第十話 妹、襲来
僕はスマホのバイブレーションで目を覚ました。
寝ぼけた目を凝らして内容を確認する。妹からだ。
『そっちにご飯持っていくから』
僕には二歳下の妹が一人いる。僕には勿体ないできた妹だ。時々こうして食べ物を送ってくれる。美琴は母が作ったものを持ってきただけと言うが、彼女のものも入っていると僕は知っている。
「ぅ~~~」
ふと、背後で可愛らしい唸り声が鳴る。
体の向きをその場で変えると、近いところに恋水さんの顔があった。
「ふにゃふにゃ……」
気持ちよさそうに眠っている。幸せな夢を見ているのかもしれない。
僕は不可抗力を大義名分にして、恋水さんを間近で観察する。まつげの一本一本までくっきりと見える距離だ。つつきたくなる柔らかそうな頬を小刻みに動かしている。
あまりの熟睡っぷりに、こちらまで眠たくなってくる……。
「……って二度寝している場合じゃない」
僕は気力を振り絞って、手元を操作する。
『あとどれくらいで着く?』
すぐに返信が来た。
『もうすぐ』
僕はスマホの画面と、恋水さんの寝姿とで視線を行き来させる。その逡巡すら惜しくなって、僕は華奢な肩を揺らした。
「恋水さん朝だよ。起きて」
運悪く、恋水さんは朝に弱いタイプのようだ。「ずっとこのままがいいです」とか、よくわからないうわ言を口にしている。
スヌーズ役をやっている場合じゃない。
僕は強硬手段に出る。
「えい」
恋水さんの鼻をつまんだ。呼吸音が止まる。
息が苦しくなって起き上がるのを待つ作戦だ。
どこかで見て実践してみたけど効果てきめんだ。こらえきれなくなった恋水さんの目と口が開く。
「――はッ」
見開かれた瞳がやがて僕の顔に焦点が合う。
「ひ、ひひ響谷さん!?」
「そうだよ。おはよう」
「……おはようございます」
目線を横に外しながらだけど挨拶を返してくれた恋水さん。
これなら大丈夫そうだ。
「緊急事態だ。そのままでいいから聞いて」
僕の緊張が伝わったのだろう、はっきりとした頷きが返ってくる。
簡潔に状況説明と要求を伝える。
「もうすぐ妹がここに来る。なんとか玄関で済ませるようにするけど、たぶん難しい。バレるとやばいから、荷物を持って、防音室の中に隠れて。お願い」
ピンポ~ン。
場にそぐわない呑気なインターホンが見計らったように鳴った。
おかげで事態が緊急を要すると理解したようで、恋水さんはドタバタしながら部屋中を巡って荷物をかき集め始めた。僕も手伝う。
「僕が開けるまで外に出ないように」
恋水さんを防音室に押し込め、最後に彼女の靴を棚の奥にやる。
それから僕は平然を装って扉の前に立った。
鍵を開けると、荷物を抱えた美琴が姿を現す。
「遅い」
ごもっともな言葉だ。
美琴は前髪が長くて目元がほとんど隠れている。
その隙間からわずかに覗く暗い瞳がそこはかとなく恐ろしく感じるけど、普段通りだから僕の心持ちの問題なんだろう。
「ごめん。部屋が汚いから急いで掃除していたんだ。あはは」
「ここから見る限り、普段と変わりないようですけど」
「えっと~。普段以上に散らかっていたのを、元の状態に戻したんだ」
美琴は僕なんかよりよっぽど頭がいい。彼女の怜悧な頭脳は、的確に僕の違和感を突いてくる。そういえば僕は彼女に頭脳戦を挑んで勝てたためしがない。
「まあいいです。ん」
両手に持った荷物の片方を突き出してくる。持てということだろう。余計なことはせずに素直に従う。
「もう片方も持とうか?」
できれば、そのまま帰ってくれたら一番だ。美琴には悪いけど。
「にーさんには任せられません。落としたらお母さんに申し訳ないです」
「そんなに僕、頼りない?」
「ええ。本当は片方持たせるだけでもハラハラしています」
どれだけ兄が信用ならないんだろう。
力はない方だけど、それでも僕は男だというのに。
「どうしました?」
いつの間にか美琴は靴を脱いでいた。帰るように言うタイミングを見失ってしまう。不用意に理由づけしても、美琴が相手では見透かされる可能性が高い。普段通りリビングまで迎え入れるべきだ。
「ううん。なんでもないよ」
僕は先を進む美琴の後ろを付いていく。
リビングに繋がるドアを開いて、僕は胸を撫で下ろした。
ひと目見た限りでは、宿泊者がいた形跡は見当たらない。
美琴は持ってきた料理を冷蔵庫にしまいながら言う。
「これが肉じゃがで、こっちは生姜焼きです。冷蔵庫に入れておきますが、早めに食べてください」
「ありがとう。肉じゃが楽しみにしてたよ」
「……感謝ならお母さんにしてください」
そっぽを向いて呟いた。かわいいやつめ。
別方向を見たまま美琴は僕に言ってきた。
「前のお皿とタッパーを回収するので、別の場所にあったら持ってきてください」
「了解……あれどうしたの?」
間違っても防音室のドアを開けないように。このことを改めて念頭に置いて動き始めようとしたとき、美琴がキッチンの食器入れに目が釘付けになっているのに気がついた。
カゴの中に目線を落としたまま言う。
