第五話 耳かきの時間(リアル)
――どうしてこうなった
僕はいそいそ準備を進めていく恋水さんを呆然としながら眺めていた。
『一度、二人で実際にやってみませんか?』
たしかに僕がアドバイスしたことと彼女の提案に相違はない。
しかし僕はこの後で、色々な作品を視聴して記憶という名の経験を積むようにアドバイスするつもりだった。こっちの方が手軽にたくさんの経験を積むことができるし、演技に対する解像度も上がる。
「んふふん」
おそらくこれは彼女の向上心から導き出された考えだ。むやみに拒絶することは、やる気を削ぐことに繋がりかねない。
故に僕は黙って受け入れることにした。
「響谷さんにやってもらうのは、後半にある公園のベンチで膝枕される場面です」
おままごとというのは古代から往々にして女子が主導権を握るものだ。男子はそれに付き添うことしかできない。
「あ、一つ注意があります。演じている間は一言も言葉を発さないでくださいね。シチュエーションボイスの形式が崩れてしまいますから。基本的には私が言った通りに従ってください」
有無を言わせぬ圧力を感じて、僕は口を一文字に結びながら首を縦に振った。
「まずは外に出ましょう。丁度いい場所を思いつきましたので」
僕は軽く服装を整えてから家を出た。
念のため鍵も締めておく。
恋水さんは浮足立った足音を響かせながら僕の前を先導していく。
エレベーターに乗り一階まで向かう最中、僕は恋水さんに尋ねた。
「ところでどこに向かってるの?」
「マンションにある談話室を使おうと考えました。入居者の予約が必要のようなのでお願いできますか?」
「うん。やってみるよ」
複数人で面会するのに丁度いいような空間がこのマンションには備え付けられている。普段の使用状況をみるにおそらく使えるだろう。
僕は開いたエレベーターの扉をくぐり抜け、その先の受付にいる管理人さんに話しかけて許可を取りに行く。
「大丈夫だって。ひとまず一時間分の予約をとったけどそれでいい?」
「ありがとうございます。十分です」
「今すぐ使えるらしいから、急いでいこう」
談話室には中央の机を挟んで、横長のソファーが二つ配置されていた。
「私たちにぴったりですね。台本に近い形でできそうです。さっそく始めましょう。まずは隣り合って座るところからです」
◇
意識を切り替えて、僕は恋水さんの傀儡だと自分に言い聞かせる。
そしてここは青空が眩しい緑が溢れる公園だ。
「少し疲れてきましたね。あっ、ちょうどここに日陰のベンチがあります。休憩にしましょうか」
恋水さんの口から流れる言葉はなめらかで、実に自然だ。正当性があって、本当に歩き疲れた気分になってしまう。
言葉巧みに誘導され、僕はベンチに腰をかけた。
「ふふ。まぶたが閉じかかっていますよ。おねんねの時間ですか?」
頭がぼーっとしてくる。
「え? お仕事が終わらなくて終電で帰ってきた? 最初から言ってくれたらゆっくり寝かせていたのに……」
恋水さんは自身の太ももを叩いた。
ワンピースの裾の端から真っ白い肌が見え隠れする。
「ここ使いますか? 遠慮しないでください。これは自己満足のようなものですから。断られると逆に悲しくなってしまいます」
恋水さんの悲しげな表情は例え演技だとしても卑怯だ。
これをされて断る人は存在しない。
僕はゆっくりと体を傾けていく。
「そうです。そのまんま寝転がってください。いい子ですね。その……どうでしょうか私の膝枕は」
悪いわけない。
「密着しながら話されると少々こそばゆいですね」
頭になにかが触れる。細くて柔らかいそれは僕の髪を何度が梳くと、僕の目を塞いだ。
「こら。ちゃんと目を閉じてください。私が見守っていますから、どうぞ安心して寝てください」
目を閉じると手のひらがスライドするように耳元まで動き、撫でる動作を再開させる。時折耳に触れる感触が訪れて、触覚が敏感になっていくのを感じる。
でも全てが温かくて懐かしくて。
僕は――
やってしまった。僕は少しの間、本当に寝てしまったようだ。
側頭部をひと撫でされる。
「目覚めたようですね。でもそのままでいてください」
演習はまだ継続中らしい。
「梵天付きの耳かきと、綿棒を用意しました。これから耳のお掃除を始めます」
ん? 何かおかしい。
僕が今回作った台本に、耳かきは含まれていなかったはず。
アドリブでセリフを変更するのはむしろ推奨していたとはいえ、公園のベンチで耳かきするのはやっぱり変じゃないかな?
「あなたは私の言う通りにしていればいいんです」
このセリフで思い出す。
シュミレーションの最中、僕は口を開くことも反抗することも禁じられている。
結局僕は恋水さんの言いなりになるしかないみたいだ。
「動くと危ないので、じっとしていてくださいね」
体温が近づいたのを肌で感じる。
「そぉ~っと」
耳かきの先が僕の耳に侵入する。
「どうでしょうか。年の離れた妹がいてよくやってあげていたんです」
ASMRとはまた異なる新鮮な刺激。恋水さんの甘い吐息も降りかかり、神経伝達物質が大渋滞を起こす。だんだん耳の感覚が麻痺して、じんじんしてきた。
だめだ。僕はもうだめかもしれない。
声が漏れないように必死に耐える。耐え続ける。
「次は梵天いきますね」
一呼吸おく暇もなく、ふわふわが中に差し込まれた。
「くるくる~くるくる~」
梵天と声の二つの柔らかさが同時に襲いかかってくる。
「どうですか。くすぐったくないですか? 自分でやるのと人からやられるのって、ずいぶん感覚が違いますよね」
ゆっくりと梵天が引き抜かれる。
「はいこれで左耳は終わりです」
引き抜いた恋水さんの腕を僕が掴んだ。
「恋水さん。ここまでしてくれるのは嬉しいけど、経験の面から見たら十分じゃないかな」
膝枕されている人物これを言っている思うと情けなく感じるけど仕方ない。この言葉を言い切るだけでも僕は息が途絶え途絶えになっていた。
「あ、え、わわわすいません! 夢中になっていて気づきませんでした」
幸いにも彼女に知られる心配はなさそうだ。
手の中にある耳かきを持て余すように振り回し、あたふたしている。
その隙に僕は体を起こした。
恋水さんからはさっきまでのオーラが消え失せていて、すっかり元通りだ。
いまのは何だったのだろうか。
「一回部屋に戻ってからまた話すでいい?」
僕の提案に恋水さんはコクコク頷いた。