第一話 天使様はASMRを体験する
「恋水天衣といいます。よろしくお願いします」
それは思いがけないタイミングだった。
とある理由から鬱々とした心境で登校してきた僕は、クラス替え後初めてのホームルームで、その声を聞いた。
出会ってしまったと思った。
――だってその声は、僕が思い描いていた『天使の声』そのものだったから。
◇
「少し話したいことがあるから、付いてきてくれない?」
僕はホームルームが終わった瞬間、彼女に声をかけて廊下に連れ出した。クラスメイトから見られたような気がしたけど、今の僕にとっては些細な問題だ。手を引っ張ってひたすら前に進む。
人気のない廊下で立ち止まり、振り向いた。
開口一番に、僕は頭を下げる。
「あなたの声を聞いた瞬間こころを奪われました。僕と(音声作品をつくるのに)付き合ってください!」
早まって大事なところが抜けてしまった。
慌てて修正しようと体を起こしたところ、ちょうど彼女と目が合ってしまう。
恋水さんは、ぽっと頬を赤らめて視線を彷徨わせ、それから何度か口を開閉させた後に、声を出した。
「……はい」
いや、おかしくない?
なんで名前も知らない男子の告白まがいの宣言におっけいしちゃってるの?
「ごめん、そういう意味じゃないんだ。協力してもらいたいことがあって、それに付き合ってもらえるかどうかを聞きたくて……」
「……そうだったのですか」
悲しそうな顔しないでくれないかな? まるでこっちが悪いことしたみたいじゃないか。いやまあ変なことを口走ってしまった自覚はあるけど、嫌われこそすれ落胆される道理はないよね?
ひとまず僕は簡単な説明をしていった。
要約すれば、あなたの声は音声作品に向いているので僕と一緒に活動してください、というものだ。
一通り説明し終えたが、受け入れてもらえるかは絶望的だろう。
ただでさえ疎まれるような内容なのに、僕が早まったせいで相手に不快感を抱かせてしまった。
「どうかな? 嫌だったら断ってよ。金輪際関わらないことを誓うから」
恋水さんと同じ空間にいるのに会話できないのは、地獄のような苦しみを味わうに違いないが仕方ない。
僕は彼女の返事を待つ。
ややあって恋水さんは返答をしてくれた。
「……詳しい話を聞いてから判断してもいいですか。まだ本当に私に務まるようなことか分かりませんので」
「やっぱりそうだよね……って本当?」
驚きのあまり反応が遅れる。
受け入れてくれた理由は皆目見当がつかないけど、嬉しくて言葉尻が上がってしまった。
「はい。よろしければお名前を聞いても……」
「もちろんだよ。僕の名前は響谷湊――」
冷静になって改めて向かい合って、僕はようやく気づいた。
不自然に言葉を切った僕を見つめて小首を傾げる美少女。
高嶺の花であり、男子人気ナンバーワンと名高い女子生徒――恋水天衣。
絶対的な容姿のあまり誰もがひと目置くという学校の天使に、僕は話しかけていたのだ。
◇
誘って受け入れてもらった以上こちらから断れず、僕は待ち合わせ場所に立っていた。
学校からさほど離れていない位置にある駅前。
さすがに一緒に学校を出るのは支障が生じるため、こうした形に落ち着いた。
「響谷さ~ん」
放課時刻は同じなため、すぐに彼女は現れた。
大きく腕を振る恋水さんが、遠くからこちらに向かってくる。背中まで届く長い髪が後ろに広がる。
目立つのでやめてほしいけど、止めさせようとしたら余計に注目を浴びるような気がしてならない。僕は目を合わせるだけにとどめて、声が届く距離になるまで待った。
「お待たせしました」
「問題ないよ。というか、恋水さんってこんなタイプだったっけ?」
女子の中でも育ちの良さそうな生徒に囲まれて、優雅に微笑んでるようなイメージがある。記憶の中にある恋水さんは間違っても手を振って駆け寄ってこない。
僕の指摘に恋水さんは笑顔を硬直させ、モジモジし始める。
「放課後にクラスメイトと遊ぶ経験がなかったので、はしゃいでいるのかもしれません」
恋水さんは顔を伏せながら小さく呟いた。
その言葉を聞いて僕は思わず笑ってしまった。
「遊ぶ。いいね、それくらいの心待ちで付いてきてよ。やっぱりまずは僕が好きなものを知ってもらいたいんだ」
相手が相手だからと僕は必要以上に大事と捉えていたみたいだ。
「はいっ。分かりました」
だからそうやって気負う必要がないんだけど……。
「そういえば響谷さん、これからどこに向かうのでしょうか」
時間に限りが合ったため、待ち合わせ場所だけ決めておいてあの場は解散した。
恋水さんは何も聞かされないまま連れ出されたような状態だ。
「僕が音に関するものを取り扱っているという話はしたよね」
「はい。動画も制作していらっしゃるとか」
「うん僕がそれらをつくるときに使っている作業場があるんだ」
それから僕は雑談を交えながら、目的地まで歩いていった。
◇
半年ほど前。その頃には広告収入や売上金等で一定のお金を得られるようになっていて、僕は思い切って専用の部屋を契約した。これまで使っていた機材や小道具に加え、気になったものを片っ端から購入してつぎ込んでいったため、今では自慢の収録スタジオと化している。
「ようこそ。僕の専用スタジオへ」
「おじゃまします」
ここで居住することは考えていないため、玄関からもので溢れかえっている。一応、何がどこにあるかは分かるようにしているが、傍から見たらゴミ屋敷に変わりがない。
