〈二十九〉藍良
愛島は安芸国よりは伊予国に近い小島である。
神代の初め、二神による国生みの折に天沼矛より零れた小さな雫が綺麗な真円に近い形状となり、それを見た女神が
「あなめぐし、かわゆきことぞ」
(まあいとおしい、可愛らしいわ)
と宣い、嬉しげに微笑まれたゆえにそう呼ばれるようになったと古くから伝えられていた。
神話的な故事はともあれ、平安の世においてその島は、先伊予守である柳沢素親が所有する荘園の一つで、現在は住処となっていた。
島に拠点を置くことにおいては彌勒王と同じであるが、肝心なことには、先の国守どのは島民ばかりでなく、近隣の領民や現伊予守の信頼を得ていた。元来が利を求めるがための海賊行為ではなく、その害を断つ水軍としての役割が大きいゆえだ。だからこそ、伊予守は目溢しをしている。
港は帰還を喜び集まった者たちでごった返していた。伊吹丸はすでに目前まで入ってきている。
人混みを上手くよけながら、何とか藍良は前に出ようとしていた。
「藍良さまぁ、無理だよぅ」
「無理なことあるもんかっ」
袖を引く小さな手を逆にはぐれないように引っ掴み、藍良は微進した。水干を着ているが、少女であることを周りは皆、知っている。年は十四になる。
「早く帰らないと、またおっ母さまに説教くらうよぉ」
少年はしつこく藍良を止めようと頑張る。彼女より二つほど幼いが、賢しげな目をしていた。
「いいじゃないか、どうせ説教くらうのはあたしなんだから」
藍良は立場所を確保するように強く少年の腕を引く。引きずられるように、少年は藍良の前に寄せられる。
「ちっとも良かないよっ」
子供は口をとんがらせた。
「藍良さまを外に連れ出したって、オレのほうが叱られちまうんだぞぅ」
「ふぅん」
大人の男──兄が何かを思案するときにやるように、藍良は腕組みをする。少しだけ、いまとこれからの状況、自分と少年の未来を予想し、決断した。
「よっしゃ、帰ろう」
「藍良さまぁ」
にっかり笑う少年の口元は歯抜けで……何だか可愛らしく見えた。
「おまえが叱られちゃうんじゃ、かわいそうだもんねぇ」
そう言ったとおりに、藍良はくるりと向きを変えて歩き出した。あわてて少年も後に続く。
船が接岸したのか、高らかに歓声が上がる。藍良はちらりと後ろを振り返ったが、またすぐに前を向いて少年──峰丸という──に声をかけ、走り出した。
「藍良さま、まぁた外へ行きなさったんですか」
案の定、館に戻ると乳母が小言をぶつくさごねてきた。
「まったく! 十四になられるというに男童のように。だいたい、峰丸、そなたが手引きしたんじゃろうて」
叱責の鋒先が少年に向かったとみるや、藍良は約束どおりに庇った。
「叱っちゃだめだよ。あたしが行こうって言ったんだ。それより乳母や、お腹すいたよ」
「あ、あ、はいはい、わかりました。これ、うのや、藍良さまに何ぞ軽いものを」
「いいよ、あたしが厨へまわるから」
「そうですかぁ」
自分で厨へ行くというなら手間が省けるが……行ったらいったで、余計な摘み食いの心配があるのだが。
「おいで、峰丸」
こういうところは面倒見のいい嬢ちゃまである。
藍良は再び駆け出し、無言で峰丸もそれに続く。
「やれやれ」
後ろ姿を見送って、乳母はそっとため息をついた。
「ねえ、うの、何かちょうだい」
背戸から入り藍良がねだると、待ち構えていたようにうのは炒り大豆を小分けにした紙包みを捻ったものをふたりにくれた。香ばしくて歯応えのよい、大好きな乾きものだ。
板間への上がり口に小さなお尻を並べてぽりぽり食べていると
「ねえ、ちょっと大変だようっ」
息も荒く厨へ女が飛び込んでくる。うのと仲の良いつるという厨女だ。
「え、何? どうしたの?」
うのには緊張感というものがないな、と思いながら藍良がぽりぽりやっていると
「わっ、若が、女君つれて来たんだよ!」
「「「ええぇー!」」」
途端に、厨に居合わせた者らがつるの周りに群がった。
「若って、うちの? それとも殿さまんとこの?」
「うちのに決まっとるがいね!」
またもやどよめきが起こり、藍良は口いっぱいに頬張っていた炒り豆を何とか飲み下して、やっと言葉が出た。
「女君って、どんな?」
それを聞いて、やっとつるはそこに藍良がいたことに気づいた。
「あ、藍良さま。どうやら京から連れてきた姫さんらしいです。お顔は見えんかったけど、きっれぇな衣着て、大事そうに渡し板から抱いて降ろしてやってぇ」
正確には、ひょいと持ち上げて降ろしただけである。しかしつるの脳内変換でそれは濃厚な抱擁の場面になっていた。
「ふぅ~ん」
いつの間にか、厨は静まり返っている。厨女も雑色も、皆、呼吸を止めて藍良の次の言葉を待っていた。
「見てこよっと」
「だめですよ」
立ち上がろうとした藍良の肩をがしっと押さえた者がある。乳母だ。
