〈十〉野分
頃はもう秋に入っていた。
月読尚侍こと梓が賜っている梨壺に司王が来ていた。従兄妹ではあるが、御簾ごしの対面をする間柄だった。
「七条の従姉妹の君のご様子は、如何なのかしら」
素の梓よりは薄い紗を何枚か重ねたような言葉で尋ねると
「あまり変わりはない様子と」
そっけない応えが返ってくる。
すでに美夕姫が倒れてから一月ほどが過ぎていた。
「そう」
梓はそっとため息をもらした。
「失礼いたす」
と。そこへ入ってきた者がある。五位の侍従となった藤原小次郎唯時である。
「まあ、唯時さま。ご用は何かしら?」
途端に明るくなった梓の声に、司王はやれやれ、と思う。
「亮どのに、七条の姫君のご様子を伺ってくるよう、仰せつかりまして」
「麗景殿の女御さまから? それとも主上?」
「女御さまより」
麗景殿の女御とは、先ごろ入内した小次郎の妹撫子のことである。
撫子の入内より少し前に美夕姫は左大臣家を辞し、七条の火宮家にて養生している。
「佐久は」
隠し立てせず、梓は自分の知る事を伝えた。
「悪鬼悪霊の類に悩まされているのではないかと疑っているようよ。消息に、琴子姫がどうのとよくつぶやいているって書いてあったわ」
「琴子姫?」
初めて聞く名前に、小次郎は驚いた顔になる。
「侍従どのはご存知あるまい。琴子姫とは火の神より火神矢を最初に授かり巫女として都を守り、女性の身で少将の位を得て火宮家の祖となった姫だ。爾来、火宮家の娘は火神矢を祀り都を脅かすものを退けてきた」
「あら?」
簾中から梓が口を挟む。
「でも、その矢は建さまが箙の上差しにしていらしたわよ」
建という名を耳にした小次郎の心拍が一瞬、跳ねる。そして、無垢な乙女以外の者が触れてはならぬはずのその矢が建の箙にあったのを、小次郎も見ていた。
「それに美夕姫って尼寺で育てられたのよね? もしやそこで、護国の巫女としてご祈祷とかしていたのかしら? ひょっとして、建さまが亡くなったのも、都を守っていたから?」
妹が神の御矢を受け、兄がそれを射て都を守っていた、梓はそう解釈したようだ。
再び小次郎の脈が跳ねた。
建は生きているはずだ。美夕姫がはっきりと自分にそう言ったのだから。
「建どのは生きておられるよ、尚侍どの」
「えっ」
梓よりも司王のほうが驚いていた。
「侍従どの、どこでそれを聞かれたのか?」
「え? 美夕姫どのより?」
「「美夕姫から?」」
従兄妹たちは同時に声を上げた。そして、思い出したように梓がつぶやく。
「あら、でも変ね。美夕姫は建さまと会ったことがないはずなのに、どうして」
仕方なく司王が言い訳する。
「乳母たちから聞いたのやも」
「そうね。でも……つくづく、美夕姫ってかわいそうだわ。双子は不吉なんて謂れのない理由で十五年も尼寺で隠し育てられていたなんて」
つい先刻、なかったことにされていた矛盾点を再提起してくれるとは!
母親が前任であった関係から、対外的に火宮家の事情を秘匿する責を義務づけられていた司王には、何も知らず口走る従妹の口をふさぐ術がない。
「は? 寺で育てられたのは建どのでは?」
しっかりと小次郎が話に乗る。
「いいえ? だってわたくし、十三ぐらいの建さまと遊んだことがあるけれど、美夕姫に会ったのは十五歳になってからですのよ」
「いや、しかし」
このままではいらぬ說明をさせられることになる──司王は座を立った。
「もう、行かれますのか?」
「ああ。七条へ寄りますので……」
言い残して立ち去る司王を小次郎はじっと見送る。
「いけませんわ、唯時さま」
不意にすぐ傍で梓の声がした。
「え?」
小次郎が振り返ると、梓が御簾を抜け出してきていた。
「尚侍?」
「唯時さま、あなたとてもうらやましそうに司王さまを見ていらしてよ。わたくし……少し、妬けますわ」
「はあ?」
女心の機微にまったく鈍感なのは、小次郎の良いところであり、欠点でもあった。
さて、司王が七条の葵屋敷を訪ねると、美夕姫は寝床で乱れもなく衾をかけ、天井を見ていた。
「美夕姫……」
声をかけても微動だにしない。
「今朝から、こうなんですわ」
佐久がそっと教えた。その目は涙に潤んでいる。
枕元へ寄り片手で目を覆うと、ようやく美夕姫は声を出した。
「……司王」
「何を考えていた」
手をどけて司王が訊くと、美夕姫は目を閉じた。
「何も……」
その様子にこらえきれなくなった佐久が、目元を押さえながら局から出ていった。
一見、美夕姫は眠ってしまったように見える。だが、眠ってはいないことを司王は知っている。
「唯時が、おまえのことを訊いていたぞ」
美夕姫は何とも応えない。だが、そのうちに閉ざされた両の眼から涙が筋を引きだした。
「なぜ泣く?」
「泣いてなどいない」
「そうか」
思えば、こんなふうに泣く従妹を慰めたことなど彼にはないのだ。早々に司王は退散した。
