10 鼠じゃないけど鼠色
惑星グリフォンは秋の星である。
厳密に言うなら、グリフォンの自転軸はほとんど傾いていないため季節はないが、年間を通じてやや肌寒く――人によっては適温と思うかもしれない――いかにも人工的な青い空を、白い大小のボールのようなニセウミガメとエビが、満ち欠けを繰り返しながら泳いでいく。
いわゆる地球型惑星であるこの星は、地球よりやや小さい程度で重力もほぼ変わらない。自転周期も約二十四時間だが、公転周期は地球の約二倍あった。地球を離れても地球の暦は捨てられない人類は、公転周期を無視して一年を計上している。ゆえに、この基地が本格稼働してからグリフォンはまだ一公転し終えていないのだった。
ナイトリーがグリフォンのテラフォーミングを開始したのはわずか四年前である。これほど地球に似ていながら、この星には地球にはあった空気も海もなかった。ただ荒涼たる赤い大地だけがあった。
テラフォーミングの進め方は様々あるが、ナイトリーはまず地球のような大気層を形成した。しかるのち、気象と気温を安定させ、のちに基地の中心となる研究施設を建てた。
〝ジャバ〟が出現しなければ、ナイトリーはグリフォン全体の自然環境も整備していたかもしれない。しかし、それは時間的にも予算的にも後回しにせざるを得なくなった。現在、基地とその周辺以外はいまだ手つかずのままだ。人類が知るいわゆる自然は基地内のごく一部、限られた場所にしかない。それも公園や庭園クラスで、その一つは基地の中央、林立する研究施設の狭間にある。
四体の人型兵器の専用管制室およびその関連施設は、この施設群――〝センター〟を取り囲むように東西南北に建設されていた。そのさらに外縁には、主に輸送船と〝ジャバ〟駆逐後の人型兵器が利用している宙港がある。
管制室ごとに区分けするなら、クロフトは西区の住人だった。ちなみに、北区はカガミ、東区はテニエル、南区はルイスである。各管制室の色はこの方角と関係しているらしい――とはスミスの弁だが、誰も深くは考えていない。あの人型兵器のデザインのようにナイトリーの趣味で済ませている。
西区にも緑地帯はないわけではなかったが、たまに完全に一人になりたくなると、クロフトはこっそりこの〝センター〟の公園(のような場所)に遠征していた。
研究者は引きこもりが多いのか、日中でもここを歩いている人間は滅多にいない。いたとしても、場違いに黄色い木製のベンチに座っている赤毛の大男に声をかけようとする物好きはいない。向こうのほうから避けて通ってくれる。実にありがたい。
もちろん、いつ出撃になるかわからない身だから、副官のキングズレーには行き先は伝えてあるし、最初から長居をする気もない。
今日も空は青い。雲もない。空気は完全に秋なのに、人工芝の上に落ち葉はない。ここには実験的に落葉樹も常緑樹も植えられているが、落葉樹は植樹されて早々葉を落としてしまい、それきり丸裸のままなのだ。
四季のある星で生まれた植物が秋しかない星に適応できるのか。
何となく気になって、ここに来るたび落葉樹のほうを観察しているが、今のところ何の変化もない。ただ、枯れてはいないからまったく合っていないわけでもないのだろう。今年の秋は妙に長いなとずっと思いつづけているのかもしれない。
――さて。そろそろ行くか。
そう思い、ベンチの背に乗せていた左腕を外そうとしたときだった。
「ごきげんよう。こんなところまでお散歩?」
よく通るその声だけで誰なのかはすぐにわかったが、クロフトは上半身をひねって声の主を見た。
「あら、気づかなかった? 意外と鈍感なのね」
今日の午後にも会う予定の少女型アンドロイドは、腰の後ろで手を組んだままカラカラと笑った。そこから少し離れたところでアシュトンが背筋をまっすぐ伸ばして立っている。
「そっちが気配消してたんだろ」
