〈一〉嵐野
時代は平安、おおらかな頃──。
京の都に火宮怜という人がいた。
当年とって二十一になるが、宮仕えをしていないため、無位無官であった。
火宮家といえば、当時藤原家と並び称されるほどの名門だったが、大納言をしていた父の文高どのは、この若君が出仕する前に亡くなっており、母君もそれより数年前に他界していた。
それでは怜は天涯孤独の身の上なのかというとそうではなく、十七になる妹君がひとり、あった。
美しい夕焼け時に生まれたので美夕姫と呼ばれていた。
兄妹は左京の七条、朱雀大路寄りの葵屋敷と通称される館に数人の女房と雑色の老夫婦、武光という乳母やの息子らと、ひっそりと暮らしていた。その名のとおり、屋敷には夏ともなればたくさんの葵が花開き、妹姫は葵御前とも称された。
さて怜であるが、この若者は出仕もせずに何をしているのかというと、父君が亡くなられてこのかた、頻繁に旅に出ていた。
賢き先祖や父君がきちんと蓄えてくれていたおかげで、日々の暮らしはなんとか成り立ってはいる。
それを幸いに彼は妹姫を屋敷に残し、親友の藤原唯時という大臣家の者と出かけているのだ。
気丈な姫はさびしいと口にすることもないが、困ったことに最近、右近少将を務める伊津良という男が文を送ってきている。望んでもいない求婚に、さすがの怜も姫も困惑していた。
ことに怜は屋敷にいない自覚はあるので、いつ何時、自分の留守中に伊津良の少将が姫を夜這うのではないかと心配しているのだが、妹姫はしっかりしたもので、文を送られても返歌もせず、夜はがっちり戸締まりして女房を側に寝かせてしのいでいた。
春の嵐が吹き荒れる頃、怜は友人との旅を終え、轡を並べて七条の屋敷へ帰る途中にあった。
藤原唯時は名門藤原氏嫡流の家の次男で、怜はごく親しく小次郎と呼んでいる。
六尺ちょっとの長身は同じくらいで、ふたりともなかなかの美丈夫だ。
小次郎もまた無位無官で父が左大臣、兄が左近中将である。この左大臣どのが故大納言どのと親しかったため、美夕姫の裳着の式で腰結いを頼んだことがあった。
まあ、そんなこんなでつきあいは長い。
「やれやれ、ひどい雨だ」
怜が馬の背で思わず愚痴ると小次郎もうなずく。
「まったくだ。おまけに風まで強いときている」
「まあいい。京まであとほんの少し。大門をくぐれば七条の館はほんの目と鼻の先だ。泊まっていくだろ?」
「ああ。三条の俺の家よりはぬしの家のほうが近い。迷惑をかけるが、泊めてもらおう」
「迷惑だなどと、他人行儀な」
苛立たしげな友に、人の善い小次郎は思わず詫びた。
「すまん怜、気を悪くしたのか?」
「さあな」
わざと少し拗ねてみる。
「すまん。なにぶん、ぬしの屋敷へまであがるのは初めてのことなので」
「そうだったか? そういえば、妹とは」
「うん、会うたことがないな」
会ったことはなかったが、いままでに何度か怜から話には聞いていた。裳着の腰結いをした父が理想的な感じの姫だったと母に話すのを耳にしたような気もする。
しかし、怜の妹という存在を考えると、小次郎はどうしても二年前に一度だけ会った建のことを思い出してしまうのだった。
建は怜の弟で、美夕姫とは双子の兄なのだという。
だが、双子は不吉などという迷信が世にはびこる手前、男である建はうらさびれた山寺で人知れぬように育てられたらしい。
十五となるのに元服を済ませておらず──とはいえ、美夕姫の裳着も十五歳になってからだったが──童姿に水干といういでたちの美少年に、思わず小次郎は見とれてしまった。
まるで少女のように細くたおやかな建は、兄に友人を紹介されると素直に笑みを見せた。
「初めまして、小次郎どの。火宮……建です」
こぶりな愛らしい口元からこぼれ出た声は、やはり少女のようで……聞いていて何ともいえぬ快い響きだった。
その夜、小次郎と怜は酒を飲んだが、建は怜じこみだという龍笛を吹いていて、一滴たりとも口にしなかった。
「建どの、一献どうかな?」
小次郎が声をかけたが、建は笛を唇から離して
「いや、わたしは下戸ですから」
と言って、すぐに笛を続けた。
それからしばらくして建は座を立ち、寝に行ったのかどうかわからぬが戻ってこなかった。そのとき、すでにふたりは出来上がってしまっていて、まあ、へべれけに酔っていた。ごく自然の摂理に従い、小次郎が小用に立つ。
用をたして居間に戻ろうと簀子を歩いていると、ざばりと大きく水をかくような音が不自然にする。何だろうと、酔眼を凝らし庭を見回してみると、片隅に竹藪があり、その上のほうに湯気があがっていた。水音はそちらからのようだった。
さては、と庭に降りてそちらへ歩み寄り、小次郎は声をかけた。
「建どの、湯浴みか?」
ばっしゃあっと、今度は派手な音がして、明らかに狼狽えた声が返ってきた。
「そっその声は、小次郎どのかっ」
「いかにも。湯加減はいかがかな?」
「たた、たいへん、結構でございますっ」
天然の岩風呂に浸かり、くつろいでいた建は驚愕した。はずみで足が滑り、一度湯の中に潜ってしまう。
「どうした、建どの」
