〈三十二〉月下
愛島を船出した夜のこと──ゆかりの荘園のある小島に立ち寄り、港に停泊した安全性から伊吹丸では簡単な月見の宴が催された。単純に下船の手間を省き一夜を過ごそうとしただけなのだが、主家の船人をもてなさないわけにはいかぬと荘園から心ばかりの馳走と酒が届けられたからである。
船には帰京する者たちが乗っていたが、そこに司王と隼の姿はなかった。阿修羅王としての会談が続いていたせいもあるが、何より、司王が帰りを急いでいない態度を見せていたこともある。
「なぜかしら?」
月見といいつつ、船倉での宴だ。少ない酒を等分に味わう男たちを几帳の陰から確認すると、そっと美夕姫は階を上がって甲板に出た。肌寒さに被衣を掻き合せる。
「もうとうに気づいているはずなのに」
「どうされました?」
つぶやきに小雪が応える。
「ええ、少し、気にかかることがあって」
きちんと納得いくまで考えないと美夕姫は相談さえしない。主をよく知る女房は、その先を問い質したりしない。
「小次郎どののことですか?」
代わって怜悧な声が尋ねた。
「え? 由岐、いえ、怜行さま」
いつの間にやら、元服して怜行と名告るようになった由岐丸が美夕姫の背後にいた。
「あなたにその名を呼ばれると何やら面はゆい感じがするな」
一端の貴公子のようにゆったりと怜行は微笑む。
「わたくし、小次郎さまのことを考えていたのではありませんわ」
とはいえ、美夕姫の頬はほんのりと色づいている。
「では誰のことを? わたしのことならば嬉しいが」
年下でありながら、溢れ出るような余裕に飲まれぬよう、とっさに美夕姫は気を張る。
「司王のことです」
「羅王どの?」
怜行は表情を改めた。ふんわりと風流を楽しむ姫君ではなく、交渉相手に対するまなざしを向ける。
「なにゆえ、彼のことを?」
「怜行さまはおかしいと思われませんの? あの無駄に勘の良い司王が、わたくしたちのしたことに気づいていないはずがありません」
「……水美のことか?」
「ええ」
「あなたが気にされることはない」
「でも」
「美夕姫」
なおも言いつのろうとする美夕姫を怜の声が制した。これまた、いつ甲板へ出てきたのか、接近に気づいていなかった。
「お兄さま……」
「もう休んだらどうだ?」
「あ……は、い」
不承不承ではあるが、女房を連れて美夕姫は船室へと下りてゆく。
「……怜どの」
完全にその姿が消えたのを見届けてから、少年は口を開いた。
「羅王どのに、何か言われましたね?」
「え?」
訝る男をじっと見つめ、怜行は質問を重ねる。
「彼は、いつ京に戻ると?」
「怜行どの?」
どうやら韜晦しているわけではないと見極め、怜行はほっと息をつく。
「あなたに話していないところをみると、どうやら羅王どのはまだ全容を掴んではいないようだ」
「何のことだ? 怜行どの」
「いや……京に着けば、おわかりになりますよ」
曖昧にぼかし、怜行は月を見上げる。
「……時に怜どの」
「うん?」
「怜どのは美夕姫どのと小次郎どのとやらのこと、認めておられるのか?」
まるで忘れていた齲歯の痛みを思い出したような顔で怜は少年を見た。
「もしわたしが、美夕姫どのを妻にほしいと、いま望んだならば」
「怜行どの、冗談は」
「冗談ではなく、真面目に問うておるのだ、怜どの」
「怜行どの……」
前伊予守の妻は少納言の娘だったと聞いたことがある。ならば彼はそれなりに都の姫君というものの在り方を見ているはずだ。島で生きる女衆とは異なる様式美のようなもの、それを怜行は求めているのだろうか?
