第四話 合宿
「お邪魔します」
例のごとく駅近くのマンションの一室――僕の作業場に現れた恋水さん。
前回や、前々回と違うのは、今日が休日であるということ。
この春進級した僕らは最初の一週間を終え、週末を迎えていた。
今日に至るまでの期間で、恋水さんは僕にとって嬉しい考えを示してくれた。
『音声作品の制作に協力することにします』
ただし、こうも言った。
『協力するからには最大限努力しますが、響谷さんにも付き合ってもらいます』
その第一弾として今日から明日にかけて強化合宿を行うことが計画された。内容としては、ASMRについての理解を深め、最低限運用できる知識と技術を得るというもの。
生徒は恋水天衣。
講師は僕、響谷湊である。
◇
「ところで恋水さん。家族にはなんて説明してきたの?」
キャリーバッグに詰めてきた荷物を整理している恋水さんに僕は問いかけた。
彼女の家は厳しそうという勝手なイメージがある。そうでなくても、男子の家に泊まり込むとそのまんま説明したとして許可されるわけがない。うまい抜け道を考えてきたんだろうと思って気になった。
「新しく所属した部活のメンバーとお泊り会をすると言って誤魔化しておきました」
意外とまともな設定で安心した。
後で『ワシの娘を誑かした小僧はお前か!!』とかややこしい展開にならないで済みそうだ。
「響谷さんは?」
「僕は休みがあればしょっちゅう引きこもっているから今更だよ。またやっているよとか思ってるんじゃないかな」
平日は時間の制約で簡単な作業しか行えないため、週末に依頼されたものや動画用の素材の作成等をまとめて行っている。よって、一日こっちで過ごしても心配されることはない。
まあクラスメイトの女子と二人だとは思っていないだろうけど。
「もしかして私、邪魔になっていませんか?」
不安げな眼差しで恋水さんは恐る恐る尋ねてきた。
僕の話を聞いてそう思ってしまったんだろうけど、全くの見当違いだ。
「どれもこれも僕の好奇心から生じて始まったんだ。恋水さんが協力してくれるおかで長年の願いが叶おうとしてるのに、邪魔だなんてあるはずがないよ」
恋水さんは胸をなで下ろした。
「全てを費やしてきた僕が良いと思ったんだ。もっと自分の声に自信をもっていいと思うよ」
「はい……なるべく自分を卑下しないように気をつけます」
自信を持つのをいいことだ。音というものは人物の心情も繊細に映し出す。天性の声の持ち主だということを自覚することで、更に一歩前進する。
「気を取り直して、まず最初は今回の合宿の最終目標を共有しよう」
「え~と、簡単なシチュエーションボイスを完成させる。でしたよね?」
「うん。さらに言えば音声をバイノーラル録音して、ASMRを意識した作品をつくるんだ」
シチュエーションボイス。それは、あるシチュエーション下において主人公が特定の人物に向かって話している設定のセリフを収録した音声のことだ。
一人語りの演技が基本で、相手側の声は含まれない。
したがって、聴く側は物語の当事者となって楽しむことができるようになっている。
「台本は僕が用意してきたから流れにそって練習してみようか」
「はいお願いします!」
◇
「もうそろそろ始めるよ。よーいスタート」
今回の台本は、付き合いたての男女が公園デートをして、途中疲れてしまった彼氏を彼女が膝枕するという内容だ。
最初は、家まで迎えに来た彼女がベッドで寝ている彼氏を起こすところから始まる。
「ソロソロオキテクダサイ。アマリニモオソイノデ、チョクセツオコシニキチャイマシタ」
うん。硬い。
バイノーラルマイクの扱いかたを一通り教えたので、まずは見様見真似でやってみようということになったけど、早かったかもしれない。
僕は防音室のパソコンの前で、録音状況をモニターとイヤホンで確認しながら聞いていく。
「エ? どうしてイエニハイレタカデスカ? アイカギヲツカッタカラにキマッテイルじゃないデスカ」
演技は経験の差が如実に出る。初心者がいきなりやれと言われたらこうなるのも無理はない。
「アイカギをワタシタオボエガない? マエにカギヲカリタトキニツクッタンデスヨ。カノジョダカラフツウですヨネ?」
僕は恋水さんの方を向いて腕でバツ印をつくった。一時中断の合図だ。
イヤホンを片方貸して、今録ったものを再生する。
「うわ~酷いですね」
自分の声を聞いて恋水さんは舌をちろり出した。
「これくらいの出来のものでもネット上にはありふれているよ。あまり人目についていないだけでさ」
恋水さんが特別下手というわけではない。
演技が上手な人が僕らの前によく現れているせいで、そう錯覚してしまう。
「恋水さんに足りないものが分かったよ。それは想像力だ」
「想像力……ですか?」
僕は頷いて肯定する。
「たぶんいまの恋水さんは目の前の文字を追うのに必死になって、役に入り込めていなかったんじゃないかな。こればかりは練習時間の問題かもしれないけど、もっとやりようはあったはずさ。例えば一番最初。彼氏の肩を叩いて起こすシーン。愛しき彼氏を間近で見れるチャンスだ。僕がやるなら顔をもっと近づけて、耳のそばで声を掛けるかな」
「なるほど~」
恋水さんはどこからともなく取り出したメモ帳とペンで、今の僕の言葉を記録する。
「似た経験があればそこから発展させて演じることができるけど、大抵の場合はない。だから想像力で補うんだ」
書き取ったメモ帳とにらめっこしながら唸っている恋水さん。
「ひとつ思ったのですが、響谷さんの言葉を言い換えると、似た経験があれば演じやすくなるということですよね?」
両手の指先を重ね合わせて、恋水さんは笑顔で語る。
「一度、二人で実際にやってみませんか?」