物音を聞きつけ、小次郎が竹藪をかきわけて寄ってきた。建は鼻の下までを湯の中に沈める。
長く湯に入っていたのと羞恥のため、耳まで真っ赤になる。
それを見て小次郎は言った。
「もう湯から出たほうがいいのではないか、建どの。のぼせているようだが?」
「いや、わたしはこれがよいのです。どうか早く、ここから離れて、あっ、いや」
頼むから自分をひとりにしてほしい、そう伝えたいのに、咄嗟にうまい言葉が思い浮かばない。
「そっそうだ。兄はどうしたんですか? 小次郎どの、兄は?」
「怜か、居間で潰れて寝ていたなあ」
肝心なときに! 建は心の中で毒づく。
「こ、小次郎どのは、なにゆえここに?」
しばしの沈黙の後、建は訊いた。
応えはない。
見れば座り込んだ小次郎はかすかにいびきをかいていた。
湯からあがり着物を着ると、建は小次郎を館に連れ戻ろうとした。当然、葵屋敷ではなく、山奥にある火宮家の別邸である。
その年頃にしては伸びているほうだが、建よりも小次郎の背丈は五寸以上高い。しかも体格が全然ちがう。
自分で運ぶのはあきらめ、建は兄を起こしに母屋へ行った。
翌朝──小次郎は矢が的に当たる鋭い音で目が覚めた。身なりを整え、簀子へ出てみる。
と。怜が鍛錬しているのだと思っていたら、それは建だった。
「やあ、小次郎どの。早いですね」
昨夜の気まずさなど微塵もにおわせず、さわやかに少年が笑いかける。
「建どのこそ、早朝から熱心な」
的に目をやって小次郎は驚いた。中心の円はびっしりと矢で埋まっており、建はいま、外側の黒い円の線を矢で描いているのだ。
「これは……」
怜の弓も精度が高いとこっそり評価していたが……さほどな強弓を引いているわけでもなく、むしろ細いが、これは正に百発百中の腕前だ。思わず、唸った。
「小次郎どの、お腹でも痛いのですか? 唸っておられるようですが」
ぬれ縁まで建が近づいてきていた。
「いや、べつに」
小次郎が応えると
「そうですか」
箙を置いて小次郎の前方に建は腰を下ろした。気持ち、彼の方を向いて座っているので、その横顔を小次郎は見つめた。
「……何か?」
少し居心地が悪そうに、建が身じろぐ。
「いや、その……建どのの妹御、つまり怜の妹姫なのだが」
「いもうと? あっああ、妹、妹ね。美夕姫が何か、どうかしたんですか?」
「い、えっと、建どのと双子ならば、さぞ美しいのだろうと」
赤面しつつ、小次郎はどうにか言った。すると建は笑いだした。
「アッハハハッ、美しいっ、美しいねぇ。小次郎どの、いくら双子だからといって、そっくりとは限りませんよ。しかも男のわたしに美しいだなどと、無用な褒め言葉だ。もし妹は二目と見られぬ不器量者だと言ったら?」
猫のように目を細め、にやにやと建は小次郎の顔をのぞきこむ。
「建、どの」
「小次郎どの」
建は急に真面目な顔をした。
「女人の美しさなど、誰が決めたんです? 美の基準、そんなもの、あるんでしょうか?」
小次郎は目の前の白皙が語る言葉の意味がわかるようでいてわからないので、当惑するばかりだ。
「否」
短く建は言った。
「答えは否です。一時期、ひき目かぎ鼻しもぶくれ顔が美人の基準だという説が流行りましたが、あんなものは嘘っぱちでしょ? 目のぱっちりしたひとを好む者もあれば、うりざね顔の君を想う者もいる。美人の基準なんてものは、人それぞれで違います。そうでしょう?」
「建、朝っぱらから何を小難しいことを言って……」
そこへ、起きてきた怜が話に加わった。彼は建が小次郎に言ったことを聞いてうなずいた。
「なるほど、確かにそうかもしれんな。特に自由に女人の姿を見ることのできないこの世の中、なまじ人の噂を信じるとろくでもない娘と契りを結ぶ羽目になるやも知れん」
そのときの建が、悲しそうな目で自分と怜を見つめていたのを小次郎は覚えている。
「おい、あの牛車、伊津良の少将じゃないか?」
怜の声に小次郎ははっとした。
「見事な褐毛なのに趣味のクソ悪い頭絡つけやがって、牛がかわいそすぎると武光がくさしてたからな、覚えているぞ」
この雨の中、風の中、そして雷の中をものすごい速さで遠ざかる網代車を怜が指差す。
「もしや」
怜は馬の腹を蹴った。慌てて小次郎もそれに倣う。すでに羅城門を過ぎてかなり進んでいた。
友に付いて馬を駆けさせながら小次郎は、建が死んだことを、いや、死んだと聞かされたことを思い出していた。
葵屋敷に着くと、馬を武光に任せてふたりは簀子を走った。小次郎までもが走る必要はないのだが、らしくもなく怜が慌てているのでつきあいだ。
途中、雷に怯えて泣き喚く女房と行き合い、怜は尋ねた。
「紅葉、美夕姫はどこだ」
「殿! 姫さまはお居間に、きゃあ!」
雷鳴が轟き、すがりつこうとする女房をやんわりと柱につかまらせると、怜は再び走り出した。小次郎も走る。走りながら、美夕姫がいるという居間がどのあたりか、見当をつける。
ぴかっ、ごろごろ、どすーん、ときたのに負けぬ音量での悲鳴が、はっきりと聞こえたからだ。
「美夕姫っ!」
怜が局に飛び込む。と同時に、またばりばり、だすーんと地響きするほどの落雷!
