〈三十一〉佐保姫
「たっ旅人、おまえ……」
「怜……」
「兄上、わたしが……おわかりになるのですね」
三人としては、いきなり顔を合わせて旅人に衝撃を与え、驚いたことで何らかの記憶を取り戻すきっかけになりさえすればよかったのだ。ところが、旅人は予想以上の反応を示した。それも、怜としてである。
「兄上……」
自分の胸に、顔を埋めて泣く美夕姫に、男は戸惑う。物心ついた頃には妹は、こんな風に手放しですがり泣くような可愛らしい子供ではなかった。
姿かたちは清けき、神明に仕える童子を思わせる美しさではあるものの、その性質は生意気な少年であった。そうでなければ戦えなかったのもある。武芸に優れた侍たちでさえ怯むようなおぞましき異形のものや変化した気味の悪い蟲ども、それらに立ち向かうようになった建は泣かなかった。兄たちができることは自分にもできる、そんな自信にも似た気構えで野を行き山を越え、谷を渡り矢を打つ。時には、司王と並び崖に立つ彼らに遠慮して、恥ずかしげに茂みに入っていくことはあるものの、それ以外ではまごうことなく弟だったのだ。
それがいま、彼の腕の中にすっぽりと収まり、震えながら泣いている。何だか、やわらかな、さわやかな匂いがする──小さな頭から滑らかな髪をそっと撫でながら、つい言ってしまった。
「……すまん、許してくれ」
「許せ、とは? 何のことですか?」
ようやっと顔を上げて美夕姫が問う。淑やかな姫らしい風情に見えるのに、毅然とした話しぶりが建に戻っている。素を偽れない正直さに内心は苦笑しつつ、居住いを正して怜はがばりと手をついた。
「左源太……司王にも美夕姫にも、すまぬことをした。俺はもう、忘れ病ではないのだ」
「兄上……」
指先で涙をぬぐっている美夕姫に、小雪が懐紙を手渡す。
「小雪まで……すまぬっ!」
打ちつける勢いで頭を下げ、怜はその頭を上げようとしない。
「……いつから記憶を取り戻していた?」
思いがけぬ静かな口調で左源太が訊いた。
「阿王どのを迎えに坂東へ向かう船中でだ……」
「京に、帰るのか?」
「いや、俺は……」
言いかけて美夕姫と視線がかち合い、口をつぐむ。
「怜さま」
地を這うような声で乳兄弟の妹が話しかけてきた。
「わたくし如きが申しあげるようなことではございませんが……」
妹の乳姉妹でもあるこの娘は、主人に引きずられがちな気の弱い少女だと思っていた。だが、その母である彼の乳母を彷彿させる抗いがたい重圧を感じる。
「女性の身であなたさまをお捜ししようとここまで参られた美夕姫さまのお心、どうかおわかりくださいませ。そのために美夕姫さまは小次郎さまと」
「小雪っ」
慌てて美夕姫が制したが、構わず小雪は続けた。
「思い合っておられる小次郎さまと、お別れ、になって、ま、で……」
ぐしぐしと涙と鼻水があふれ、小雪の言葉が止まる。
「美夕姫、小次郎と?」
「……兄上と共に京に戻ったあかつきにはきっと、と……」
無理をして微笑んだ美夕姫であったが、涙が一筋、こぼれてしまった。目をそらすことすらできずそれを見つめ、しばらくの後に怜は言った。
「司王、俺の代わりに美夕姫の兄として小次郎とのこと、引き受けてはくれまいか」
「お兄さま……」
「……没落貴族の娘のひとりやふたり、面倒をみることはできるな、俺も橘王もヘタレ侍従どのもな」
まだ没落まではしておりませぬ! 美夕姫主従の心の叫びに目元を眇めて口止めとして、司王はゆっくりと言を継ぐ。
「これだけの美貌だ、放っておいても男は集る。ヘタレていようといまいと、誰だろうと気に入ったやつと好きにさせればいいさ。だがこれはあくまでも美夕姫の話だ。わかるか?」
怜には司王が何を言っているのか、わかるようでいてわからなかった。ヘタレとは何なのだ? 左源太にもわからない。美夕姫と小雪にはわかったようで
「ヘタレじゃない!」
「ヘタレですね」
小声での応酬が交わされる。と、そこへ
「お話中、ご無礼いたします」
隼が入ってきた。
「京からの消息です」
静かに告げて巻紙を小雪に手渡す。
「京から?」
確認の手間すらかけず、直ぐに小雪の手から取って美夕姫は文を読んだ。美夕姫たちの乳母佐久からのものであった。
すばやく目を通し、無言で美夕姫は司王に渡した。こちらもさっと読み、また尋ねた。
「怜、おまえ本当に京に戻る気がないのか?」
「ない」
妹からの視線を避け、きっぱり言い切る。
「兄上、なにゆえに?」
瞬時にして揺さぶられ、否応なしに美夕姫と目を合わされ、強引に怜は目をそらす。
「わかってくれ、美夕姫。俺はもう、都で暮らすわけにはいかぬ身なのだ」
「ちょっと待て」
さらに言いつのろうとする怜に左源太は言った。
「それはどういう意味だ? 一度海賊のメシを食ったからには、もう出世もままならぬということか?」
「そんな……そんなことではない! だいいち、俺は出仕なぞしておらぬ、無位無官だ。いまさら、この年で出仕したところで」
幼き頃につきあいのあった令息たちは、皆それなりの役職への道を進んでいる。為すべきことも、やりたいことも見いだせずふらふらしている自分につきあってくれているのは、自らも出世欲のない気のいい幼馴染ひとりだけ。
「小次郎さまは、出仕なさいましたわよ」
それはおそらく、自分を娶り、何不自由ない生活を約束するためであり、大切な妹を守れる地位を確立するためなのだと美夕姫は察している。すべてをかけて、自分と生きてくれようと、決めてくれたのだ。
「お兄さまのお身柄を後見してくださるおかたも、おられます」
出遅れたくらいが何だというのだ。ざけんなよ、てめぇ真面目にやれよ──だんだん、美夕姫は腹がたってきた。やることをやっておきながら、放置し、そのうえ働いて養うのは嫌でおじゃります、だと?