顔をしかめて負け惜しみを言うと――確かに気づけなかったのは不覚だった――アリスはとんでもないとでもいうように、グリフォンの空によく似た青い瞳を見張ってみせた。
「まさか! 私はエドウィンの代行で暗殺者じゃないわ」
「やろうと思えばそれもできそうだな」
「今のところその予定はないけど、標的があなたならやれそうね」
アリスはにやっと笑うと、「お隣、座ってもいいかしら?」とクロフトに言った。
「え、あ、ああ……」
思わずそう答えて右端に移動したが、ふと思いついて軍服の左の胸ポケットに右手を伸ばす。
「アリス様」
ベンチの前に回りかけたアリスをアシュトンが呼び止め、アリスより先にすばやくベンチの前に立つと、いつのまに用意していたのか白いハンカチーフを座面の上に広げた。
「お洋服が汚れるやもしれませんので、どうぞこの上にお座りくださいませ」
そう言い置いて、アシュトンはすみやかにベンチから離れた。クロフトは胸ポケットから右手を引き抜いて、今度は自分のズボンのポケットに突っこんだ。
「まあ、ありがとう、アシュトン氏」
アリスは鷹揚に礼を言うと、遠慮なくそのハンカチーフの上に腰を下ろした。
今日もアリスは青いエプロンドレスを着ているが、これが一張羅というわけではないだろう。というより、そうであってほしい。
「あんたも散歩か?」
とりあえずそう訊ねてみると、アリスは笑って「まあね」と返してきた。
「この星の季節はずっと秋なんですってね。居心地はどう? クロフト氏」
クロフトは青い空を見上げてから口角を上げた。
「まあ、悪くはないな」
「人間の女性がいなくても?」
「経費がかかるからだろ。いろいろ」
「あら、エドウィンがここを女性禁制にした本当の理由、知ってたのね」
「ああ。いつだったか、ポロッと言ったことあるぜ。確かにまあ、かかるわな。女がいたら、女専用の施設も作ってやらなきゃならねえ。ぶっちゃけ、んな無駄金、遣いたくねえだろ。あんたの前で言いたかないが、ここで女が必要なのはあれくらいしかねえ。だからラブドール持参ってあんなにしつこく言ってたんだろ?」
「あなたは持ってきたの?」
「ノーコメント」
「持ってきてないって言わないだけ正直者ね」
「でも、あんたくらいは経費使って着飾ってもいいんじゃないのか? ここの代行だろ?」
「そうね。じゃあ、今度注文出してみようかしら。何がいいかしら。ゴスロリ?」
「だから、どうしてそんなことを……似合いそうだな」
――やっぱり話しやすいな。
矢継ぎ早に言葉を交わしながらクロフトは改めてそう思う。
さすがナイトリーが作ったアンドロイドだ。下世話な会話も平然とするが、適当なところで切り上げる。連合にもアンドロイドはいないわけではないが、アリスほど高度な会話能力はないし、その主な用途についてはさすがに彼女には言えない。
「ところで、クロフト氏」
ふいにアリスがにやにや笑って、クロフトの顔を下から覗きこんできた。
「あなたのその胸ポケットには、いったい何が入っているのかしら?」
――見られていたのか。
完全に隙を突かれてクロフトは顔を歪めたが、この〝小さな女王様〟にはナイトリーの代行だということを抜きにしても逆らえない。仕方なく再び胸ポケットに右手を伸ばし、中に入っていたものを取り出した。
「いつもだったら、包帯がわりにここにハンカチを入れてるんだが」
言いながら、右手を広げてアリスに見せる。
「今日はハンカチじゃなくて、たまたま飴玉が入ってた」
アリスはクロフトの手の上に転がっている個別包装のキャンディ――適当に取ったらリンゴ味だった――を無言で見つめていたが、音を立てて噴き出すと、黒い靴を履いた足をばたばたさせながら大笑いしはじめた。
「飴玉が入ってたって! それ、自分で入れたんでしょ!」
