僕はasmr動画投稿者
「こほんっ。えーひとまず感覚は掴めたと思うから、あとは自己研鑽あるのみだ」
部屋まで戻ってきた後、僕は大仰な口ぶりで告げた。
「はいっ。了解しました!」
これに対し、恋水さんは敬礼ポーズで返す。
お互いになんだか変なテンションだ。
気を取り直して僕は具体的な説明を始めた。
「僕の経験則から効果的だった練習方法をアドバイスするよ。まずひとつ目標となる人を見つけるんだ。そしてその人のいいと思うところを見極めて、ひたすら近づける作業を行う。自分のものにできたと思ったら目標を変えてまた同じことをする。これの繰り返しだ」
「ほうほう」
相槌を打ちながら、いつものメモ帳に記録している。
「重要なのは、録音したものをすぐに聞ける状態にしておくこと。ということで、録音に必要なものを一式、恋水さんに貸そうと思ってるんだけどどうかな?」
手のひらを打ち合わせ、僕は彼女に提案した。
「私としては嬉しいですけど、よろしいのですか?」
「この業界って初期投資費がばかにならないんだよね。全てを学生の経済力で賄おうとしたら途方もない時間が必要だよ」
初心者はレンタルするという手もある。実際に僕も最初はそこから始まった。
「バイノーラルマイク一つで30万ですもんね……」
恋水さんはぎこちなく笑う。
「渡そうと思っているのは僕が使わなくなったやつ。つまり、おさがりなわけだけど、性能が十分あることは僕が保証するから安心して使っていいよ」
「とんでもないです。貸してもらえるというだけで頭が上がりません」
音の世界は突き詰めれば再現がない。僕だって中堅どころだ。それに、恋水さんの声には圧倒的な価値がある。お金をもらえるようになるのはそう遠くないだろう。
「ちょっと用意するから待ってて」
僕は防音室に入って、ダンボールに詰めていたスターターセットを箱ごと持ってくる。
「使い方を軽く説明しておくね」
僕はダンボールに手を伸ばして、平べったくて四角い物体を取り出す。
「まずこれはノートパソコン。様々なものを接続して記録ができる。基本的な設定はしてあるからそのまま使っても問題ないと思うよ」
次は様々なスイッチがついている手のひら大の機材。これもASMRを録るには必要不可欠なものだ。
「これがオーディオインターフェイスだよ。パソコンとマイクの間に繋いで使うんだ。詳しい使い方はまた後でするよ」
最後にメインのマイクだ。
「あっ、それは」
机の上に移動させたバイノーラルマイクを見て、恋水さんは反応を示した。
「うん。最初にここに来たときに恋水さんが触ろうとしていたやつだ。運命の出会いってわけじゃないけど、愛着が湧くかなと思ってこれにしてみた」
たくさんの活動者に愛用されているメジャーなシリーズの製品だ。値段はそれなりにするけど、どのようなシチューエーションにも過不足なく対応できる万能者だ。
ある意味では恋水さんに見る目があったと言える。
「じゃあ二人で実際に録音ができるようになるまでセットしてみよう」
◇
「録音されていますか?」
僕はサムズアップを送る。恋水さんの声が音楽制作ソフトに取り込まれているのがパソコンの画面で確認できる。
「それにしてもすごいですね。自分で喋った言葉がそのまま私の耳に入ってきます」
イヤホンを耳に装着した状態で、バイノーラルマイクをじっくりと眺める恋水さん。
マイクに吹き込んだ音をリアルタイムで確認しながら録音することを、モニタリングという。自分の耳で確かめながら進められるため、非常に便利な機能だ。
「ふぅ」
前に垂れ下がってきた髪をかきあげつつ、恋水さんはイヤホンを外した。
「丁寧にありがとうございます。機械音痴な私でもやっていけそうです」
「こうやって直接教えるのは久しいから理解してもらえて僕も嬉しいよ」
僕も最初は苦戦したものだ。ネットで調べながらなんとか環境を構築した。
時計を確認すると、午後三時前だった。
そろそろ始めた方がいいかもしれない。
「恋水さん、仕事を終わらせてくるからそれまで……」
「はい分かっています。響谷さんには十分に教えてもらったのであとは自分の力でやってみます。お仕事、頑張ってきてください」
僕の言葉を継ぐようにして、言いにくかったことを言ってくれた。
「終わったら質問とかなんでも受け付けるから」
防音室へ送り出してくれた恋水さんの笑顔が、扉を閉める前に見た最後の光景だった。
◇
こうやって一人っきりで作業をするのはいつも通りのことだ。
なのに防音室の扉が閉まった瞬間、大海原に放り出されたような気分になってしまう。やっぱり恋水さんと一緒にいた時間が僕をそうさせたのだろう。
防音室の中は孤独だ。
機械を一つも作動せずに無言でいると、余計に際立つ。
僕はいつものルーティーンに従ってパソコンを起動させ、モニター前のオフィスチェアに腰をかけた。確かな反発が僕の背中を支えてくれる。やがてパソコンが動作音を響かせて、モニターが点灯した。
OSがしっかりと立ち上がったことを確認した僕はデスクトップのショートカットをクリックし、とある画面を映し出す。
【kanade ASMR】
僕の動画投稿サイトのチャンネル画面だ。
チャンネル登録者数は71万人。顔出し、声出しなし且つASMR専門チャンネルであることを考慮したら中々やっている方であると思う。
直近の動画は6日前に公開されている。
コメントを見ていくと、日本語の他に海外の言語も一定数見られた。最近はグローバルを意識して作ってので、狙った通りの反応が来て嬉しい限りだ。
と、悦に浸るのはほどほどにして目の前の課題に集中する。
これからやることは、平日の隙間時間を活用して編集を終わらせた完成品を投稿するのが一つ。もう一つは新しい動画の素材を作成することだ。
「今日はこれでいこうかな」
思いついたら書き留めているアイデア帳。頭の中で構成を練りつつ、必要な機材、アイテムを揃えていく。
音にこだわり抜くはもちろん、近年は視覚まで支配下におくのが重要になっていきている。
こういった動画を視聴する人は癒やしを求めているわけで、癒やしを得る手段は別に音だけに限らないからだ。動画というコンテンツは非常に相性がいい。純粋に音を楽しんでいる視聴者もいるだろうけど、総合的にみて軍配があがるのは映像も重視した方だと僕は断言できる。
まあこれがキャラクター性を重視した活動者になると話が変わってくるんだけど。
僕は意識を切り替えて、撮影に移った。
◇
エンコードが終わり、無事動画が投稿されたのを確かめてから、ふと僕は時計を見た。
「えっ、もう8時!?」
防音室に入ったのが三時前だったことを考慮すると、約五時間籠もりっきりだった事がわかる。いや、別にそれは大した問題じゃない。熱中しているうちに一夜明けたこともある。問題なのは、その間恋水さんをほったらかしにしていたという事実だ。
オフィスチェアから跳ねるように立ち上がって、ドアノブに手を掛ける。
僅かな隙間が空いた瞬間――空腹感を的確に刺激する匂いが届いた。
「あ! 終わりましたか? 響谷さん」
ワンピースの上にエプロンを重ね着した恋水さんが、半身でこちらを振り向いた。