一月 『雨の瞳』 ③
一月 『雨の瞳』 ③
「得点23文に、年末二倍と誕生月二倍、そこにこいこい四回分の倍率が加わって、1472文……わたしの、勝ち……」
珍しく饒舌にそう言った少女は、雨の中、嬉しそうに笑みを浮かべた。
会ってからずっと凍り付いていた彼女の表情が、温かい雨によってやっと解凍されたのである。
雨。ん、あめ……?
屋内なのだから雨なんて降るわけがない。じゃあ、一体これは……ッ⁉
慌てて天井を見ると、そこには何の変哲もない、白塗りの天井があった。どういうわけだろう。確かに今、天井は厚い雲に覆われ、室内には透き通った雨粒が降り注いでいたのに。
僕は幻覚を見ていたのだろうか……?
「わたしの……勝ち……」
改めて少女にそう言われて彼女を見ると、その表情からは笑みの欠片もなくなっていた。天井の雲や雨といっしょに跡形もなく消えてしまったのだ。さっきまで雨の蒼をしていた瞳も、今は厚く雲がかかってしまっている。もしかしたら、彼女のそれも、ただ僕が見た幻覚だったのかもしれない。
それからようやく、僕の脳は少女の言葉の意味を理解し始めた。
僕は花札――それも一番得意とするこいこいというゲーム――において負けたのである。
それも完璧に。完全に。完敗だ。
およそ三年ぶりの敗北は、僕の頭の中をすっきりするくらい真っ白にした。
ああ、久しぶりだな、この感覚……。
「おおー、さっすがこのみちゃん‼」
「っ⁉」
敗北の感傷に浸っているなか突然耳元から上がった大声に、身体をビクンと震わせて驚いてしまった。見ると、僕の背後にもう一人女子生徒がいて、試合の結果を覗き込んでいた。
こちらの女子生徒は雨の瞳の少女とは違って、それなりに大人らしい見た目をしている。若干薄い色合いのショートカットはふんわりとウェーブがかかって、好奇心に満ちた目を大きく開いて輝かせている。ある程度運動はするのか、バリバリの運動部ほどではないが、肌は少し日焼けをしていた。スタイルはモデルのように整っているようで、服の上からでもそれが分かる。外見から判断すると、おそらく先輩だろう。
そう思って彼女の胸元のリボンを確認すると、やはり二年生の色をしていた。
「どうしたんだい、少年? あ……」
先輩は何かを察したようににやにやと笑った。
「ははーん、さてはアタシの胸に興味があるのか!」
「違いますよっ! リボンを見ていたんですっ!」
「それはそうとぉ~」
「え、ちょっと……」
僕との会話は強制終了。誤解を解こうとする僕をよそに、先輩の興味は雨の瞳の少女へと向いてしまった。
「このみちゃん、この少年と何を賭けたの?」
このみちゃんと呼ばれた少女は僕を指差して一言。
「入部……」
とだけ答えた。これでは一方的に僕の入部を賭けたように見えてしまう。もはやこの子の頭の中には、自分が負けた場合の条件は残っていないようだ。
少女の言葉を聞くと、先輩は再度僕に向き直り、歯を見せて笑った。
「このみちゃんと花札で賭け事するなんてツイてなかったね!」
負けたことがツイていなかったのではなく、勝負をしたことがツイてなかったときたか。先輩にとっても、この少女が負けるという可能性は微塵も感じないらしい。
「そーゆーわけで、入部歓迎するよ! アタシの名前は島室亜衣。二年生だけど、この部活の部長さまだよ!」
