第一章
1
「もう歩けねぇよ。」
土砂降りの雨の中、伊蔵はつぶやいた。
周囲には同じようなボロをまとった男達が十人ほど居た。泥にまみれ、中には返り血を浴びている者もいる。どの男達の顔にも憔悴しきった表情が浮かんでいた。
無理も無い。命からがら死地から逃げ出してきたのだ。そのあとゆうに半日は歩き続けている。
「歩け。いつ追手が来るかわからんぞ。」大柄な男が答えた。
「勘助、そうは言うても昨夜から歩き通しじゃろ。もう足が痛くてたまらん。」
「お前の命じゃ。好きにしろ。」
何人かはうつろな瞳を向けたが、他の男達は何も言わずもくもくと歩き続けていた。
伊蔵も頭ではわかっている。
所詮、半農の足軽だ。落ち武者狩りに遭ったところで命以外に盗られる物もない集団である。襲われる事もないだろう。しかし面白半分に狩られることもあるかも知れない。こんな所をうろついている敗残兵に対しては、襲撃者の情けなど期待できないだろう。
「えい!くそ!」
誰にあたることも出来ず伊蔵は重い腰を上げた。
いざという時、互いに助け合うことも無いだろう集団だが、一人で歩き続けるよりは安全だった。
「お前らはどこの村から来たんじゃ?」
誰も答えなかった。
あと、二つ山を越えれば生まれ故郷の村だった。
2
「だからお前は馬鹿じゃと言うとんじゃ。」
年老いた母からの罵倒を聞き流しながら、伊蔵は鍬をふるった。
「百姓のお前が何の大働きをするがじゃ。今に命がおらんようになるわ!」
仕方無い。
今は言われるまま言わせておくしかない。
伊蔵は鍬をふるいながら思った。
今は戦国の世。
各地で郡雄が割拠し、今日は東で、明日は西で、戦がおこなわれていた。
この頃の百姓は半農半士、戦ともなると足軽として参加する者も多かった。
普段は農作業をしているため身体が丈夫で、集団行動も慣れている彼らは、戦国大名たちにとって魅力であり、その戦力に組み入れられていたのだった。
伊蔵もそれに漏れず、村をその勢力下におく大名の陣に参加していたのだが、彼は立身出世を夢見ていた。もっと強い大名、もっと勢力の大きな大名、その陣に参加し、大働きし、そして家臣として取り立ててもらうのだ。
「どこそこの国で大きな戦がありそうだ。」そんな話を聞いては一領具足、一振りの刀、それだけを抱えて飛んでいくのだった。
きっと大働きをする。
俺は、こんな村で百姓で終わる男では無い!
「そんな事ばかり言うて、お前は負け戦専門じゃ!」
そうだ。
伊蔵は何故か負け戦ばかりだった。
「お前に馳せ参じられては、大いに迷惑じゃよ!」
返す言葉もなく、畑にあたり散らすように鍬をふるった。
3
「また性懲りも無く戦に行っとったのか。」利兵衛が言った。
「しかも今度もまた負け戦かよ?」
幼い頃から一緒に悪さばかりしてきた仲だが、数年前所帯を持ってから利兵衛は変わった。
「お前はもう戦に行かんのか?」
「わしはもう行かん。あんな恐ろしいのは一度でこりごりだ。」
昔、一度だけ伊蔵にそそのかされて利兵衛は戦陣にその身を投じたことがある。
利兵衛とて伊蔵と同じくただの百姓で終わりたくない、そう思ってた時期があった。
「最近、勢いのある大将だという噂だ。」
梟雄だとも言われているが、何のその位言われる大将のでなくては大働きできん
という話に乗せられたのだ。
右も左も分らぬまま足軽隊に組み入れられ、気が付いた時には槍を手に立っていた。
矢が唸り、鉄砲の轟音が響き、騎馬が吠える。
「絶対に死ぬと思ったわ。こうして生きてるのが不思議でならんくらいにな。」
「そうですよ。お母様もご心配されてます。伊蔵さん、もう戦に行くなどと
そんな恐ろしい事は辞められては。」嫁の千尋も言った。
「わしも一度は乗せられたが、噂だけで命を預けるなんてあまりにも無茶すぎる。」
「あれはたまたまじゃ。現に弾正忠は大和の国を切り取りしとる。」
「ならずっと弾正忠の陣に行っとればよいものを。なんでお前は負ける方の陣にばかり行く。」
大いにその通りだった。
急速にその力を無くした幕府と将軍だったが、今でもやはり都は京なのだった。
傀儡であっても大義名分のため将軍を庇護し、京都にその勢力を置くことを戦国大名たちは
目指した。三好三人衆は足利義栄を14代将軍として擁立し、松永弾正忠久秀と対立をしていた。
伊蔵は何故かこの久秀を買っており、その陣に初めて参加し多聞山城下で三好衆と激突。
打ち破られて、ほうほうのていで逃げたのだった。
その後、久秀は畠山氏や根来衆の支援を得て堺などを制圧し、勢力を巻き返した。
一度は村に逃げ帰ってた伊蔵だったが、「やはりこの大将」とばかりここに参陣したが、
すぐに堺は奪還され、その後も次々と味方の城が落されていったのだった。
そしていよいよ東大寺で両軍が激突する時、伊蔵は三好軍の中にいた。
「だから、なんでずっと弾正忠の陣におらんかった。負けて負けて、いよいよ巻き返すという時に
なんでお前は負ける方の陣におるんだ。」
「弾正忠には大義名分が無いじゃろうが。」伊蔵は精一杯の言い訳を口にした。
「大義名分?そんなもん三好にも誰にも無いだろうに。」
その通りである。
「三好の旗色が良かっただけだろ?」
図星である。
質・量ともに勝る敵陣を目の当たりにし、遂に久秀贔屓の伊蔵も彼を見限ったのだった。
しかし戦は久秀が勝利した。
夜襲を掛け、同時に東大寺で火災が起きた。
三好軍は応対する事もできず、敵刃と炎に蹂躙され、伊蔵も怒号の飛び交う中、他の兵達とともにただひたすら逃げたのだった。
「わしはまだ仕官したわけじゃない。良き大将と大働き出来る場を探しておるだけじゃ。」
「しかし、そうコロコロと陣を替えておっては、なかなか仕官の道も拓けんのではないのか。」
「分かっとる。」伊蔵はふて腐れながら応えた。