笑いつつも容赦なく痛いところを突いてくる。確かにそのとおりだった。散歩に出る前に、非常食としてここに何個か自分で放りこんできたのだった。
「そうだよ。悪かったな」
クロフトは渋面を作ってキャンディをポケットに戻そうとしたが、アリスがまだ笑いながら「待って」と言った。
「そのキャンディ、もしよかったら私にくださらない?」
いったいどんな技術を用いているのか、彼女の白い頬は今は紅潮しており、青い瞳は笑いすぎたために潤んでいた。だが、どれほど人間のように見えても、この少女はアンドロイドなのだ。
「そりゃかまわないが……あんたはこれ、舐められないだろ?」
困惑して問い返す。もしアリスが見た目どおり人間の少女だったなら、クロフトは言われる前に自分からこのキャンディを差し出していた。
「ええ、無理ね」
人差指で目元を拭いながら、アリスはあっさり答えた。
「でも、今の記念にもらいたいの。それに、もしかしたらこの先、私も飲んだり食べたりできるかもしれないわ」
何の記念だと突っこみたかったが、たかが安物のキャンディ一個、惜しむ理由もない。
「ああ、わかった。やるよ。手出しな」
アリスが小さな両手を突き出してくる。いや、片手でいいんだがと思いつつも、その中にキャンディを落としてやった。
「ありがとう」
まるで宝物でももらったかのようにアリスは笑い、そのキャンディを指先でつまんで、物珍しそうに眺め回しはじめた。
「なあ。ちょっと訊いてもいいか?」
しばらくその様子を観察してから声をかけると、アリスはキャンディからは目を離さないまま、「いいわよ。何?」と答えた。
「博士はここの代行にするためにあんたを作ったんだよな?」
「ええ、そうよ。何度もそう言ってるじゃない」
「そのことを不満に思ったことはないのか?」
アリスはようやくキャンディを見るのをやめ、クロフトにきょとんとした顔を向けたが、すぐにその顔は挑発的な笑みを浮かべた。
「じゃあ、逆に訊くけど、人間は何のために生まれてくるのかしら?」
冷たい手で心臓をつかまれたような心地がした。
それを見透かしたように、さらにアリスは言葉を重ねる。
「他のアンドロイドは何て言うかわからないけど、私は何のために生まれてきたかなんて余計なことは考えなくて済んでよかったわ。アンドロイドだって永遠には生きられないのよ」
彼女がそう言い終えたときだった。まるでそれを待っていたかのように警報が鳴り響いた。
『第四宙域にⅢ型が一体出現しました。現在、第五防衛ラインが応戦中。駆逐機の緊急発進を要請します』
条件反射的にクロフトはベンチから立ち上がった。が、アリスのことを思い出し、あわてて振り返る。
「どうぞ。私にかまわず行って」
アリスはにっこり微笑むと、クロフトが戻るべき方角を正確に手で示した。
「あなたのここでの第一の仕事は〝ジャバウォック〟の駆逐よ。アンドロイドのおしゃべりにつきあうことじゃないわ」
「俺は別に、仕事と思ってあんたと話してたわけじゃない」
「あら? 私がここの代行だからじゃなかったの?」
「代行じゃなくなっても、あんたとなら話すよ」
「そう。それは光栄ね。私もアンドロイド相手にハンカチを出そうとした人とならお話したいわ。残念ながら持っていたのは飴玉だったけど」
「まだ言うか」
「いつまででも言うわ。だって、嬉しかったもの」
あっけにとられてアリスを見下ろす。アリスは再度微笑み、同じ方角を指した。
「あなたのここでの第一の仕事は〝ジャバウォック〟の駆逐。第二の仕事は私とおしゃべりすること。第二の仕事が待ってるわ。早く行って帰ってきなさい」
了解と答えるかわりにクロフトはにやりと笑った。挨拶のような敬礼をして、アリスが指した方角に向かって走り出す。
笑いが止まらなかった。抑えこもうとしても、体の内側から勝手にせり上がってくる。しまいにクロフトは搭乗中のルイスのように奇声を上げて笑った。
――女王陛下、万歳!