「しかし、俺は」
まだ怜は目を合わせない。
「俺は、引き止めはせんぞ旅人、いや、火宮怜どの」
「左源太」
「何も死に別れるわけではない。それに、修王どののように、いずれこの辺りの国司となることもあるのではないか?」
「いまさらだから何だというのです? お兄さまには、是非とも火宮家の生計を立て直していただかなければなりません。わたくしのために、ではなく」
「美夕姫?」
「わたくしは、自分でどのようにでも生きてゆくことができます。ご存知でしょう? でも、お兄さまを頼みとするより他に生きてはゆけぬおかたが、おられますよね? お兄さまに」
「明姫のことかっ?」
怜が美夕姫の言葉を遮った。
「どうして、あれのことを知っている?」
「お兄さまこそ、どうしてわたくしが明姫さまのことを言っているのだと思われましたの?」
「美夕姫……」
兄と妹は、しばらくお互いを見合っていたが、目力を落とすことなく美夕姫は言った。
「兄上、どうぞ、明姫さまのために京へお戻りください。姫は……七条に来ておられます。ずっと、お兄さまを待っていらっしゃいます」
「明姫が?」
怜は驚いた。大和にいるとばかり思っていた妻が京に、しかも自分の家にいるとは!
「佐久が明姫さまのことを知らせるために送ってきました。お読みくださいませ」
司王の手から巻紙を取り、美夕姫は怜の手にそれを持たせた。
「さあ! 兄上!」
妹に圧されて文面に目を走らせ、怜は驚きに目を見開いた。
「お兄さまをお待ちしているのは明姫さまだけではございません。佐保姫さまと佐保彦さまがいらっしゃるのですよ」
「ほぅ、佐保姫と佐保彦か」
美しく季節にまとめたな、と司王がうなずく。怜は微動だにしない。声も出ない。
「佐保姫?」
なぜここで急に春の女神の名が出てくるのかわからない左源太が小雪に目をやるが、唐突すぎて小雪も何の喩えだろうと考えるばかりで応えられない。
「お兄さまのお子たちですわ」
にこやかに美夕姫が告げる。
「あっ」
ようやっと小雪が理解する。
「なんと! ふたりもいるのか?」
未だ独り者の左源太が少し怯むと
「双子だ」
想定を司王が補足した。
「双子?」
ほにゃほにゃ泣く生きものがふたりもいるのかということに左源太は驚いたのだが、一般的な畏怖や忌諱を否定するために司王は付け加えた。
「あ、いや、双子といっても、火宮家では一代に一回は必ず生まれるのだ。俺の母もそうだったし、美夕姫もそうだ」
「美夕姫さまも?」
「はい」
何の屈託もなく、美夕姫はうなずいた。
「双子の片方は幼いうちは破魔の巫女となる。そして役目を終えると消える。だから火宮家の双子はむしろ生まれてくれないと困るのだ」
「うむ」
「……俺の、子……明姫が、生んでくれた……」
その頃になって、やっと怜の口からつぶやきがもれた。うつけたように繰り返す。
「そうですわ、お兄さま。春に生まれた佐保姫の申し子です。明姫さまと京で、お兄さまを待っているのですよ」
「そうか……そうか!」
頬を、涙が伝っていた。言わずもがな、嬉し涙だ。
「……左源太」
ぐいと拭い、怜は声をかけた。
「帰る気になったか」
深く、うなずく。閉ざした目からは、また一粒、二粒と熱い涙がこぼれ出ていた。
〈三十一〉佐保姫──さほひめ──
はい、「龍田姫」に対応しての「佐保姫」でした。
うん?怜にいちゃんは反抗期こじらしてたんですかね?
美夕姫さんは素に戻っていると建のときのように「兄上」、落ち着いて猫が被れているいるときは「お兄さま」と呼んでいるような気がします(笑)
今、思い出しましたが怜にいちゃんの名前は『ドカ◯ン』の里中から採っています。漢字は変えていますが。彼はめでたくサッちゃんと結婚できたようですが、山田太郎に嫁は来たのでしょうか?(2回くらい、話題が出たけど、その後どうなったのか覚えてないです)




