アヴィエンの実験室
「それであなた達は、人間を実験体に使いたいのね」
物分かりの良い女だと、最初はその程度の認識だった。
「別に私でなくともいいのでしょう。あの日、軍が襲った村に偶然いたのが私だっただけで、誰の肉体を使おうとも同じではないの?」
達観しているのではない。
普遍的に死を恐れ、苦痛におののく。現実の否定をせず、ただ自分に待つ運命を認識する。
それは特異な光景だった。この研究施設に来る実験体たちは、自分が実験生物として使われることを悟ると、多くは卑屈な被害妄想に陥るか、傲慢な自虐趣味に走る。このように、自分が一個の実験体として個性を尊重されないことを知って尚、自我を保っていることは非常に稀だった。
そのせいか、ふと茶化してみたくなった。悟りの境地とも見える澄ました表情が、なにをすれば、どこまで醜く歪むのか。整った顔立ちに隠された自我を知りたくなった。
「良かったな、ゼングハースの研究室でなくて。でなかったら今頃ダルマだよ」
実験体は、こちらを見据える。その視線は強くもなく弱くも無い。視線を落とし、ぎゅ、と自らの腕に触れた。
「四肢を切断されるのは、痛いわね。……でも」
私に向き直って言う。
「同じことよ。そこで使われる実験体の人も、私も、もう二度と外には出られず、死ぬまでここで消費される肉体。死までの過程に何があるかといえば、苦痛の大小の違いしかないわ」
「苦痛の大小、ね。それって重要なことじゃないか?」
「そうかしら。肉体にしか価値が無くなった私達に、苦痛がさしたる意味を持つとは思えないわ。大きな苦痛からも小さな苦痛からも逃げることは叶わない。未来に待っている運命が不変のものならば、それを気にすることは無駄でしょう」
「……怖くないのか?」
「何が?人間は想像の及ばない未来に恐怖するのよ。私は私の未来をはっきりと知っているわ」
諦観ではない。楽観でもない。絶望でもなければ、狂気でもなかった。
ただ淡々とその"実験体"は、己の行く末を見据え、理解する。
「そりゃ、恐怖の無い世界だな。羨ましいよ」
半分冗談・半分本気で言った。すると実験体はそこで初めて表情を崩した。困ったような、それでいてうっすらと笑みを含んだ苦笑いだ。
「恐怖が何も無いというのは違うわ。私は私自身の未来については恐れていない。でも、唯一恐れるのは――あなた達との関係性」
「……は?」
つい間抜けな声を出してしまった。意外な答えに、眉をひそめる。
「あなたは軍人で、この研究室の警備員。あそこに座っている女性は、この研究室の責任者である学者。そして私は、研究の為の実験用の人間。ここでこれから繰り広げられる関係は、どのようなものになるのかしら?それがわからない。見えない未来は、怖い」
実験体が言った事を理解するのには、数秒を要した。今までそんなことを言われたことなど無かった。たいていは、彼らは私たちを仇と考え、心からの憎しみを向け、また一切の交流を拒絶し、あるいは汚いものでも見るかのように嘲りと侮蔑の眼を向けた。
彼女のその言葉は、まるで戦場で銃を向けた相手に、笑顔で握手を求められたかのような――それは奇妙な感覚だった。
「まさか、お前、あれか?俺たちに取り入れば、温情でいずれは此処から出してもらえるとでも――そんな風に、思ってるのか?」
「さあ。そんなことは私の知ることではないわ。ただそうなれば、私自身の決められた未来にも改変の必要性が生じてくる。それは私にとっては、新たな恐怖が生まれ出るだけ……」
「……わけがわからん」
額を押えて頭を降ると、実験体はふふ、と笑って、
「要は、私はあなたにこう言っているのよ。"お友達になれるかしら"……ってね」
「……っ」
驚愕に言う言葉が見つからず、口をぱくぱくとさせる。
実験体は――少女は、取り乱す自分に笑いもせずまっすぐに見つめてくる。
無表情ではない。人間らしい表情があるわけでもない。ただ静謐に、"そこにいる"――人としてこれほど純粋な行為を、やってのける者がいるだろうか。
「……定証実験の時間だ。来い」
自分の中のもやもやとした感情を振り払うように、座った少女の腕をつかみ、強引に立たせる。実験、と聞いて少女の顔がさっ、と曇った。
これから襲い来る苦痛に備え耐えるかのように。