* * *
〈大鴉〉と接続している間のチェシャは、イヤホンで音楽を聴いている猫のようだ。白いミニ毛布を敷きつめた飲食物用の保管ボックスの中に座り、右耳から黒いコードを垂らして、ずっと目を閉じている。
カガミはそれを自分のシートにもたれるようにしてずっと眺めていた。タブレットの中の本物の猫より、たとえ偽物でも触れようと思えば触れられる猫のほうがいい。なお、人間が書いたものは極力読みたくないと考えているカガミに読書という選択肢はない。人間が映っている動画を視聴するのは論外である。そんなもの、日常生活だけで充分だ。
チェシャが〈キティ〉へのアップロードを始めてから一週間が経過した。整備との兼ね合いもあるので、特に何時にするとは決めていないが、それでも毎日約三十分、〈大鴉〉のコクピットでこのような時間を過ごしている。様々な理由でそれ以上は続けられないらしい。カガミもそれ以上ここにいたらたぶん寝てしまう。
アップロード中のカガミの仕事は、ここに自分以外の人間が入ってこないようにすること、そして、まずないとは思うが――とチェシャとタケダは言った――異常事態が起こった場合、ただちに〈大鴉〉の端末から接続コードを引き抜くことである。
この一週間の間に出撃は一度だけあった。Ⅰ型なら平均的な出現率と言えるだろう。本当はチェシャを同乗させたくなかったが、周囲に疑われないためには今までどおりにするしかない。それでも、ダイナが使っていた毛布をチェシャに使わせたくはなかったので、今チェシャの下に敷いてあるそれをテイラーに用意させた。色はカガミの指定である。何となくチェシャには白だと思ったのだ。ダイナのときと同じである。
搭乗中にしゃべりかけられたら嫌だと思っていたが、コクピットの中にいる間のチェシャは拍子抜けするくらい寡黙だった。カガミが声をかけないかぎり、自分から口を切ることはない。さすがにそれくらいの気遣いはできたかと少しだけチェシャを見直したが、逆に言えば、人型兵器を作ったナイトリーの疑似人格だからこそ、搭乗中のパイロットの気を散らせるようなことはしてはいけないとわきまえていたのかもしれない。いずれにせよ、これならダイナと同じように乗せられると安堵した。
自分の私室にもチェシャを入れた。もともと私室のベッドで寝るのが面倒くさくて夜もちょくちょくコタツで寝ていたのだが、いいかげん自分のベッドで寝てくださいとテイラーに言われて、渋々チェシャを連れていった。
私室を見たチェシャの第一声は『いやー、殺風景だねー』だった。確かに私室には自分のベッドとダイナのそれ――やはりショッキングピンクのミニ毛布が敷きつめられた籠――くらいしかなかった。服はクローゼットの中に全部詰めこんであるし、タブレットやその他こまごまとしたものは、みな待機室のほうに置いてある。本当に就寝と入浴と木刀を振ること以外に使用していない部屋なのだ。
やはりダイナと同じ毛布を使わせるのは嫌だったので、籠の中のそれも白いミニ毛布に急いで交換した。チェシャはそれを黙って見ていたが――彼はこの毛布交換については何も意見しなかった――壁の隅に立てかけてあった木刀を見つけると『ああ、やっぱり振っていたんだね』とはしゃいだ声を上げた。
人型兵器を動かすのに体を鍛える必要は特にないのだが、実際に自分の体を動かしていないと感覚が鈍るような気がする。その木刀はパイロットに採用されてからここで取り寄せ注文したものだったが――真剣も入手できるとナイトリーは言ったが、金額と保管面からそれは固辞した――帝国にいるときも時々は木刀を振っていた。主にストレス発散のために。
振ってみせろとはチェシャは言わなかったが、床に座って木刀だけをじっと見つめつづけていた。たとえ偽物でも、猫の無言のお願い攻撃には勝てない。カガミはその木刀を取り上げると、誤ってチェシャを踏まない場所まで移動してから、軽く何度か振ってみせた。
