第三話 耳かきの時間
僕は放課後寄り道せずに作業場へ向かい、プレゼンをスムーズにできるよう準備を進めていた。
友人との会話で意外と知り合いが目を光らせていることが分かったので、恋水さんとはマンションで現地集合することになっている。
インターホンが鳴り、恋水さんの声が届く。
『私です。開けてください』
名乗らないと詐欺みたいに聞こえるから気をつけようね。
恋水さんの声の特徴は覚えているから、僕が相手だったら問題ないけど。
「お邪魔します」
ややって恋水さんを玄関で出迎えた。
学校で見たままの制服姿。現在は体に溜まった熱を放出するためかブレザーのボタンは全て外され、ブラウスも首元が見える程度に開放されている。
「中は多少涼しいと思うから、適当にくつろいでてよ」
防音室のデメリットは密閉されている故に熱が籠もりやすい点にある。エアコンを設置すれば改善されるけど、バイノーラルマイクは機械の動作音まで細密に拾ってしまうため、冷暖房設備の運用は常に我々を悩ませる問題だ。
「そうだ何か飲み物いる? といってもお茶かコーヒーぐらいしかないけど」
「ではお茶をお願いしてもよろしいですか」
昨日のうちに引っ張り出しておいた折りたたみ式の机の上に中身を入れたグラスを置く。クッションもそばにあるし、最低限くつろげる空間には仕立て上げられたはずだ。他には仮眠用の敷布団もあるけど、女の子をそこに座らせるわけにはいかない。
「休憩しながらでいいから聞いててよ。今日やろうと思っていることを説明するから」
僕に合わせてか律儀に正座をしている恋水さんに実物を見せながら話し始める。
「今日体験してもらうのは――耳かきだよ」
◇
「耳かきはもちろん知っているよね」
「はい。耳の中に綿棒等の長細いものを入れて汚れを取るという行為ですよね」
近年では不要説も唱えられているが、ASMRにおける耳かきの地位は未来永劫損なわれることはないと断言できる。
「使うのはごく一般的な竹耳かき。そして昨日のバイノーラルマイクの耳の穴の中をこれで擦ることによって、音を出していくんだ」
「理屈は分かりましたが、本当にリアリティーのある音になるのでしょうか」
グラスに両手を添えながら疑問を呈する恋水さん。
「早速やってみようか。百聞は一見に如かずってやつさ」
防音室に入り、恋水さんを昨日と同じようにマイクを置く台座の前に待機させる。
必要なものは揃ったけど、何かが足りないような……。
「あ、大事なものを忘れてた。ちょっと待ってて」
僕は一度防音室を出てからとあるものを持って戻る。
「これを頭の下に敷いて寝転がるんだ」
「寝転がる……ですか」
僕が恋水さんに渡したのは何の変哲もないクッション。強いて言うなら枕にするのに丁度いいようなサイズで、押すと適度な反発がある。
「小さい頃耳かきをされるときは、誰かに膝枕してもらったでしょ。音に合わせて体勢を変えると没入感が倍増するんだ」
「なるほど……では失礼します……」
防音室は大の大人が横になれる程度の大きさがある。もので狭くなっているとはいえ、寝返りを打つ程度ならなんら支障はない。
恋水さんが寝心地のいいポジションを探し終え、目を閉じたことを確認して僕は最終準備を開始した。
耳かきというシチュエーションが多くの人に刺さるのは、膝枕されているという感覚が付随するからだと僕は考えている。
人肌に触れる。それは人間が最も簡単に安心感を得られる行為だ。
ならば僕はその過程を丁寧にやっていきたい。
流れを頭の中に思い浮かべながらマイクのミュートを切る。
「これから耳かきをやっていくよ。先ずは右耳を上にして寝ようか」
恋水さんが身じろぎをするのに合わせて、僕はバイノーラルマイクを膝の上まで持っていく。それから覆いかぶさるように顔を近づけた。
「どう? 僕の膝枕、心地いい?」
いま彼女の耳には、クッションの柔らかさと音の二つの感覚が襲いかかっているはずだ。やがてそれらはシンクロして、実際に耳かきされているような錯覚に陥る。
僕の専門は手や道具を使って音を出すことで、声については専門外だ。動画でもNO TALKINGというジャンルを主に投稿していて、声を載せた動画を出したことは一度もない。
趣味でやることはあったが所詮はお遊び。プロの方々には到底及ばない。
つまりここからが本番だ。
「いくよ」
