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〈二〉琴笛




 時の左大臣藤原時近(ふじわらのときちか)どのは、三条に屋敷を構えることから三条の大臣(おとど)と呼ばれていた。ふたりの北の方があり、そのうちのお一方(ひとかた)は男子をふたり、もうお一方は姫をひとり、もうけていた。実は大臣にはもうひとり、北の方があったが、残念ながらそちらには子もなく、数年前に亡くなっている。

 大臣の嫡男、藤原時頼(ときより)どのは今年二十三になり左近中将。通っている女君はいるが、まだ正妻は迎えていない。

 もうひとりの子息はかの小次郎君、藤原唯時(ただとき)どので、おふたりは右大臣家の二の姫から生まれていた。

 左大臣の姫は撫子(なでしこ)の君と呼ばれており、当年十二歳、兄たちとは少し年が離れている。生母は権中納言(ごんのちゅうなごん)の娘で、かつて都(いち)の美姫とたたえられた御前さまである。




 さて、三条の大臣であるが、自分が裳着の腰結をした火宮(ひのみや)家の美夕姫(みゆき)君について少し思案していた。

 彼の友人の娘は裳着をしてしばらく経つが、縁づいたとの話がついぞ聞こえてこない。大納言(だいなごん)の姫であるから更衣(こうい)としてはもちろん、女御(にょうご)として入内することができる身分なのでそちらを考えているのかと思ったりもしたが、そのような根回しも持ち込まれていない。

 その美貌は、雪のように白い肌にほんのりと色づく唇、涼やかな目元にすっと通った鼻すじといった冴えざえとした姿に加えて、丈なす黒髪がみごとな艶に濡れるように輝いており、一目まみえれば主上(おかみ)の寵愛を得るであろうことは間違いないと思われた。

 自分が後見として入内させることも可能だが、大臣としては何年か後に撫子姫を入内させるつもりなので、あまり熱心に勧めるわけにもいかない。

 それならば……美夕姫は撫子よりも五つ年上の十七歳で、しっかりした姫であり、教養深く管弦──特に笛──の名手である。世の才女たる美夕姫に撫子の教育をさせれば、たしなみ深い都一の姫君として箔が付くのではないか。

 すぐに大臣は七条に使いを出した。なおかつ、彼が感じた資質を確かめるために長男時頼をも、葵屋敷に向かわせた。


 あいにくと、火宮家当主の(さとる)は来客中とのことで、大臣の使いは控えの間にて待たされたが、取次に出た武光(たけみつ)に美夕姫に会いたいのだと告げると、時頼はとある局に通された。

 かすかに衣ずれがして中将が顔を上げると、御簾の向こうにひとりの女がいた。


「……三条の大臣の若君には、わたくしに何かご用のことと伺いましたが」


 単刀直入というやつで、おおよそ姫らしくない口をきく女人だと思いながら時頼は言った。


「七条の葵御前は佳人の(ほま)れ高き姫君とのうわさを聞きつけ、それほどの姫なればぜひ、我が左大臣家の撫子のお相手をしてはもらえぬかと」


 御簾の中の女は笑ったようだ。


「中将さまはものの順序(あとさき)をお考えでないのではありませぬか? そのようなお話であれば、まずわたくしの兄におっしゃられてから」

「いやいや、怜どのには我が父から使者を参らせている」

「では、あなたさまは?」


 よく通る声を聴きながら時頼は、これは類稀(たぐいまれ)なる麗人なのではないかと思った。

 さして高くもなく低すぎもせず、えもいわれぬ心地よい響き。

 とたんに、今源氏の君と騒がれる時頼の血が沸いた。


「なに、ほんのお試し、ですよ。例えば……かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる想いを──いかがかな?」


 自分の反応を試しているのと、恋人にならぬかと言っているのは明らかにわかった。時頼があまたの姫君や女房などに手出ししているすきもの(プレイボーイ)というのは有名な話だ。