遠ざかる足音が聞こえなくなると、美夕姫はまたつぶやいた。
「泣いてなどいない……」
そうして衾にもぐりこむと、静かに嗚咽しだした。
翌日、司王が再来すると、屋敷の奥の方から矢音が聞こえてきた。
「あれは?」
牛飼い童や老爺のはずはないから武光かと思い尋ねると、乳母は美夕姫が急にやりだしたのだという。
「なぜ止めん」
足早に奥へと向かいながら司王の口調は強いものになった。後を付き従いながら佐久は弱音を吐く。
「やはり姫さまには、琴子姫さまが取り憑かれたんですわ」
「何だと?」
足を止めて振り返ると、佐久の窪んだ目には涙が光っている。そのまま彼女は泣き崩れた。
舌打ちし、司王はひとり、先へと進む。
美夕姫は袿も着ずに簀子に立ち、弓を引いていた。
少し肌寒く感じる秋の風が長い髪をもてあそぶ。
「美夕姫」
司王が呼びかけると同時に右手が弦を離す。
放たれた矢はかすかに唸りをあげて的に当たり、的は割れてしまった。
静かに弓を置き、向き直って美夕姫は言った。
「よくぞ来られた、司王」
笑っているようであるが、少女の笑いではない。
橘王が初めて加冠したときの表情に似ていると思った。大人になりかけた少年のような、一種不可思議な笑み──。
司王は戦慄した。賊の頭羅王と呼ばれる彼が、である。
「み、ゆき?」
「美夕姫ではない。わたしは、火宮建」
思いがけない名告りに、司王は従妹が精神的逃避を果たしてしまったのではないかと思った。だが、まっすぐに見つめる瞳は凛然と輝き、強い決意がこめられているのを感じる。
「そんな顔をしなくても。わたしは正気だ」
司王の反応を面白がってさえいるように、笑う。
「どうしたというのだ、いったい」
局に入るのを追いながら司王が尋ねると、美夕姫は迷いのない口調で言った。
「決めたのだ」
その潔さを、逆に司王は怪しむ。なんというか、今日の美夕姫は美夕姫らしくないし、建らしくもない。
「わたしはこれから、建として通すつもりだ」
「……どうもおまえの言うことは、筋がよくわからん」
とりあえず、そう間をとると、美夕姫は居ずまいを正して司王を見た。
「それで、あなたにお願いがあるのだ司王。いや、司王どの」
「何だ、急に改まって」
一呼吸おいて美夕姫は言った。
「わたしを修王どのに会わせてほしい」
司王は美夕姫の顔を凝視した。すでに一歩もひかぬ顔つきをしている。
「会ってどうするというのだ」
「あ、いや……修王どのの本拠に行けば兄上に会えるのではないかと」
腕組みして目を閉じたまま、司王は言った。
「あれは似ているという話だけだし、瀬戸内は……遠いぞ」
「それでも、ようやっと掴んだ手がかりです。一度はこうと決めたこと、試さず捨てるようなことはいたしたくありません」
試さず捨てる、に掛けて司王は動揺を誘う。
「京に帰ってみれば、梓があの男をものにしているかも知れんぞ」
冷たく笑いながら目を開けてみると、美夕姫は表情すら変えていなかった。途端に司王の笑みは消えた。
「美夕姫?」
黙りこくっているのが何となく不気味なので促すと、睨むように見据えて美夕姫は言った。
「言ったはずだ、わたしは建だと。いまさら、小次……男のことなど、考える必要などありはしない」
司王は不思議に思った。
昨日の今日だというのに、美夕姫がこれほどまでに強くなったのはなぜなのか。
まるで、野分の吹いた後の薄原のように一筋の道を見つけ出し、それを辿ろうと決心したのはなにゆえなのか。
美夕姫は笑みを浮かべて司王を見ていた。
〈十〉野分──のわけ──
この章のタイトルは『野分』と書いて『のわけ』と読みます。源氏物語に同じタイトルで『のわき』と読む帖があるので、そうつけたみたいです。
昔、“中将姫”というひとがいたそうで(調べてみたけれど詳細不明)それにあやかって琴子さまは“少将姫”ということになりました。弓の上手な姫君でした。
今回、司王が“亮どの”と呼ばれてますが、実は彼は東宮坊の亮です。東宮はまだ幼く(青駒の主上の異母弟)しっかりしたお勉強がまだ始まっていないので、いまはわりと暇なお勤めのようです。で、彼に〈八〉で「四位だから殿上することもある」と言わせてしまいましたが、正しくは五位です。お詫びして訂正いたします。m(_ _)m
(中学時代に官位一覧を書き写したときに、欄をずらしたものと思われます。当時ネット検索なんてなく、調べるとしたら図書館で書き写すしかなかった。高校生になってMy古語辞典持つようになったら、うれしくて授業中ずっとめくってましたよ♪)
あとは……今回の小次郎くんはやたら脈が乱れておりました。ぶたれたり突き飛ばされたり、散々な目にあってばかりですが、叔父さんも美夕姫の掌底くらっているので、そういう血縁なのかな?いつかは時頼くんもぶっとばされるのかも(^.^;
えっ、橘王?彼の役職は……?あれ?設定してない……たぶん、文官です。