「あー、その、美夕姫は……」
はっきりいって、あの妹にそれを求めるのは意味がない。たぶん、小次郎はそれを理解している。
「こんな言い方で通じるか知らんが、普通の姫とは違う。そこのところをわかったうえで求婚するのであれば、俺に否やはない。そして、その美夕姫が選んだ相手ならば、誰であろうと俺は認める」
さすがは小次郎、我が友よ。怜行を前に言葉にすることはないが、そこは互いに誇らしく感じている。
「は、ではダメだ。美夕姫どのはすでに小次郎どのを選んでおるようだからな」
投げ出すように言うと、船べりに腕をついて怜行は月を仰いだ。
「怜行どのならば、他にどれだけでも似合いの娘を得られように。そうだな、藍良どのなど、年まわりも良いのではないか?」
ぶはっ、と怜行が咽る。
「あっ藍良ぁ? どっどうして、あんな暴れ者の名が出てくるのだ。だいいち、左源太がくれるわけがない」
「なぜに?」
「なぜって、藤堂の親父もあれを秘蔵の玉のようにかわいがっておるし、だいたい、藍良はあなたに懸想していたようだし、わたしは……」
「藍良どのが俺に?」
「そっそうだ」
裳着も迎えぬ童に想いを寄せられていたと聞いたところで、怜には藍良は友人の妹という認識しかわかない。
状況は小次郎と美夕姫の関係と相似なのたが、はたしてあの友は、あの妹のどこをどうしてそうなったのか──考えれば考えるほど、不思議としか思えない。
「はぁ」
つい、ため息がもれた。
やはりそれ以外、反応できなかろう、とでもいうように怜行も息を吐く。
そのまま、ふたりは気まずげに月を振り仰いだ。
「……怜行どの」
ややあって、怜が切り出そうとすると、船室からの高麗笛の音が声に重なった。誰かに乞われて小竜を吹いているのか、ほんわりと澄んだ音色が月光をまとい場を聖めていくのを感じる。
「また無意識に……」
どうやら浄化が発動しているようだ。つまり、美夕姫は未だ火神矢の巫女なのだ。友のヘタレっぷりを兄として歓迎するべきなのか、同じ男として鼓舞するべきなのか、怜は決断できていない。
「あ、いや」
呼びかけた続きの言葉を待つ怜行の視線に、そっと首を振る。
「何でもない。俺も下へ戻ることにしよう」
小次郎がいれば美夕姫が他の男を夫として選ぶことはない。いくら彼が恩義を感じている修王の長子で、弟のように思うようになっている由岐丸、いや怜行でも、こればかりは叶えてはやれぬ望みだ。とはいえ、その想いそのものは尊い……そのままに受けとめ、歪まぬ彊さを捨てないでいてほしいと思う。
怜の後ろ姿を見送りながら、怜行は己の若さを痛感していた。自分がもっと大人だったら、迎えたい姫の親族に対して取るべき、為せる方策はまだあったはずだ。しかし、相手は笛の音だけで月光を浄化の光に変えてしまう巫女姫なのだ。いまの自分では……足りないと素直に認められた。
月に挑むくらいの気構えが必要だ──。
かすかに嗤って怜行はつぶやいた。
「本当にどうしても美夕姫どのがほしければ、攫うこともできたはずだ。たとえ、かのひとが嫌がったとしても。だがわたしはそうしなかった。なにゆえに……まだ機はあると思うからか? それとも……」
いつしか笛の音は止んでいた。怜行は月光と共に降る清浄な気の余韻を全身で受けとめるように甲板にごろりと寝転がる。軽く閉じた目のまぶたを通してやわらかな、明るい月の光を感じる。
どのくらいそうしていたのか、ふっと光が遮られた。怜行は目を開く。雲が月にかかったせいではない。
「起こしてしまいましたか」
左源太が覗き込んでいた。
「いや、目を閉じて……考えごとをしていただけだ」
しなやかな動きで身を起こす。
「それほど飲んでおられなかったようでしたが?」
「ああ、酔うほどは飲んでいない。美夕姫どのを口説くつもりだったからな」
「なるほど。で、ご首尾は?」
「……怜どのが同席されておってな」
貴族社会的には、まず家長に申し込むものなのだろうが、彼らの流儀では本人同士が気持ちを確かめ合うのが先だ。想いを伝えることすらできていない状態では、まるっきり進捗していないも同然。
「それでその怜、どのは?」
快諾とはいえないな、という表情に、左源太はかける言葉もない。
「下はもう全員潰れたのか?」
「それほど量は出しておりませんので」
用意の酒が切れたので宴はお開きになったようだ。次は難波の港での送別会か。
「なあ、左源太?」
「何でござろうか」
「おまえも……誰かが藍良を妻にくれ、と言いだしたら、即決で断るのだろうな」
「は?」
まあ、そうだろうなというのは想像に難くない。彼だって、妹に言い寄る男が現れたら誰だろうと、とりあえず排除の方針で動く。先程、怜が名を出したのは、年頃の娘を藍良しか知らなかったからで、特にふたりを娶せる意図があったわけではない。左源太も、怜行を妹に集るハエ認定していない。
現時点はまだ、だがな。
少なからずの苦い思いに、怜行は口元をわずかに歪めた。
〈三十二〉月下──げっか──
直接の場面は書いていませんが、現代社会のルールでは未成年の怜行(元服した由岐丸)が飲酒したと思われる描写があります。
重ねての言い訳になりますが、この物語は平安時代のお話なので彼は成人という認定です。
なので良い子の皆さんは、真似しないでくださいね!
2025年現在の日本で15歳は未成年ですから!
絶対ですからね!




