左手に込めた想い
あと三メートル。たった三メートルだったのに。歩行者用信号機は、無情にも点滅を始めてしまった。
遠くから青信号を見て、早歩きでここまで頑張って来たというのに。
唇を噛み締めながら、目の前を往来する車を苦々しい思いで見送る。
ここの信号は、交通量の関係で赤が長い。青の二倍はある。今日のようにギリギリで渡れなかった時なんかは、永遠とも思える時間がそこにあるのだ。
信号が変わるのを待っていると、後ろから足音が近づいてきた。そしてわたしの隣で止まる。ちらりと見上げてみると、一つ下の学年の男子だった。なんの関わりもない人なのですぐに目を逸らすが、今度は逆に視線を感じた。
「粉川さん……ですよね?」
驚いて、再び彼を見上げる。まともに視線がぶつかった。
「えと……、わたし?」
「はい。粉川友梨さん」
「あ、うん。わたしだけど……。何か?」
わたしは、彼の目が真っ直ぐすぎることに気づいた。そんなふうに人を見ちゃいけない。ある種の恐怖のようなものを感じた。
しかし、なぜか彼から目が離せなくなった。わたしは彼の唇の動きを凝視していた。
「好きです」
その唇から漏れた彼の言葉は、わたしの頭を右から左へ抜けていく。そしてまた左から戻ってきたときには、信号は青に変わっていた。
動けないでいるわたしを、二本目の白線を踏んだ彼が振り返る。
「渡らないんですか?」
「わ、渡るっ」
焦ったわたしは、彼の横まで小走りで向かう。そしてすぐに、走る必要なんてなかったことに気づく。わたしだけが焦って、彼が落ち着いているのが少し癪に触った。
「帰り、徒歩ですよね? 時間いいですか? 話がしたいです」
「いいけど……。きみ、バスだよね?」
彼は、そこで初めて表情を変えた。
「俺のこと、知ってるんですか」
「何となく。一年生でしょ?」
小さな学校なので、他の学年でも誰がバス通学で誰が徒歩通学か、なんとなく覚えてしまうのだ。なんとなく、だけれど。
彼は、はにかむように笑った。
「はい、一年の白石と言います。俺バスですけど、時間まで四十分くらいあるので大丈夫です」
「なんでそんな早く出てきたの」
「なんでって……。粉川さんが帰るの、見えたから」
そういえばさっき、好きとか言われたんだった。それを言うために、追いかけてきたということか。
今更ながらに血が上ってきた顔を白石君から逸らし、彼の腕を掴んで小道から商店街の裏に入る。こんなところ、知り合いにでも見られたら恥ずかしすぎる。今も十分恥ずかしいけど。
白石君は「こっち通るの、初めてだなあ」と言いながら辺りをキョロキョロ見渡していた。地元住民のわたしは、この辺の地理は詳しい。ここは、近辺に住んでいる人くらいしか通らないから、昼間はほとんど人影はないのだ。
「粉川さん」
「はい」
「好きです」
「……はい」
もしかしなくとも、これは告白というやつだ。こういうとき、どうすればいいんだろう。わからない。
「その……、人違いってことは」
「ないです」
「粉川違い、とか」
「粉川さんは学校に何人かいますけど、粉川友梨さんは先輩一人ですよね」
「えっと、では、白石くんはわたしが好きだと」
「そうです」
「そうですか」
わたしは、恋愛に関する経験はゼロだ。告白なんて、初めてされた。何か裏があるのだろうか。それとも夢オチ? ドッキリ? 罰ゲーム?
