〈三十〉旅人
「何、と言われましても……」
どう答えてよいものやら、美夕姫は言葉に詰まった。藍良はきりりと表情を引き締め、揺るがぬ目で美夕姫を見上げている。
横合いから司王が言った。
「妹、と答えればよかろう」
すると、少女は今度は司王を見据え
「妹? 妹って、じゃあこのひとは旅人さまと妹背なの?」
「「いっ、妹背ぇ──っ?」」
思いがけない認識に、美夕姫と小雪の声が揃う。
「いや、同じ親から生まれた兄と妹だ」
きわめて冷静に司王は訂正する。
「そ、そっかぁ」
ほっとしたように藍良は視線を緩めた。
その頃、愛島へと向かう二隻の船があった。坂東一円を取り仕切る賊の長阿王を迎えに行っていた日照丸と月照丸である。
月照丸の上にて──
「旅人どの」
「はい、何か?」
船尾から舳先へと向かうところを阿王に呼び止められ、男は振り向いた。
「何度も訊いてすまぬが、愛島まで、あとどれくらいかのう」
男は普段は陸地──原野や山道やらを馬で駆け、獣を狩り、強欲な物持ちの荘園を襲撃したりする暮らしをしている。船旅は落ち着かないのか、あと何日乗っていればいいのか、よく尋ねてくるのだ。
「あと二日ほどかと」
気にする様子もなく旅人が教えると
「そうか。ここまで来れたのもおぬしのおかげだ、旅人どの」
阿王はにっかりと破顔する。
「いや、なに」
「修王どのが重用するはずの御仁だ」
「阿王どの、俺は」
旅人が謙遜するが、阿王は続けた。
「ますます、羅王どのと引き合わせ、並べて見とうなった。と、羅王どのはすでに愛島に着いておるかのう」
「おそらくは」
果たしてそうであるのか、正しくは旅人も知らない。彼が愛島を船出したのは羅王を迎えに出た伊吹丸が島に戻る前であったし、かなり予定が遅れていた頃だった。
「ははは、愛島に着くのが楽しみだわい」
笑いながら阿王は船室へ降りてゆく。
その後ろ姿を見送り、旅人はため息をひとつ、ついた。
「羅王、か」
記憶をなくした旅人が左源太に助けられ、愛島で暮らすようになったのは、彼が羅王と似ていたからだ。
「会えば俺は……旅人として生きてゆけるだろうか」
ひとりごちて、思索を深める。
できるかもしれない──だが、美夕姫はどうなる? 放っておくのか? 妹ひとりを、京の屋敷に。
いや、小次郎がいるではないか。
あいつならば、美夕姫の日々の生活の面倒くらいはみてくれるはずだ。
幸せに生きられるかどうかは──あれも男だ。寄る辺ない心さびしい女を、妻としていつくしむくらいはでき……でき……できるのか?
いいやつだ。
気立てが正しく、根性いやしく媚びへつらうことなど微塵も考えない、真っ直ぐな男だ。
だからして、兄である自分の許しを得ないまま妹に手を出すなど…………
ああ、もう、そうだとも!
断言できる!
俺がいないあいだに、あいつは、美夕姫に言い寄ったり、ましてや妻問したりなんか、絶対しない。そもそも、求婚の歌が詠めない! きっと、手だって握れまい!
あいつは…………超恋愛初心者なのだ!
「ああっ」
とうとう旅人は頭を掻き乱した。
記憶は、とうに戻っている。それを、未だ思い出していないようにふるまって彼は、火宮怜は、愛島で生きてゆこうと思っていたのだ。
京の都に残してきた妹のことを考えると、気持ちは揺れた。そしていま、愛島に彼の従兄だと思われる羅王が来るのだ。なまじ記憶が戻っているだけに、従兄まで欺かねばならぬ仕儀に、彼は苦悩した。
「司王は、俺の虚偽を見抜くかもしれん」
声に出してつぶやいて、彼は自分で驚いた。
従兄が彼が記憶喪失を装っていることを見抜く。そうしたら、どうなるのか。
もはや、思惟はとりとめなく拡がってゆく。
「司王……小次郎……建……」
親しく、大切な者たちの名を口にする。
「建? いや、あれは姫だ、美夕姫だ。俺の妹、葵屋敷の葵御前だ……葵か」
いつだったか、寝言に「葵」と呼んでしまったときのことを思い出した。左源太がひどく複雑な顔をしていた。低く、笑い声が漏れた。何がおかしいのか、わからないが彼は笑っていた。
「くっ、俺の妻の名ではないかと左源太が真顔で問い詰めてきて、他にも何か覚えてないかと、ものすごい剣幕だったな。俺の妻は明姫だと、いうの……に?」
生まれて初めて愛しいと思ったひとの名を口にして、彼の笑いは止まった。
「明姫……」
たかだか、国司の娘であった。が、彼にとって明姫は、いや、明姫にとって彼は、大いなる幸福そのものだった。
「姫のことを、美夕姫にも小次郎にも、話していなかった……」
迎えに行く日まで、明姫が自分を待っているという確信はあった。ならば、妹にも友にも教えていない妻と──大和守には申し訳ないが、愛島で暮らすのもありなのではないかと思いついた。
そこまで考えてやっと怜は人心地つく。
