ぜんぺん。
クロノの執務室には扉がふたつある。
ひとつは廊下に繋がる、外側からの扉。
もうひとつは私室に繋がる扉。
その扉を、向こう側から叩く音がした。
そこからやって来る人物はひとりしかいない。
扉を叩いた本人もいちいち宣言しなくても誰だか分かっているだろうと分かっていて名乗らない。
なのでクロノも誰とは聞かずに入室の許可を出す。
「やあ、アメリ。こんばんは」
「あれ、ハル。まだ仕事してたの? うん? 今 大丈夫?」
「……どちらかひとり出て行け」
いきなり不機嫌になったクロノに、ハルはふはと笑い声を漏らした。
「は? なに急に」
「まあまあ。もう話は終わったよ。アメリ、ちょうど良いところに来たね。 こっちに座りなよ」
ひらひらと手で招いて、ハルは自分の座っている横をぽんぽんと叩いた。
アメリも眉をしかめながら、言われた通り横に腰掛ける。
「……なぜ素直にハルの話だけを聞いている」
「うん? 何でって。だって入れって言ったくせに、急に出て行けとか言う人のいうことなんか聞かないよね」
「なら、お前が出て行け」
にやにや笑っているハルに、クロノはさらに機嫌を斜めにさせて言い放つ。
「えー? 良いのかなぁ、僕にそんなこと言っても」
「ていうか、なんでクロノそんなに怒ってんの?」
「……どうして分からないんだ」
「なにが」
「アメリ。それ、西の衣装だね」
「そうだよ、すごく楽ちんで涼しいの」
この国の西にある国はクロノの母の産まれた国。
夏はものすごく暑く、それ以外はまあそこそこ暑い。
そんな国の衣装だから、風通しが良いように作られている。
白く薄手の麻布は、柔らかくさらさらで気持ちが良い。
今は夏も盛り。
夜になれば肌寒く感じるこの国でも、陽が暮れたばかりで、まだ昼間の暑さの名残がある。
アメリは夏の間、部屋で過ごす時は、西から手に入れたその衣装を気に入って着ている。
前身頃を首の後ろで紐を結んでいるだけで、肩や背中は丸出しになる。
上下繋がった衣装で、女性も下穿きが基本なのだがゆったりと布の分量が多い。
通気が良いように、下穿きの両脇には切れ込みが入っている。
正式にはこの上に、色鮮やかな布を多様に美しく巻き付けるところを、アメリは暑いからと何も羽織っていなかった。
「アメリは何でもよく似合うね」
「ハルはとりあえず何でも褒めるね」
「女性は何も着てないのが一番だけどね」
「あはは! ハルってば!」
大きくこれ見よがしにため息を吐き散らして、クロノは指でこめかみを揉んでいる。
「なんであんな分かりやすく怒ってんの?」
「アメリが肌を見せ過ぎてるからだよ」
「あー……。でも、ハルは気にしてないよね」
「僕は大歓迎だね」
「私も別に気にならないけど」
「……私が気にするのは構わないのか」
「え? クロノこの服 嫌いだったの?」
ぎしりと身体中に力が入って、眉間のしわの数が増えて深くなる。
クロノからぐと歯をくいしばる音が聞こえる。
「そうは言ってない……」
「うん? なら、良くない?」
「他の男に見せるな」
「いいでしょ、別に減るもんじゃなし」
「それ、僕が言う言葉だよ」
「はは。そうか」
「……要件はなんだ」
無駄話でずるずると時間を引き延ばすよりも、早く片付けてアメリを引っ込めようと、クロノは話を変える。
「んん? クロノが呼んだんでしょ?」
「いや、呼んでないぞ」
「あ、僕が呼んだんだよね」
「あれ? そうだったの?」
にこにこと頷いて、ハルは懐から勿体ぶってゆっくりと紙を取り出した。
アメリの目の前に掲げられた紙には、劇場の赤い紋章が箔押しされている。
「これ、なーんだ」
「わ! ハル、手に入れてくれたんだ!」
「あったりー」
紙を手渡すと、アメリは嬉しそうにそれを抱きしめる。