「まあ気にしないで入ってきてよ」
ダイニングキッチンとユニットバスがあるため生活できることにはできるが、直近ではインスタント料理を作ったぐらいだ。そもそも僕には家族と住む家がある。
「この扉の奥が防音室になってるんだ」
メインの部屋まですぐに案内する。
この見るに堪えないスペースよりはマシなはずだ。
「お~なんだかすごく、すごい気がします」
見渡しながら感嘆の声を上げる恋水さん。
学校生活で関わることがなくて分からなかったけど、この娘は天然なのかもしれない。
「空いているところに荷物を置いて座っててよ。ちょっと準備があるからさ」
パソコンを起動させ、いくつかの設定を行う。
一段落ついて、横目で恋水さんの様子を伺うと、壁際に置かれた一抱えほどの機材に手を伸ばしてるところだった。
「それ、30万円するよ」
「えッ」
まるで熱いものに触れた時の条件反射のように手を引っ込ませる恋水さん。その動きが小動物みたいで僕は笑みをこぼしてしまった。
「ごめん。脅すつもりはなかったんだ。ただちょっと……」
やっぱり学校での姿とのギャップで面白おかしく感じてしまう。
「もーなんなんですかー!」
◇
「せっかくだから恋水さんが触ろうとしたやつを使ってみるよ」
僕は丁重にパソコンとの接続を完了させる。
「このイヤホンを耳に差して待ってて。アルコール消毒はしてあるけど、心配だったらそこにあるやつを使ってもいいよ」
「私は気にしないタイプなので大丈夫です」
恋水さんはぺたんとマットの上に女の子座りをして、イヤーピース部分を耳の中にねじ込んでいく。それが完了したのを見計らって口頭で注意喚起しようとしたけど、遮音性の高いイヤホンを渡していたのを思い出して、ジェスチャーで合図を送った。
「?」
口元に人差し指を当てるのに合わせて、口は横に広げておく。
どうにか伝わったみたいで、同じ動作をやり返してくれた。
ここからは集中の時間だ。
せっかく貴重な時間を削ってまで来てくれたんだ。最上級の音を届けたい。
僕は手元にあるバイノーラル録音マイクを見つめる。
売られているもののなかでは最もメジャーなもので、左右に人の耳の形をしたシリコンがついていて、人が聴くのと同じ方法で音を取り込むことができるようになっている。
要は普通のマイクで録音するよりも、リアリティーを感じられる設計になっているわけだ。
僕は呼吸を整えてからマイクのミュートを外し、右耳の部分をそっと撫でてみた。
ちらりと恋水さんの様子を見てみる。背筋がピンと伸びて、音の出処を確かめるかのように右手を耳に当てていた。
話の反応からしてこういったものに疎いことは分かっていたため、なるべく刺激は抑えるようにしたけど、それでも彼女の新品な鼓膜は敏感に音を感じ取ったようだ。
僕はささやき声で現象の説明をする。
「これはバイノーラルマイクといって、右と左の二方向から音を取り込んで、音に立体感を感じさせることができるマイクなんだ。ちょうど人間の耳が、どの方向から音が届いているのか判別がつくみたいにね」
機材は動かさずに頭の位置だけ変えて続ける。
「こんな感じで声が聞こえる場所が変わったでしょ。目をつぶるともっと実感しやすくるなるから、ちょっとやってみてよ。まあ個人差はあるけど」
僕の誘導に従って、恋水さんはまぶたを閉じてくれた。
こうして見てみると、やはり恋水さんは美人だ。誰が見ても可愛いと答えるだろう。おまけに胸を張る体勢になっているため、ただでさえ大きい体の一部が余計に目立ってしまっている。
僕は頭を揺らすことで彼女の姿を視界から振り払い、再び目の前の世界へ集中を始めた。
「こっちがみぎ~」
頭を反対側に持っていきながら口を動かす。
「こっちがひだり~。どう? ちゃんと聞き分けられるでしょ。もう一回いくよ」
大袈裟に反応してくれるのが面白くて、つい繰り返してしまう。
うまい具合に隙を突けるとビクンッと体を跳ねさせるので、それを狙っているうちに、どれだけ発生させられるかというゲームが始まった。もちろん僕が一方的に持ちかけた。
「~~~~ッ!!」
何度も繰り返していくうちに、ゆりかごのように反応が大きくなる。僕は当然手を緩めない。揺れが最大限に達したとき、いったい彼女はどんな反応をみせてくれるのか。僕は夢中になっていて辞め時を見失っていた。
「今度は頭の周りをぐるぅ~っと」
「こ、これ以上はもうダメです!」
恋水さんがイヤホンを抜き取ったのを見て、僕はようやく冷静になれた。
大人気のないことをしてしまった。
すぐさまマイクをミュートにして謝罪の言葉を送る。
「やり過ぎちゃったよね。ごめん」
彼女の頭上には白い蒸気が立ち上っていた。肩で息をしている。耳は真っ赤に染まり、今にも弾けそうだ。
様子がおかしい。全く反応がない。聞こえてないのかもしれない。
僕はもっと近づいて同じようなセリフを言う。
「大丈夫? 動ける?」
「ひゃっ!!」
飛び退いた。
ものすごい速さで壁際に張り付いて、膝立ちの僕を見下ろしている。
「どうだった? 気に入ってくれた?」
コクン、コクンと何度も肯定してくれた。
どうやら興味を持ってもらうという第一関門は突破できたみたいだ。
「いつの間にか結構時間が経っているね。そろそろ駅まで送って行くよ。遅くなると悪いからさ」
何故かめっきり口を開かなくなってしまった恋水さんを見送って、進級初日のイベントは幕を閉じた。