司王が、自分の記憶が戻っていることに気づいたならばそれはそれでいい。あれは口の固い話せる従兄だから、却って美夕姫のことを頼めるなら好都合だ──気楽といえば気楽、いい加減といえばいい加減な状態に気持ちが定まり、旅人は愛島への船中を過ごした。
その日の愛島は、島中が興奮したような熱気の渦に包まれていた。阿修羅王という三人の賊の長が揃うのだ。大がかりな宴の仕度に追われ、島人は活気に満ちあふれていた。
「あの、もし、藍良さま?」
忙しい最中なのに、港は人だらけだ。藍良と共に日照丸・月照丸が着くのを見に出てきた小雪であるが、あまりの人の多さに藍良とはぐれかかり、堪らず情けない声が出る。
「んあーもう、何やってんの、小雪さん」
振り返って確認すると、藍良は小雪が追いつくのを待ってやった。
「ご、ごめんなさい」
「ま、いいけどさ」
それでもなんとか、人波に流されないよう立ち位置を確保する。やがて接岸した月照丸から降りてきた人を視認すると、小雪は船に背を向けた。
「もういいの?」
藍良が訊くと、足を止めて小雪は応える。
「ええ。藍良さま、あとはよろしゅうお願いします」
「うん、わかってるよ」
「それでは」
小雪は美夕姫のもとへと帰路を急いだ。
「左源太、おまえ、女を連れ帰ったというのは、まことか?」
修王の館を辞して自分が部屋を与えられている左源太の家へ向かう途中、旅人は大男に訊いた。びっくりした風を装い、左源太は応じる。
「えっ、どうしてそれを?」
「さっき、藍良どのが教えてくれたぞ」
「藍良ぁ〜」
「帰りが遅いと思っていたら、そういうことだったのか」
修王の館で旅人が羅王と対面することはなかった。そのせいか、思いがけず得た情報に、つい旅人は軽口を叩く。
心の中で数をかぞえ(藍良から厳しく数を指定されていた)、おもむろに左源太は切り出す。
「旅人……会うてみてくれぬか」
「はあ? 会う? 俺が、おまえの女にか?」
「うむ」
何かやらかしてしょげているのか、うなだれているように見える左源太に、旅人はにやりと口元だけで笑う。
「いやか?」
藍良の指導は絶妙だ。くすんと顔を上げ、左源太が言うと、旅人は笑いをひっこめる。
「いいや、会ってもよいのか?」
俺のほうに惚れてしまったらどうする、という揶揄を含めたまなざしで訊くと、それに気づいているのかいないのか、飛びつくように左源太は反応した。
「無論のこと。会うてくれるのだなっ」
旅人の手を引き、急かすように足を早める。
家に着いてもなお、左源太は歩みを遅くしようとはしない。
「こっちだ」
さすがに手を引くのは止めているが、簀子を踏み抜くような勢いで旅人の部屋の方へと進む。
「さあ、旅人」
なぜ自分の部屋なのか、疑問に思いつつ足を踏み入れた居室で、ひやりと旅人の背に汗が流れた。室内には三人の男女がいて、そのうちのひとりが司王だった。
「っ!」
とりあえず、たたらを踏んで勢いを止めたように見せかけ、驚きを隠す。残るふたりは女だ。ちょっと布切れが古びた几帳の陰に女房と思しき姿とその主人らしい滑らかし髪の女──まるで貴族のように、艷やかな黒髪が几帳の幅を超えて流されている。
──まさか、どこぞから姫君を拐ってきたのか?
厄介な女を連れ帰ったものだと左源太を睨むが
「おう、羅王どの、ここにいたのか」
まったく気に留めない様子で旅人をぐいと押し入れ、左源太自身も局に入った。どすんと司王と向き合う位置に腰を下ろし、紹介にかかる。
「旅人、こちらが羅王どのだ。何と、京でとある官職にお就きの殿上人さまだ。羅王どの、こやつが旅人だ」
司王が何も言わず軽く頭を下げたのに対し、旅人は激しい動悸に見舞われ、どうにか体裁を取り繕った。
「さて姫君、これは俺の友がきゆえ、出てきて挨拶などしてくださらんか」
やっぱりどっかの姫君か!
ひきつる旅人の内心など知る由もなく、左源太の声に応えて女が几帳の陰から出てきた。袖几帳をしながらも、優雅な動きで膝行する。そのまま頭を下げるのかと思いきや──女は潔く袖を下ろした。
冴えた冬月のような清かなるその風情。
あまりにも身近すぎて、それを美しいと思うこともなかった怜は、いま初めて、その美しさに嘆息した。
「美夕姫……!」
その名が口をついて出る。
あっ、と思ったときには、彼の腕の中には美夕姫がいて、その胸にすがって泣いていた。
〈三十〉旅人──たびと──
兄ちゃん……やっちまいましたねぇ
妹のフライングボディアタック(もどき)はさぞや強烈に炸裂したものと思われます♪
友にまでヘタレ認定されている小次郎くんですが……ちゃんと手を出してますよ?(笑)
そういえば、初稿を読んでくれていた友人にちらっと現在の連載の感想を伺ったのですが男性陣はやっぱり「ヘタレ」と言われていました(笑)
昔はそれなりにカッコいいキャラとして書いていたつもりだったんですが……若気の至りでした。
「認めたくないものだな、若さゆえの過ちというものを」
まったくそのとおりですね、シャア・アズナブルさん。