「まったく、何だいおまえたちは。はしたない。女君のひとりやふたりで大騒ぎしてからに」
「ふたりもいたら、それは大騒ぎになると思う」
藍良のつぶやきは、大興奮のつるの声にかき消される。
「おんや、乳母さまは気にならないんですかい?」
「そんなわけないさね、なんせあの若は、あてが赤子の頃から大事に育てた」
と、乳母はそこではっとしたように急に咳払いなんぞしだした。
「と、ともかく、藍良さまはおとなしく部屋で待っとるのがよろしい。うのや、お連れしておくれ。待っておられれば、じきに会わせてもらえましょうが」
不承不承、藍良はうのと自室へ戻ることにした。峰丸は家に帰らせた。
「ねーうのー」
「何ですかぁ」
「うのは見たくないの? 女君ぃ」
「どうしてそんなこと、訊くんですかぁ」
「それは……」
うのの好奇心を煽って一緒に見に行く魂胆だからである。真っ正直な問いに、藍良は言葉に詰まる。
「それは?」
「うぅーうのの意地悪ぅ」
全然、意地悪からの仕打ちではないのがうのの怖いところである。地団駄を踏む思いで藍良が焦れていると
「おう、藍良、何を暴れているんだ?」
左源太が現れた。
「兄上!」
藍良の声が弾む。期待に満ちた目で、兄を見上げる。
「まぁた、相変わらずそのへんの童みたいな姿をして」
「兄上!」
苦言は無視して、兄にしがみつく。
「おっと。母上はどこだ?」
「お部屋で縫いものをしておられるはずですよ」
「うのか。よし、俺は母上のところへ行くから、うの、後ろの三人を旅人の居室へ案内してくれ」
左源太の言葉に、袖から藍良がひょいっと顔を出すと、見知らぬ男女がそこにいた。
いや、ひとりは知っている。
旅人とよく似ている。阿修羅王のひとり、羅王だ。
「羅王さま」
ぺこりと頭を下げると、つとかがんで左源太が言った。
「藍良、俺と母上のところへ行くか?」
少女は首を横に振る。
「そうか。じゃあ、うのと三人のこと、頼むぞ」
言い置くと、左源太は館の奥へと消えた。
「ここが旅人さまのお部屋です」
「ああ」
こざっぱりとした局に案内され、司王がうなずく。そのまま彼は中に入ったが、同行の女ふたりは入口で何を思ってか立ち止まっている。
「羅王さま」
少し迷ったが、藍良は声をかけた。
「お顔の色、悪いよ? まるで初めて来たときの旅人さまみたい」
「そうか? そうだ、紹介しておこう」
ふたりを手招きして司王は言った。
「俺の従妹の美夕姫と女房の小雪だ」
「初めまして」
お姫さま──美夕姫と呼ばれたほうが藍良に微笑みかけた。常の袿姿だが十二単衣の正装を見たことのない少女には十分それはお姫さまの恰好だ。滑らかに梳られた髪からか衣からか、ふんわりと優しい香りを感じる。
とても美しい“姫君”だと、藍良は思った。
「羅王さまのイトコ? じゃあ、兄上の女君じゃないの?」
「藍良さまぁ」
うのが止めなかったら、次に藍良は何を、どんな失言をしてしまうかわかったものではなかった。いくらうのがおっとりした人格でも、お姫さまに対して言ったらだめなことがあるというのはわかっている。それは多分、柳沢のお殿さま、この島の主さまに無礼なことを言ったりしたりしたらいけないのと同じことだ。
「わたくしが左源太さまの?」
驚いたように言って、お姫さまはくすくすと笑った。うのはほっとする。大丈夫だ。このかたは、いま、楽しくて笑ったのだ。藍良の態度や言葉をばかにして嗤ったのではない。
ひとしきり笑うと、美夕姫はまじめな顔で藍良に尋ねた。
「藍良さま? この二、三日のうちに旅人とおっしゃるかたがお戻りになるとうかがいましたが、本当ですか」
「え?」
思いがけない内容に、藍良は確かめるように美夕姫を凝視する。
「いえ、何でもありませぬ」
焦りすぎたかと、そっと視線を外す美夕姫。恥じ入るように、少し頬を染めている。
それをどう捉えたのか、厳しい声で藍良は言った。
「あなたいったい、旅人さまの何なの?」
「えっ?」
たとえ少女でも根底は女なのだ。
こんな子供になんて顔をさせるのだ──美夕姫の笑顔がこわばった。
〈二十九〉藍良──あいら──
ってなことで、美夕姫の心に兄に対するロ◯疑惑が生じてしまいました。どうする、兄ちゃん!?
と。
初稿でルビふってませんでしたが当初は愛島は「いつくしま」でした。書いた当時、私は同じ読みの彼の島へ行ったことがなく(中学の修学旅行は神戸・奈良・京都でした)成人してから社内旅行でやっと訪れることができたのですが……世界遺産と海賊の島が同じ名称だとユネ◯コに怒られそうなので、今回「めぐしじま」というのを捻り出しました。イザナミさまが「可愛い♪」とおっしゃったというのは私の創作です。古事記にそんな記述はございませぬ。
さて、令和7年が始まり、また某教育的TVで新春の舞楽を拝見。『還城楽』……巳年だから……なるほど。
眼福でございました(*´ェ`*)♪




