望し、さらりと一筆したためる。
「目が覚めたら、尚侍さまにお渡しください」
文を伯母に預けて宮家を後にした。
〈三十三〉梓弓──あずさゆみ──
ということで、梓へのデコちゅう(´ε` )のお話でした。