横目でちらっと見ただけだが、チェシャは金色の瞳を輝かせてカガミを見上げていた。子供みたいだなと思った後に、そういえばこいつはまだ十九歳だったかと思い直した。十九歳でも大人な奴は大人だが、ナイトリーにはあの人型兵器やネーミングでもわかるように妙に子供っぽいところがあった。その一方で、各陣営を手玉にとる老獪さもあった。結論としてやはりよくわからない。
猫に見守られながら木刀を振るのは本当に久しぶりで懐かしかった。つい本気で振ってしまってから、はっと我に返って木刀を下ろしベッドに腰かけた。チェシャはいかにももっと続けてほしかったような顔をしていたが、言葉にはしなかった。
「振ってやったんだから触らせろ」
木刀をベッドの上に置いてから冗談半分で言ってみた。てっきり自分は振ってくれなんて頼んでいないと断られるかと思ったが、チェシャは『前から思っていたけど、その言い方は本当にエロ親父みたいだよ』と呆れたように言いながらベッドの上に飛び上がり、カガミの膝の上で香箱座りをした。
ナイトリーが昔猫を飼っていたというのは本当だろう。重みも毛並みも体温も、本物の猫とまったく遜色がない。自分だったら、たとえ猫になったとしても人間に撫で回されるのは絶対に嫌だなと思いつつ、チェシャの滑らかな背中を撫でまくった。やはり落ち着く。
「猫しかいねえ星に住みてえな」
思わずそう呟くと、チェシャは目は閉じたまま『本当に猫しか好きじゃないんだね』と嘆息した。
「昔、猫に面倒見てもらったからな」
チェシャは一拍おいて『ええ?』と怪訝そうな声を出した。
『猫が人間の君の面倒をどうやって?』
「ガキの頃、父方の伯父んところに何年か厄介払いされてたんだが、そこが常時十匹以上はいる猫屋敷だった。初対面から俺には優しくしてくれたが、俺が伯父貴に逆らって飯抜きにされたら、そっと俺の前に持ってきてくれた。……鼠を」
『え……鼠? というより、君の伯父様はどこに住んでいらしたんだい?』
「時代錯誤な山村だ。俺の家は軍人が多いが、その伯父貴は一族きっての変人でな。独り者の偏屈な頑固爺で、独学で剣術道場なんて開いてたが、弟子なんか当然いなくて、代わりに猫がたくさん居ついてた」
『ということは、君はその伯父様から剣術を習ったんだね』
「習ったっていうか、押しつけられた。やらなきゃここからも叩き出してやるって言われてな。猫がいなかったら、たぶん脱走してた」
『どうして君がそれほど猫好きになったのか、やっと理解できたような気がするよ。で……その鼠は食べたのかい?』
「いや、気持ちはとてもありがたかったが、いくら俺でもさすがに生は」
『加熱処理されてたら食べてたんだね』
「でも、次に飯抜きにされたときには、自分たちのエサの焼き魚を分けてくれた。賢くて優しい奴らだった」
『ああ……それはもう猫しか好きになれないね……』
「俺はあのままあそこにいてもよかったんだがな。出来がよかった兄貴が不祥事起こして、俺はその穴埋めに実家に呼び戻された。伯父貴は身勝手すぎるって怒ってくれてたが、自分も援助受けてる身だったから強くは出られなかったんだろ。軍人になったら猫ごとあんたも面倒見てやるって言ったら、俺はいいから猫の面倒だけ見てくれって言い返されたな。確かに変人だったが、実家の人間よりはまともだった」
『その伯父様は今もそこにいらっしゃるのかい?』
「いや。俺が士官学校行ってる間に病死した。猫だけは何とかしたいと思って、無理やり休み取って伯父貴が住んでた家に行ってみたら、火事で焼けて黒焦げになってた。伯父貴が猫の面倒頼んでいった近所の人間が、伯父貴が死んだら不審火に見せかけて、猫ごと家を焼いちまったんだそうだ。もう猫の面倒見ても金はもらえなくなったから、ってのは建前で、燃やす前に伯父貴の家から金目のものはこっそり持ち出してた。つまり、放火は窃盗の隠蔽で、そいつにとって猫は金にならないガラクタと一緒だった。俺は今でもそいつを家の中に閉じこめて焼き殺してやりたくてしょうがねえ。そいつは俺が伯父貴の家にいた頃にも出入りしてた顔見知りだった」