 「実方(さねかた)の中将のお歌ですわね」


 わざとずらして美夕姫は応えた。


 知らじなならぬ白々しさで、初めて会ったというのに口説こうという時頼に呆れ、才媛と名高き女性の歌で報いる。


「夜をこめて 鳥のそらねははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」


「それがお応えか」


 一筋縄ではいかぬと時頼は感じた。美夕姫は黙している。


「……こちらは笛の名手と聞いておりますが、和琴のほうは」


 和琴を弾けとのほのめかしに、すきもの(プレイボーイ)による才女判定とは左大臣も喰えぬ親父どのだと思ったが、こうもあからさまに挑まれて逃げては兄に面倒をかけてしまうと忖度する。


小雪(こゆき)()()()()をこれへ。中将さま、一曲おつきあいくださいませ」


 さらりと流すように美夕姫は弦をかき鳴らした。

 いきおい、しっかりとした音色が小気味良い爽やかさで高度な技能(テクニック)を奏でる。

 なかなかどうして、衛府の武官として公の場で何度となく舞う機会を得ている中将であるが、知っている楽人にもこれほどの腕前の者は思い当たらない。

 異母妹の撫子のためというよりは、自分の想いものとして身近に、三条の屋敷にこの姫を置きたいと時頼は私心した。

 先に言ったように、一曲終えると美夕姫は続けて弾くことはなかった。そこへ、武光に案内されて大臣の使者が入ってきた。


「時頼さま」


 男は御簾の中をちらりと見て、時頼の耳に何やら囁いた。


「……わかった」


 うなずくと時頼は言った。

「姫、本当はいますぐにでもお返事いただきたかったのだが、怜どのはご多忙であるそうなので出直すといたしましょう。ですが、この次には良きお応えをいただけると期待しておりますよ」

 美夕姫は応えなかった。いくら多忙でも、怜は物事を曖昧なままにする人間ではないからである。

 左近中将は、それでも威儀を正して局を出ていった。使者を伴い三歩ほど歩いたとき、


「兄上のところへ行く」


 女の声がして、簀子に誰か出てきた気配があり振り向くと、柳襲(やなぎがさね)の五衣を着た少女が立っていた。

 さてはこれが七条大納言家の姫かと、身を乗り出さんばかりに時頼が見つめると少女は素早い身ごなしで局に隠れた。促され、再び簀子を歩きながら時頼はつぶやく。


「……(さや)けき姫だ」


 姿かたちだけでも、彼がこれまでに口説いてきた女性たちの中で上位に入る。加えてあの聡明さである。恋人か、あるいはもっと深い間柄になるのもやぶさかではないと思えてきた。