しまった。先に自己紹介をされてしまった。急いで僕も名乗る。
「あ、えっと、僕は一年C組の花江悠介ですっ。よろしくお願いしますっ」
「うん、よろしくね~」
そこでようやく、たった今花札をした少女と自己紹介をしていなかったことを思い出した。今さら自己紹介をしようとは言いづらい。だが、今日を逃すともっと言い出しづらくなるだろう。
僕は覚悟を決めて灰色の瞳の少女に尋ねる。
「君の名前は?」
すると案の定、少女が答えるより先に島室先輩が真ん丸とした目で僕と少女を繰り返し交互に見た。
「自己紹介の前に一戦するとは、キミたちはとんだ戦闘狂だね!」
返す言葉がありません……。でも先輩、まるで野生の珍獣でも見るような目で僕らを見るのはやめてください……。
僕は花札のこととなると周りが見えなくなる自分の性格を反省しつつ、少女に向かって言う。
「僕の名前は花江悠介、一年C組だよ。君は?」
「雨宮このみ……一のA」
雨宮とは、どこまでもイメージ通りの名前だ。雨宮さんは、雨と何らかの因縁があるのかもしれない。
その後は、これからの活動について簡単に話して解散となった。何でも、ゆるくではあるが、この部室で毎日活動していくそうだ。これがただの部活であったのなら、いまごろ僕はげんなりとしていたことだろう。しかし、これは普通の部活ではない。いや、普通ではない者がいる部活というべきか。
雨宮さんは、およそ三年ぶりに僕を負かした存在であり、自他ともに認める最強の存在なのだ。この少女とのこれからの部活は、少なからず僕の鼓動を高鳴らせる要因となっていた。
言ってしまえば、楽しみで仕方がないのだ。雨宮さんと花札をしていれば、一人では到達できない高みへと足を進めることができる。そんな気がした。
こうして僕は、花札部に所属することになったのだった。
「しまった……」
昇降口へ来たところで、改めて傘を忘れてきたことを思い出した。
花札部への入部が決まった後、せっかくだから雨宮さんを送っていくようにと島室先輩に頼まれていたのだが、これは雨宮さんに先に帰ってもらうほかないようだ。
雨は先ほどより勢いを増している。最悪、今日は濡れて帰ることも覚悟しなければならないかもしれない。
二つクラスが隣の下駄箱から雨宮さんが出てきたので迅速に謝罪する。
「ごめん、雨宮さん。悪いんだけど、今日僕、傘を忘れてきちゃったみたいなんだ。一応、雨脚が弱まるのを待ってから帰るつもりだから、雨宮さんは先に帰って」
「かさ……?」
「そう、傘がないんだ」
何を思ったのか、雨宮さんはゆっくりとした手つきでスクールバッグを開け、ごそごそと中をあさりだした。
「どうしたの、雨宮さん?」
この少女は一体何を考えて行動しているのだろう。言葉数が少なく、表情に動きがないせいか、まるで読めない。
僕の問いに対する答えは、彼女の口ではなく、スクールバッグから出された。そのままそれを僕に突き出す。
「はい……」
「雨宮さん、これは?」
「かさ……」
雨宮さんが僕に突き出していたのは、紛れもなく傘だった。正確には、水色のかわいらしいデザインの折り畳み傘である。
これを僕に貸してくれると言っているのだろうか? それとももしかして、相合傘を……?