まずは優しく。奥深くというよりも穴の周囲にそっと触れていく。徹底的にじらす。だんだん同じ刺激に耳が慣れてきたところで、初めてぐっと強めに擦り付ける。でもそれは一回きりだ。流れるように棒の先を内壁に添わせて引き戻す。
恋水さんの耳にはいまの感覚が残っているだろう。快く感じたその感覚を体は覚えていて、次第に求めるようになる。熱望していく。時間が経つほどにより強く。
舞台は整った。後は手先の感覚と――恋水さんの様子を見ながら攻めていく。
僕としてもリアルタイムで反応を確かめながら行うのは初めての経験だ。もしかしたらこの時間で僕は新たなステージに辿り着けるかもしれない。
そう思うと余計に、楽しくなってくる。
僕は指先の神経に全集中した。
◇
「はい。右耳はいったん終わり。反対側を向こうか」
満足行くまでやり終えた僕は、体の向きを変えるように指示した――
あれ? 反応がない。
胸を上下させる恋水さんを見て、原因に思い当たった。
おそらく恋水さんは寝落ちしてしまったのだろう。
なかなか寝付けない人がASMRを聞いて寝れるようになった、という話はよく耳にする。僕もそういう声をたびたびいただく。聞きながら寝てしまうのはおかしいことではない。
恋水さんにも疲れが溜まっていたのかもしれない。
「おやすみ」
僕は最後に小さく言ってミュートにした。
それから音を立てないようにバイノーラルマイクを元の場所に戻し、そっと恋水さんの様子を伺う。
やはり寝ているみたいだ。
やけに呼気が湿っぽい気がするが、体の熱が抜けきっていなかったのかもしれない。
僕は防音室の扉を開いて、空気を入れ替える。
「はぁ~」
人が寝ているのを目にした所為か、僕まで眠くなってきた。
その場に横たわる。硬いフローリングだ。ひんやりと少し冷たい。
僕の意識はそのまま暗闇に吸い込まれていった。
◇
僕は微睡みの中にいた。
体と意識が切り離された状態。自分の姿を俯瞰している。できることならここにずっといたい。
しかし覚醒のときは近いみたいだ。
徐々に体の感覚が戻ってくる。
心地よい。仄かに温かくて、柔らかい……ヤワラカイ?
「はっ」
僕はこじ開けるようにしてまぶたを開いた。
至近距離に恋水さんの顔がある。
膨らみの奥側から向けられる観察するような眼差しは、僕が目を覚ましたことで歓喜に変わった。
「起きましたね。おはようございます」
「おはよう」
取り敢えず返したけど、この状況はどう説明したらいいんだろう。
「どうして僕は恋水さんに膝枕されてるんだ?」
「……だめでしたか?」
しゅんとなる恋水さん。
けど分かったことがある。僕から寝ぼけて膝枕されにいったのではなく、恋水さんの方が能動的にこの状況を作り出したということだ。記憶が戻ってくる。そもそも僕は床板の上で寝たから、自ずとこの状況が発生するのはあり得ない。僕に罪はない。きっとそうだ。
「僕に損はないけど、純粋にどういった経緯で膝枕されてるのかなって」
ほっとしたように恋水さんは顔を明るくした。
「体がようやく落ち着いて……いえ、気づいたときには響谷さんが床の上で寝ていらしたので私が枕の代わりをしていました」
僕が寝ていることと、膝枕をしようと思うことは繋がらないように思えるが真実は分からない。
「嬉しいけど。足、痛くなかった?」
「クッションを支えにしていたので問題ありません!」
それってクッションを枕代わりにしたら解決してたよね?
「そろそろ離れてもらえないかな。このまま起きると頭がぶつかりそうだよ」
「あ、すいません。失念していました」
僕はようやく体を起こすことができた。
どのくらい寝ていたのかと時計を確認する。
「もう19時だけど、時間大丈夫?」
「今日は……いけません! 家族で外食にいく予定でしたっ」
お邪魔しました、とテキパキ身支度をして出ていった恋水さんを、僕はその場で見送った。
危なかった。生きた心地がしなかった。セクハラと間違われるような状態になっていたのもそうだけど、何よりも声が近すぎてやばかった。
普段はほわほわしているのに今は小悪魔みを感じた。
自覚してやっているのだろうか。
恋水さんの声が僕にクリティカルヒットだということは向こうも分かっているはずだ。
会話しているだけでも色々と大変なのに、あんな近くで囁かれたらどうかしてしまいそうになる。
大の字に寝転がる僕の頭に恋水さんの声がエンドレスで響き渡る。放心状態から立ち直るのにしばらくの時間を要した。