「でも、初対面だし」
「話したことなら、あるにはあります」
「えっ、ウソ。覚えてない」
「でしょうね」
白石君は、くくっと笑った。
「あの、わたしは、どうすればいい?」
本人に聞く質問じゃないよな、と思いながらも尋ねてみる。案の定、彼は苦笑いだ。
「俺と付き合ってほしいです」
付き合う。もちろん、異性交遊の意味でだろう。頭がどんどん白くなっていく。
「ええと……、あ、でも……」
「返事とか、まだいいです。ていうか、簡単に振らないでください。まぁ、いきなり付き合うのが無理なのは当然ですけど、振るにしても、もうちょっと俺のこと知ってからにしてくれませんか」
白石君の、振られることが前提の言い方が面白くて、思わず笑ってしまう。笑ったらだいぶ気がほぐれた。それと同時に、学校で見かける彼の様子も思い出した。
「わたし、白石君のこと少しは知ってるよ? 白石君って、バカってよく言われるでしょ」
白石君は、驚いたような、でもどこか嬉しそうな顔をした。
「なんでそれを知ってるんですか」
「ホントに言われてるんだ?」
「う……、結構よく言われます。勉強はできるのにそれ以外は抜けてるとか」
「あはは、やっぱり。いつだったかさ、雨降ってるけど傘がなかった日、友達に『ゴミ袋被って帰ればいいんじゃね?』とか言ってなかった?」
白石君は両手で顔を覆って呻いている。かわいいな、この子。
「うあ〜、言いましたけど……」
「その後の空気の白け具合、すごかったよね」
「あー! 言わないでください!」
「それから、女子トイレのゴミ捨て頼まれてた時。『この黒い袋何?』って。あれは笑っちゃったなー」
手をどかした白石君の顔は、真っ赤になっていた。
「あれは……、その、うぅ。ていうか、結局あの袋何なんですか?」
「えっ、本当に知らなかったの?」
「はい。友達も知ってるみたいなのに、なんかニヤニヤして教えてくれないですし」
「……いい友達もったね」
「どういう意味ですか」
「別に?」
この子、おもしろい。初対面で、しかも異性と話してるのに緊張しないなんて、初めてじゃないだろうか。
「笑わないでくださいよ。だいたい、あれ、八割は粉川さんのせいなんですからね」
「ちょっと、なにその言いがかり」
「雨の日は、粉川さんがすぐ近くにいたから。だから、少しでも存在感を出したくて、気を引きたくて。でも焦っちゃって、それで変な事言っちゃったんです」
顔が熱くなるのをごまかすために「じゃあ、トイレのは?」と切り返す。
「あれもそうです。俺、粉川さんの側ではなるだけ喋るようにしてるので。でも、あんな空気になってびっくりしました」
「わたしは、あんなことを聞く白石君にびっくりした」
軽く俯いた白石君は、
「粉川さんの印象に残ったのなら、それでいいんです」
と小さくつぶやいた。
「手、繋いでもいいですか?」
顔を上げた白石君は控え目に、けれどわたしの目を見てそう尋ねた。反射的に手を引っ込めてしまう。
「すみません。やっぱ、ダメですよね」
自嘲気味に笑う白石君に、傷ついた様子は特に見られない。
「いいよ。手くらい。あたしの手なんて、全然価値ないから」
白石君は、わたしの顔と、彼に差し出した左手を交互に見比べた。「じゃあ」と言うと、彼はわたしの指の辺りをそっと包み込むように握った。温かい。さすがにこれはドキドキする。かれの右手の甲に、親指を添えてみる。
「握り返さないでください」
「どうして?」
「期待しちゃいます」
ならば、と入れかけていた力を抜く。期待されても、責任は取れない。
「手、冷たいですね」
「心が温かいから」
「自分で言っちゃいますか」
「自分で言わなきゃ誰も言ってくれないんだもん」
「いや、それはつまり、それが粉川さんの評価ということじゃないんですかね」
「違うよ。だれもわたしの温かさに気づかないだけだよ。ほら、本当の優しさは気づかれない優しさだって言うでしょ?」
「いい性格してますね」
「何が言いたいの?」
「別に?」
わたしの言葉を真似る白石君の手に、親指の爪を立てる。
「痛い痛い痛い!」
痛がりながらも嬉しそうな彼は、マゾだろうか。
宥めるように強弱をつけて手を握られ、若干気恥ずかしくなる。
「粉川さん、あんまり緊張してくれないんですね」
そう言って笑う彼は、少し寂しそうにも見えた。
「してるよ」
「そうですか。見えませんけど」
「心臓バクバクいってる」
「……俺も、すごいです」
ふいに、握られた手を引っ張られる。白石君は、わたしの手のひらを自分の胸に押し当てた。ドクンと、一際大きく胸が高鳴る。
「わかりますか?」
左手の手掌からは、トクトクと速いリズムを刻む白石君の鼓動を感じていた。わたしは、小さく頷くことしかできなかった。