「かさ……」
問答無用で受け取れと圧力をかけてくる雨宮さん。彼女の眼力に負けて僕の手は勝手に動き、水色の傘を受け取ってしまった。
まさか本当に相合傘をするというのだろうか。いや、でも今日会ったばかりなわけだし、そんなことを女の子にさせるわけにもいかない。しかし、相手の厚意を無駄にするわけにもいかないし。ああ、いったいどうすれば。
なんて思っている内に、雨宮さんは自分のクラスの下駄箱へと戻って行ってしまった。
「あの、雨宮さん……?」
僕以外誰もいなくなった一年C組の下駄箱に、悲しく僕の声がこだまする。
雨宮さんの行動の意味が本気で分からない。
十秒ほど呆然と立ち尽くしていると、再び雨宮さんが姿を現した。しかし今度はさっきとは違い、その手には長い傘があった。古風な雰囲気を漂わせる赤い蛇の目傘だ。
「雨宮さん、それは?」
「わたしの……」
「雨宮さんの?」
「……メインアーム……」
どうして。
まあ、なぜ武器装備みたいな呼び方をしているかは置いておいて、その蛇の目傘も雨宮さんのものなのだろう。
僕は手にある折り畳み傘を掲げて訊ねる。
「あ、じゃあ、これは?」
「……サブアーム……」
だからどうして。
「その言い方気に入ってるの?」
苦笑しつつ訊ねると、雨宮さんはこくりと頷いた。おそらく彼女のブームか何かなのだろう。
雨宮さんから貸してもらった傘を使って雨の中へと繰り出すと、小粒の雨が傘を叩く音が途切れることなく鳴り響いた。それはまるで行進隊のドラムロールのようにも聞こえる。だが僕らが行進をするのは、田舎のやたらと広い農道だ。格好よさの欠片もなければ、迫力もない。
しかし、雨宮さんの表情はどこか堂々としたものがあった。きっとお気に入りの蛇の目傘を自慢できて嬉しいのだろう。
僕はそんな彼女に訊ねる。
「傘が好きなの?」
雨宮さんは鼻歌でも歌い出しそうなステップを踏みながら僕を見た。
「傘は好き……雨も好き」
傘が好きだから雨が好きなのか、雨が好きだから傘が好きなのか。考えても、鶏が先か卵が先かのような気がしてきた。
その後も他愛のないやりとりをして、最後に傘の御礼を言って別れたが、彼女は部室にいる時よりも心なしか明るく見えた。まさか、あの島室先輩という人が苦手ということなのだろうか。いや、だったら花札部に入部なんてしなかっただろう。
彼女の表情の変化には、もっと複雑な理由が秘められているような気がした。
期待の学校生活。期待の部活動。最後に小さな疑問を抱くこともあったが、これから始まる日常に、僕の胸は高鳴らずにはいられなかった。
――しかし、夢はいつだって覚めるものである。
家の戸を潜った瞬間、僕は夢から覚める。憂鬱な現実へと引き戻されてしまうのだ。
「ただいま」
一応あいさつをして玄関の戸を開けた。返事はないと分かっているが、それでもする。
居間へ行くと、明かりを着けてダイニングテーブルを確認した。テーブルの上には、一枚のメモ書きがあった。
実は今朝、進路について簡単な質問を書いたメモを父に残していったのだ。これはその答えだろう。
しかし、僕はそのメモ書きを手にも取らずに確認して、一つ大きなため息を吐いた。
その文字を確認するには、一瞬で十分だった。
『勝手にしなさい』
それがメモに書かれたメッセージだった。
突然だが、子はいつだって迷子になりながら成長していくものだと思う。そして、子が迷ったときに正しい方向を教えてくれる方位磁石の役割を果たすのが親なのではないだろうか。
しかし、僕の方位磁石はいつだってくるくると回っていて、一度たりとも一つの方向を示したことはなかった。幼いころから、道に迷ったときはいつも『勝手にしなさい』と突き放されてきたのである。保育園の友達関係で困った時も、小学校の行事に参加したいと言った時も、中学校で進路に悩みだした時も。いつだって僕はこの言葉を投げつけられてきた。僕の生き方を決める方位磁石は、どうしようもないくらいに機能を果たしていなかったのだ。
母はいない。僕がハイハイを始める前に事故で亡くなったと聞いている。
そんなだから、いつしか僕は方位磁石を頼るのをやめてしまった。手探りで進んで、あっているかも分からない道をひたすらに歩んできたのである。
だから今回も、父の返答に期待していたわけではない。しかし、子として、親には最低限言っておかなければならないと思って、念のため伝えておいただけだ。
先のため息も、ある種予想通りの答えすぎてつまらなくて出たものである。
僕はメモ書きを片手で無造作に握り、それを屑籠に入れてから一人分の夕食を作り始めた。