「ありがとー!! うれしー!!」
「その顔が見たかった……僕も嬉しいよ」
ハルはするりと指の背でアメリの頬を撫でる。
「触れるな……アメリ、なんだそれは」
「歌劇だよ! 前に行きたいって話たでしょ?」
「ああ……でも、もうすでに全日の席が売れていると言ってなかったか?」
話題が話題を呼んで、その話がアメリの元に来た時には、満員御礼、公演期間中の席は完売した後だった。
「いやー……いるんだよね、転売のために席を抑えとく、目先の効く人が」
「え? ハル、その人から買ったの? 高かったんじゃないの?」
「多分ね」
「多分?」
「ほら、僕はそういう人たちにいっぱい貸しがあるから、お金の話じゃないんだよね」
「わぁ。悪いんだー」
「僕は悪いことはしてないよ?」
「ええ? ホントかなぁ」
「ちゃんとふたり分で予約取っておいたから。楽しんでおいで」
「ふふ! やった! 本当にありがとう、ハル!」
「いえいえ、どういたしまして。はい、口付けて」
ハルはとんとんと指先で自分の頬を軽く叩いた。
アメリも勢いで言われた通りにその場所に口付ける。
がたりと大きな音を立ててクロノが立ち上がる。
「アメリ!」
「はい! なに? あ! ごめん、嬉しくてつい! でも……わぁぁ。楽しみだなぁ……一緒に行けるね、クロノ!」
嬉しそうなアメリの顔に、力が抜けてクロノは椅子に座り直した。
力無くため息を吐き出す。
「……クロノ、疲れてるの? 」
「……そうじゃない」
「……行きたくない、の?」
「……いいや」
急激にしおれたようなアメリに、ハルは眉をひそめて、ふうと息を吐き出す。
「んもう、いい加減、僕とアメリの仲を認めてよ」
「どんな仲だ。何も認めないぞ」
「分からず屋だなぁ。……アメリ、総長なんかほっといて、僕と一緒に行こうよ」
「んーん。……いいよ、ハル、やっぱりこれ返す。わざわざ手に入れてくれたのに、ごめんね」
「どうしたの、アメリ、すごく行きたがってたでしょ」
「……だって、総長と観たかったんだもん……いいよ、ハル。誰か別の人誘って行ってよ」
「待ってくれ。……アメリ……?」
ふたたびがたりと椅子から立ち上がって、クロノは今度こそ、席を離れてアメリの前に跪いた。
「ちょっとー。アメリにこんなこと言わせるなんて……くそ野郎だよ、総長」
「いや、行きたいんだ。行こう……私も一緒に観たい」
膝に置かれたアメリの手をそっと握って、うつむいてしまった顔を覗き込む。
アメリは肩を震わせて、にやにやしていた。
「……アメリ?」
「ぷふ……」
「……ああ……勘弁してくれ」
「……総長って、アメリだけには本気か、ってくらいちょろいよね……心配になっちゃうよ」
「ホントちょろ過ぎ……」
耳まで真っ赤にしたクロノがアメリを肩に担ぎ上げ、荒い口調でハルに帰れと告げて、そのまま私室に入って行っても、しばらくはふたりの笑い声がしたままだった。
いよいよふたりで出かける当日になって、その日の太陽が沈む時間に差し掛かっても、クロノは屋敷に帰ってこない。
昼前に呼び出されて城都に出かけたまま、何もそこから知らせも無いままだったが、アメリはいい子にして待っていた。
公演は夜、少し早いけどおめかしも終えている。
それにしても、もうそろそろ出かけないといけない時間なのに、とアメリはそわそわしていた。
扉を叩く音に返事をすると、ニーナが気遣わし気な顔で部屋に入ってくる。
その顔で察したアメリは苦笑いになった。
「なにがどうしたの?」
「旦那様はお戻りになられないそうなので、代わりに第三隊の副長様が……」
「ローハンと行けって?」
「ええ……下にお見えになりました」
部屋を出て、下を覗くと、玄関広間の真ん中にぽつんとローハンが立っていた。