「にーさん。最近なにか買い物しました?」
「ちょっとした食料品を買ったぐらいだけど……」
「では、この見慣れない食器はなんですか?」
彼女が持ち上げたソレを見て、僕は顔を青白くさせた。
まさしくそれは、恋水さんが料理をするために持参した食器類たちだ。
美琴が見覚えがないと言うのも納得である。
僕は言い訳を試みる。
「あ~それはね、そう景品で当たったんだ」
「使い込みの跡があります。数回使用した程度では発生しないでしょう」
あ、だめだ。勝てない。
「にーさん。私に何か隠してませんか?」
すっと距離を縮めてきた美琴は、僕に真顔で問うてきた。
僕の方が数センチ高いはずなのに、姿が何倍も大きく見える。
「あと部屋に漂っている甘い匂い。私たちの家で使っている柔軟剤とは系統が異なるものです」
目だけでなく鼻も鋭いようだ。
やっぱり勝てっこない。
「わかった。正直に言うよ」
戦略的撤退だ。
ここは最大限譲歩しつつ、譲れないものだけは守る。
「同級生が遊びに来たんだ。その食器はたぶん忘れものだよ」
「女ですか?」
間髪入れずに聞いてくる。
「ど、どうしてそう思ったの?」
「わざわざ他人の家に来てまで料理をするという行為がまず男だとほぼあり得ません。それに食器の意匠が女向けでしたので」
「正解だ。僕は確かにクラスメイトの女の子に料理を作ってもらった。でも仕事付き合いの一環だ。やましいことは何一つないよ」
詰問されたとて、こうやって恋水さんがまだここにいる事実は隠し通す。
負け続きの僕だけど、これくらいはやってやる。
「にーさんが正直に話してくれて嬉しいです」
「ごめん僕が悪かった。今度からは――」
「まだ隠していることがありますよね?」
……だめみたいだ。
「いったい僕がこれ以上なにを隠しているというんだ?」
最後の抵抗だ。
僕は推理小説の最終局面の犯人のようにあがいてみせた。
「はぁ。往生際が悪いですね」
美琴はなんてことない風に語った。
「玄関の扉が開いた瞬間、違和感に気が付きました。置かれていた靴です」
恋水さんの靴はしっかり隠したはずだ。
そして見つけた素振りもなかった。
「玄関にあるにーさんの靴が、今日はなぜか整っていました。どれもかかと部分が縁に付くようにきれいに並んでいました。いつもは脱ぎっぱなしなのに」
僕は心の中で頭を抱える。
これでは家族以外に訪問者がいたと語っているも同然だ。
「人間は誰しも家に人を呼ぶときはよく見せようとします。だめだめなにーさんもせめて玄関だけはきれいにしようとしたのでしょう。その時点で私はすぐ前に来客があったと確信していました」
美琴の言葉には淀みがない。
「問題はそのあとです。先ほど言った理由によって来客の正体が女であることが分かり、再び玄関の靴の配列が頭によぎりました。一足分開いていた空間。これは来客があってから日にちが経っていないと考えれば自然です。気になったのは全ての靴が、かかとが縁に付くようにして揃えられていたことです」
なぜ美琴が不自然に思ったのか。僕にはまだ全容がつかめない。
「つまり、にーさんは来客があってから一度も外に出ていないということです」
事実がどんどん整理されていく。
しかしまだ核心に迫る部分については言及されていない。
「このことから来客があったのは昨日のいずれかの時間だと考えられます。そしてもう一つ確かなことがあります。にーさんはその性格からして、来客があったときは外まで見送る選択肢を取るはずということです。相手が女で時間帯が夜であった場合は特に」
僕は恋水さんが初めてやって来たとき、駅まで送ったのを思い出した。
「来客が明るい内にあって、明るい内に帰った場合を考えると、にーさんが外まで見送りに行かず靴が整ったままであることは自然です。しかしこれはあり得ません。料理は夕食として振る舞われたからです」
「どうして夕食分だと分かるの?」
語気を強めて美琴は一息で言った。
「生活力のないにーさんは、いつも私が料理を持ってくるのを今か今かと待っていて、今頃はひとりでに取り出して『食べていい?』なんて聞いてくるはずです。なのに今日は平然としています。ろくな食料がなくて外にも出ていないのにおかしいです」
美琴にしてはやけに感情論に寄っている。けど、事実なので反論しようがない。
深呼吸で息を整えてから続けた。
「つまり来客は夕食の後、夜の時間帯に帰ったことになりますが、すると矛盾が生まれてしまいます。にーさんは夜を危ぶんで駅まで見送りをしたはずですが、玄関の靴の置き方は外に出ていないと訴えています」
ここまでくれば僕にも分かった。
「この矛盾を解消する一つの方法があります。にーさん、もうお分かりですよね?」
来客がまだ帰っていないと考えれば全てが繋がる。
美琴は自分の思考力のみで答えに辿りついてしまった。天才だ。誇らしくなる。
「敵は本能寺にあり!」
突如、美琴は方向転換をして、防音室に突き進んでいった。
勢いそのままドアを開ける。
「ぐへっ!」
蛙が潰れたような音がした。