このとき、どうしてそんな話までチェシャにしたのか自分でもわからない。現時点で最も信頼しているテイラーにさえ、将来猫の国に住みたいなどという冗談のような(しかし、カガミにとっては本気の)話しかしていなかった。
チェシャは本当に眠ってしまったかのように沈黙していた。やはりこの猫型ロボットには話さないほうがよかったか。カガミがそう後悔しはじめたとき、ふいにチェシャが口を開いた。
『君はきっと怒るだろうけど……私は今でも君にそう思ってもらえる彼らがとても羨ましい』
まったく予想外の発言だった。ナイトリーの疑似人格なら『それはつらかったね』くらいのあたりさわりのないことを言うかと思っていた。
「怒りはしねえが……俺は俺の知ってる猫が、俺より先に死ぬのも殺されるのももう嫌だ」
『殺されるのはともかく、普通の猫はみんな君より先に逝ってしまうよ。私の猫も逝ってしまった』
「病死か?」
『病死だよ。最期は家で看取った』
「そうか。……看取れてよかったな」
『そうだね。看取れてよかった。でも、私はもう猫は飼うまいと思ったよ』
チェシャにナイトリーの記憶がどれだけインプットされているのかは無論わからない。が、たぶんオリジナルのナイトリーとはあんな会話は永遠にできなかったのではないかと思う。
カガミはいまだにナイトリーの遺体を見ていない。見たいとも思わない。今さら彼の顔を見たところで何だというのか。それはもうただの肉塊にしかすぎないのに。
『カガミ。今日の分、終わったよ』
思わずシートから跳ね起きた。あわてて自分の右側にあるボックスに顔を向ける。チェシャが金色の目を開けて自分を見ていた。
『何だい。また寝てたのかい』
黒猫の姿をした猫型ロボットは呆れたように溜め息をついた。
『本当にカガミは猫みたいにちょこちょこ寝てるね』
「起きてたよ」
むっとして言い返したが、半睡状態には陥りかけていたかもしれない。カガミは〈大鴉〉の端末から端子を引き抜くと、チェシャの右耳から慎重にイヤホンならぬ端子を外した。
「進捗状況はどうだ?」
『そうだね。四分の一弱といったところかな。ペースが遅くて申し訳ないね』
「俺にはどんなペースが普通かわからねえよ」
そう答えながら、コードを丸めてまたビニール袋の中に入れ、はだけていた上着の内ポケットの中にしまってボタンを留める。
『今日の昼食は食堂で食べるのかい?』
「いや、テイラーが待機室掃除してるから待機室で食う」
『え、掃除の邪魔をするのかい?』
「邪魔はしねえよ。飯食わせてもらうだけだ」
『それを普通は邪魔と言うんじゃないかな』
チェシャが目を閉じて淡々と言った、と、狭いコクピットの中で警報が鳴り響き、決してとちることのない女声のアナウンスが流れた。
『第四宙域にⅢ型が一体出現しました。現在、第五防衛ラインが応戦中。駆逐機の緊急発進を要請します』
「Ⅲ型……じゃあ、俺の出番はないな」
一応最後まで聞いてから、カガミは両手でチェシャをボックスから引き上げ、右腕に抱いてシートの左側に足を下ろした。今回は飯時にちゃんと食えそうだと思いながら。
* * *
〝ジャバ〟四種はいずれも厄介だが、Ⅲ型はある意味あのⅠ型よりも厄介である。
外見は白い猿によく似ている。ただし、顔と手足は真っ黒で口の中まで黒い。一見、顔全体に穴が開いているかのようにも見える。
攻撃方法自体は非常に原始的で、攻撃対象に飛びつき殴る。殴る。ひたすら殴る。〝白血球〟なら三回殴れば攻撃不能にできる。
しかし、このⅢ型には他の三種にはない実に面倒な特性があった。
――瞬間移動。
正確には出現と消失を繰り返しているのだけなのかもしれない。その証拠に移動距離は長くはなくタイムラグもある。だが、〝白血球〟たちにとってはⅠ型よりも攻撃しづらい〝ジャバ〟だった。