「「「きゃああぁ〜!」」」
叫び声と共に飛びついてきた女房たちの勢いに、怜はその場に縫い留められた。
「兄上?」
女房らがすがった男が武光ではないことに気づき、少女は笑みを浮かべる。
「お帰りなさいませ」
そこへまた稲光。女たちの悲鳴。だが少女は顔を上げて兄の言葉を待っている。
くっきりと光に照らし出された姫の姿を見て、思わず小次郎は息をのんだ。
「あっ」
妻戸の陰に立つ小次郎を見て驚き、美夕姫は袖几帳で顔を隠す。
「美夕姫、伊津良の少将が来なかったか?」
怜はいつになく厳しい声で妹に尋ねた。
「よくご存知ですのね、お兄さま」
袖をつ、と下げて目元を現す美夕姫。
「少し前に、妙な物音がすると思ったら、そこの妻戸を開けて伊津良の君が立っていらしたのです。小雪の他の女房たちは雷に怯えてどうしようもない有様でしたから、わたくし、すぐに顔を隠して奥に入ってしまおうとしましたの。すると」
「するとっ?」
怜がつばを飲み下す音が大きい。小次郎も、握っていた手に力を入れた。
「あのかた、わたくしの後ろから抱きつこうとなさったのです。それでわたくし……ついうっかりとですのよ、お兄さま。わたくしの肘があのかたの鳩尾を打ってしまいましたの」
悲鳴をあげる瞬間に口元を覆うために上げた腕の肘が上腹部に当たってしまったのだと妹姫は説明した。
「それはもうお痛がりになって、そのうめき声でお供の人が様子を見にいらして、連れて帰られたのですわ」
「つい? うっかり?」
絶妙の角度で肘打が男の腹に突き入ったのだと怜にはわかった。たぶん、炸裂している。ほっと安堵の息をつくも、ちょっとだけ口元が引きつる。
「お兄さま、こちらは、あの……」
「ああ、藤原唯時どのだ。小次郎、妹の美夕姫だ」
ぞんざいに怜が紹介すると、美夕姫は丁寧に指をついて頭を下げた。
「美夕姫でございます。お兄さまのご親友なれば、わたくしにとって兄にも等しきおかた。ふつつかな妹でございますが、よろしくお願い致しますわ、小次郎さま」
自分を小次郎と呼ぶ美夕姫の声は、その清かな笑顔は、あまりにも建と似ていた。返す言葉が出ない。
「小次郎さま?」
その声に、なんとか応える。
「あっ、いや、こちらこそ……美夕姫どの」
青白く光る稲妻によって浮き出される少女が、ともすれば二年前の建の姿と重なって見える。
雷が鳴り渡った後は、というか、それと同時に女房たちが叫ぶのだが、美夕姫は顔色ひとつ変えない。何とも気丈な姫だ。
平安の都の春の一夜は、嵐であった──。
〈一〉嵐野 ── あらしの ──
この作品は私が中学3年生の夏から高校2年生の春にかけて書いた『葵日記』をリライトしたものです。
ついでにタイトルも昨今のラノベっぽくしてみました。
当時の私がいちばんの美女だと思っていた俳優さんのお名前をいただき、主人公の名前といたしましたが同級生に3人、同じ読みのかたがおられましたので、誰とも違う漢字にしたら美夕姫になりました。いわゆる“子なし三文字”の名前は今でいう“キラキラネーム☆”だったと思います。
今回のお届けは第1話で、このお話は第35話まであります。毎月2話、1日と15日に公開していく予定です。おつきあいいただけましたら幸いですm(_ _)mペコリ