一応軽装の騎士服姿で、ローハンもまた苦笑いでアメリを見上げている。
「城都で何かあった?」
「ああ……盗賊ですね。結構な人数なんで、手間取ってます」
同時多発的に、あちこちで盗難事件が起きた。
高価なものから、なぜこんなものを、というものまで。様々に奪われるという騒動が起こっている、と手短かにローハンは説明した。
「分かった、ローハンちょっと待ってて」
「はい」
部屋に戻るとアメリはニーナに背中を向ける。
「アメリ様?」
「ボタン。……外して! 早く!」
「お出かけにならないんですか?」
「出かけるよ! 着替えるから、早く!」
言われた通り、さくさくとニーナはボタンを外していく。
上から下まで外れた途端に、脱ぎながらアメリは衣装部屋に入って行った。
「アメリ様?」
「劇場にはニーナが行って? 従医師と一緒に行ったらいいよ。急げばまだ間に合うでしょ?」
侍女の誰かに招待状をあげても良いが、夜が遅くなるので、出来れば男性と出かけられる方が危なくない。
それなら夫のいるニーナが最適だ。
もごもごと返しながら、急いで服を着替える。
いつもの男物の格好で衣装部屋を出てきたアメリに、ニーナは慌てて駆け寄る。
「アメリ様は……」
「私も城都。招待状はそこね、楽しんできて、ニーナ」
軽くニーナの肩を抱きしめて、手にしていた長剣を腰に回すと、アメリは部屋から飛び出して行った。
階段の手すりに腹を乗せて滑り下りてくるアメリを見て、ローハンはくくくと笑っている。
「よし、行こう! ローハン!」
「……良かった。歌劇より、城都の方に行きたかったので」
「ふふ……急ぎますぞ!」
「手に余ることはしないで下さいね?」
「心得ておりますから!」
「では、参りましょうか?」
「はい!」
差し出されたローハンの腕に、アメリは手を巻きつけた。
賢明な人はこの盗賊騒ぎで外出を控えているが、だからといって街角から人がいなくなるのでもない。
大通りを歩く人も、馬車も、それなりに往来していた。
最寄りの詰所に馬を預けて、様子を聞く。
何人かすでに盗賊は捕らえられていたが、まだまだ全部とは言えない状況だと話す。
そもそも城都の広い範囲での話だ。
情報が入り乱れて、中央詰所でもないと、最新で正しい情報は聞けない。
「とりあえず、ぐるっと端を回ってみますか」
「そうだね……逃げるなら周りに散っていくもんね」
騎士服姿のローハンを見て走り出す人は、とりあえず捕まえていった。
逆に向こうから襲いかかってきたぶんには、遠慮はしなかった。
ひとりの年配の男を、道端でローハンが抑え込む。
後ろ手にした親指を革紐でぐるぐる巻きにしながら、道行く人にハイランダーズを呼ぶようにと指示を出した。
男は口の中に仕込んでいた小さな笛を出して鳴らし出す。
取り上げてももう遅く、合図が伝わって、その返事の笛の音が遠くから聞こえた。
「何してんの? 合図なんか出したら、他にも仲間が居るってバレるでしょ」
アメリはしゃがみ込むとへにょりと眉を下げ、男を見下ろす。
「ちょっと、どっちの味方ですか」
「えへへ。あっちの方で音がしたね」
アメリは立ち上がって、音のした方に顔を向けた。
男の足首も縛ると、ローハンは近くにある飲み屋まで男を引きずっていった。
ハイランダーズが駆けつけてくるまでと見張りをお願いすると、酔漢たちが口々に任せろと腕を振り上げている。
頼りになるような、そうでないような。
微妙な顔をしているアメリに、ローハンはにこにこと笑い返した。
「住民の善意で成り立つのが一番です」
「ですねぇ」
「よし、では仲間を探しに行きましょうか」
「はいはいぃ」
もうすっかり日が暮れて、街灯がぽつりぽつりと通りを照らしている。
アメリとローハンはにやにやとしながら、その通りを走りだす。