たとえば、〝白血球A〟を殴っているⅢ型を〝白血球B〟がレーザー砲で攻撃したとする。しかし、そのレーザーはⅢ型に当たる寸前に曲がってしまい、Ⅲ型は〝白血球A〟の上から消失している。運が悪ければ〝白血球B〟のレーザーは〝白血球A〟を破壊してしまっているだろう。
〝ジャバ〟がこちらに出現する際、〝ゆらぎ〟と言われる時空の歪みが発生することはグリフォン基地内では常識となっている。Ⅲ型はこの〝ゆらぎ〟をレーザー砲から身を守る盾として利用しているのだ。
しかも、出現から消失までにかかる時間は驚くほど短い。〝ゆらぎ〟でどこに現れるかは感知できるが、そこから攻撃に移るまでにまた移動されてしまう。
ただし、Ⅲ型は「殴る」ことに固執しているので、侵攻速度は四種の中でいちばん遅い。そこが救いとも言いがたい救いの一つである。
「〝白血球〟退避させて、テニエルに〝数撃ちゃ当たる〟させりゃいいのにな」
メインモニタを見ながらカガミがそう言えば――その膝の上には当たり前のようにチェシャがいる――タケダが苦笑いして彼を振り返った。
「ダンナ、Ⅲ型見るたびそう言ってるよね。試したことあるけど、結局当たらなかったじゃない」
「当たるまで撃ちつづけなかったからだろ」
「経費の無駄遣い。Ⅲ型はもう捕まえて殴るか、隙突いて切るしかないよ」
Ⅲ型もまた〈大鴉〉の刀で切り殺せる。だが、明滅するように出現と消失を繰り返す相手を切るのは、カガミであっても至難の業である。ゆえに、Ⅰ型がカガミ専任となっているように、Ⅲ型もクロフト専任となっていた。
「しかし、何で鼠色にしたんだろうな」
「大尉、それも毎回言ってますよね」
待機室掃除を中断して管制室に駆けつけたテイラーは呆れて笑ったが、実はテイラー自身もそう思っている。たぶん、あの色のせいでクロフトのあだ名は〝ネズ筋さん〟になってしまったのだ。
クロフトが搭乗している人型兵器は、カラーリングだけでなくデザインも他の三機より地味である。テイラーはいつも体格のいいモデル人形(が実在するかどうかはわからないが)を連想する。色は別として、見かけは無骨そうなクロフトにいかにもふさわしい機体だが、その戦い方もまたふさわしいと言えるかもしれない。
Ⅲ型はまだ第五防衛ラインで出現・殴打・消失を飽くことなく繰り返していた。まるで本当に猿が〝白血球〟をからかって遊んでいるかのようである。間断なく瞬間移動しつづけていれば、どんな攻撃も避けられるとたかをくくっているのだろう。
自分に接近してくる人型兵器に特に関心を向けないのもこのⅢ型の特徴の一つである。ちょっと毛色の違う〝白血球〟が来た程度に思っているのかもしれない。確かに航行状態だとテイラーの目にもそう見える。
しかし、その特徴こそⅢ型につけいる最大にして唯一の隙だ。嬉々として〝白血球〟を殴ろうとしていたⅢ型の右の二の腕を後ろからひっつかみ、背中に膝蹴りして〝白血球〟にめりこませる。その間にⅢ型をつかんでいる指先からかぎ爪を出してしっかり肉に食いこませ――〝ジャバ〟には血液はないのか出血はしない――空いている手でⅢ型の後頭部を中心に殴りつける。
実はⅢ型は自分一体でなければ瞬間移動ができない。つまり、適当な〝白血球〟に張りつき、それを殴りにきたⅢ型の体のどこか一部分でもつかんでしまえば、Ⅲ型の瞬間移動を封じられる。
そして、殴るのが大好きなⅢ型はとても殴られ弱い。すでに顔が〝白血球〟の中に潜りこんでしまっているので悲鳴を上げているのかどうかもさだかではないが、やがて白く発光して消滅するまで、白い猿型サンドバッグ状態となる。
――どう見ても、小動物の戦い方じゃない。
単なる個体識別名だと思いつつも、テイラーはいつもそう思わずにはいられない。
クロフトいわく、鼠でも栗鼠でもない。Ⅲ型を殴り殺して駆逐する、あの人型兵器の名称は〈ヤマネ〉だった。