 一方、美夕姫は局にへたりこんでいた。しまった、と思った。


「姫さま?」


 常にない狼狽ぶりに小雪が驚いている。そこへ、女房のひとり百合(ゆり)が来た。

「姫さま、殿がお呼びです」

 何だろうと思いながら立ち上がり、美夕姫は兄の居室へと足を向けた。

 どうやら、先客がまだいるらしく話し声がしているので、袖几帳で顔を隠しながら中に入る。客とは几帳を挟む位置に座り袖を下ろすと、怜が言った。


「どうした、美夕姫、ずいぶんと顔色が悪いようだが?」

「お兄さま」

「うん?」

「わたくし。左近中将さまに顔を見られてしまいましたわ」

「それは迂闊だったな。それで、おまえはどうしたんだ?」

「顔を隠して部屋に入りました」

「そうか……」


 美夕姫は(いぶか)った。何というか、今日の怜の反応は妙に変である。


「お兄さま、なぜ三条の大臣のご使者に曖昧なお返事をなさったのです?」


 ずばりと訊くと、怜はいささか気まずそうに視線を泳がせたが、すぐに笑みを浮かべた。


「じっくり考えてから返事をしたほうが良いと思ったからだ。それはそうと、美夕姫、こちらは蔵人(くろうど)(すけ)高階治明(たかしなのはるあき)どのだ」


「治明でござる」


 几帳の向こうから、温和そうな外見のわりになかなか野太い声が聞こえた。


「……美夕姫にございます」


 楚々と、名を告げ頭をさげる。


「ちょうどいいから、いま言うが、俺は近々旅に出るつもりだ。この治明どのとな。兄とも頼むお人だ、おまえも顔を合わせるといい」


 少し前に帰ったばかりなのに、またすぐに旅に出てしまうとは薄情な、と思っても口にしないのが美夕姫の気丈さだ。兄の言葉に従い、怜の横に座り直した。

 治明は二十五くらいの人の善さそうな風貌をした男だった。軽く会釈すると、美夕姫は兄に問うた。


「旅とは、此度はどちらへ?」


 説明を任せるとばかりに怜が治明の方を見たので、美夕姫も彼を見つめると、蔵人の佐は少し赤くなった。


「これほどのお美しさなれば、伊津良(いづら)の少将がご執心なのも、もっともですね。いささか、いや、かなり、あのかたにはもったいないようですが」


 と、それで思い出したかのように怜が訊いた。


「左近中将どのは、おまえに何か言ったか?」

「わたくしを試そうと、実方の中将のお歌を話に出されましたわ」


 明らかに怜がはぐらかそうとしているのがわかったが、美夕姫はそっけなく応じた。治明が興味津々といった(てい)で会話に加わる。


「かくとだに、ですね?」

「今源氏どのから恋の歌をもらったんだ、うれしかろう?」


 兄のからかいに美夕姫は平板に返した。


「お兄さま、わたくしを嘲弄して(おちょくって)楽しんでいらっしゃいますの?」


 兄妹間の雲行きの怪しさを察知し、とりなすように治明は言った。


「それで、美夕姫どのは何と返事を?」


「夜をこめて 鳥のそらねははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」


「それはまた、手厳しい」

 と言いつつも治明の口元が笑んでいる。


「何とも、おまえらしい」

 こちらは我慢せず笑いをもらす怜を睨んで美夕姫は低く告げた。


「お兄さま、ごまかそうとしても無駄です。白状なさったらどうです? 治明さまと、どちらへ?」


 怜はなかなか折れない。ひたすらに黙りこくるので、見かねた治明が助け舟を出す。


「美夕姫どの、大和は国のまほろば、ですよ」


「それは、大和は国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し(うるわ)し、という倭建命(やまとたけるのみこと)の国ほめ歌ですね? つまり?」


 確認のまなざしを治明は肯定した。


「大和の国へ?」


 観念したのか、怜もうなずいた。


「つい先ごろも小次郎さまとご旅行なさっているのに? さてはお兄さま、大和に好きな(ひと)でもいらっしゃるのではありませぬか?」


 短絡すぎると思いつつも言った言葉に、怜が赤くなった。

「まあ! 冗談でしたのに、(まこと)でありましたか」

 さらにつっつくと、怜は諦めてうなずいた。


「いかがいたしましょう、お戻りになられる前にお局の用意を調えましょうか? 華やいだ色合いと落ち着いたもの、どちらをお好みのかたかしら? わたくし、居心地の良いようにしつらえましてよ」


 からかったつもりはないが、照れた兄ははじけて言った。

「もう、うるさいぞおまえは。せっかく治明どのが来ておられるんだ、おまえの得意な笛でも、お聴かせしろよ!」


 余裕で温い笑みを浮かべると、美夕姫は小雪に高麗(こま)小竜(ささりょう)と呼んでいる笛を取りに行かせた。


 綺麗な彩色の施された高麗笛を吹きつつ、いままでにない変化を喜ぶ気持ちと戸惑う気持ちで美夕姫の心は複雑な思いに乱れるのだった。








〈二〉琴笛──ことぶえ──




初回でお伝えし忘れておりましたが、リライトにあたり火宮家の家令にして怜の乳兄弟の名前を「竹光」から「武光」に変更いたしました。竹光って何か聞き覚えあるなぁと昔から思っていたのですが、竹とかで作られた模造刀のことですよね?いくら何でも主人公ん家の執事的存在なのに名前がそれじゃ気の毒だったので、さらっと直しときました。同じく火宮家の女房のひとり「紅葉」さんも「もみじ」から「くれは」に読みを変更しています。

(まあこれは、昔、手書きのこの物語の原稿を読んでくださったかたにしか知りえない事でしたが)


ちょっと気になっていたので、この場で告らせていただきました。あしからず〜m(_ _)m



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