胸から手をのかすと、彼はおもむろにわたしの橈骨動脈を指で圧迫した。
「本当だ。脈速いですね」
だから、あ〜、もう。
「あ、赤くなった」
白石君は、子供のようにケタケタと笑い声をあげた。
その日の晩、わたしは広げた数学の問題集の上で頭を抱えていた。数学の問題が解けなくて悩んでいるわけじゃない。数学なんてとっくに諦めた。問題は、数学じゃなくて白石くんだ。
あれから、彼はバスの時間だと言ってあっさり別れた。「俺のこと考えてください」と言い残して。彼に言われた通り、今考えている最中なのだ。
彼の告白は本物なのか? 信じていいのか? と。
なんで彼がわたしのことを好きなのかとか、まだ聞いていない。そんなんじゃ、信じようがないよ。彼のことも、まだ全然知らないんだもん。
悪い人ではないと思うんだ。今日も、話していて楽しかった。だけど、わたしと彼の間における信頼関係なんて一切ないわけで。
あぁ、もう、わからないよ。勉強と一緒だ。わからないものは、いくら考えたって答えは出ない。考えるだけ無駄だ。
もういい、寝よう。明日、友達に相談しよう。
時計はまだ夜の十時前だった。こんな悶々とした頭で眠れないかなとも思ったが、酷使した脳は休息を求めていたらしい。布団に潜ると、わたしはすぐに眠りに落ちた。
「この、裏切り者めっ!」
「いたっ」
友人の夏実に背中を叩かれる。
あれから一日明け。部活が終わり二人きりになったところで、昨日のことをかいつまんで夏実に報告したのだ。
「いや、だから、まだ付き合ってないって」
「問答無用! 告白されるなど、非リアの風下にも置けん!」
そこは風上じゃないかな? まあいいや。
「でもわかんないよ? ホントにさ、今まで話したことすらない人で。からかわれてるだけか、もしかしたら何かの罰ゲームとかかも……」
「罰ゲームだとしても、標的にされる時点で友梨に問題がある」
問題ってなんだ。
「とにかく! そなたは非リア充同盟から除名する!」
「わたし、現在進行形で非リアなんだけどな」
そんなくだらないやり取りをして、玄関を出たところで夏実と別れた。彼女とは、家は反対方向なのだ。別れ際に、「また詳しく教えて。今日の夜にでも電話しよう」と約束をして。
「粉川さん」
学校の通りを歩いていると、突然の背後からの低い声にビクッと肩が揺れる。振り返ると、声でわかってはいたが白石君がいた。昨日と表情が違う。怒っている。いや、悲しんでいる?
彼は、わたしを睨んでいた。
「途中まで、一緒に帰りましょう」
わたしが頷いたのを確認して、彼は背を向けて歩き出した。
横断歩道を渡ると、荒く手を掴まれ昨日と同じ商店街の裏に連れ込まれる。怖い、と思った。
「白石君、バスは?」
「まだ二十分あります」
白石くんは目を反らしたまま答えた。やはり、彼は怒っている。
「粉川さん、酷いです」
「何……が?」
「俺、本気で粉川さんのこと好きなんです」
「うん……」
「俺の気持ちまで貶さないでください!」
わたしはやっと、彼の言いたいことがわかった。
「……聞いてたの?」
「罰ゲームでもなんでもないです。好きだから、それを伝えただけなんです」
ほろりと、白石君の瞳から涙が零れた。彼は横を向くと、袖口で目元を乱暴にこすった。そんな彼を見ていると、残酷な気持ちがこみ上げてきた。
「わかんないよ」
こちらに視線を戻した彼を、先程の乱雑な態度の仕返しとばかりに睨みつける。
「白石君は話したことあるとか言ってたけど、覚えてないわたしにとっては初対面だもん。今まで伏線もなかったのにいきなり告白されたって、全然説得力足りないよ。本気なんて、そんな簡単にわかるわけないじゃん。信じて馬鹿を見るのはわたしなの! 怖いよ。すぐになんて、信用できないよ」
自分のことを知ってほしいと言う前に、わたしのことも知れ。彼の想いにどう答えるかを考える以前に、彼の言葉を信じていいのか疑ってしまうわたしの葛藤を、少しは理解しろ。
「なん、ですか。伏線とか、説得力って」
白石君は、鼻声だった。
「告白するには、その二つが必要なの」
「初めて聞きました」
もう一度目をこすった白石君は、わたしを見てちょっとだけ笑った。
「粉川さん、全く意識してないような態度だったから、不安だったんです。でも、考えてくれてたんですね」
「当たり前でしょ。いきなり告白しておいて。昨日の夜なんて全然眠れなかったんだから」
「え、そうだったんですか」
「……ごめん。九時間熟睡した」
「それは寝過ぎです」
肩をすくめるわたしに、白石君はふてくされたように唇を尖らせた。
「俺、バスの時間あるのでもう行きますね」
「うん」
「明日も会えますか? 話したいこと、いっぱいあるんです。伏線はもう間に合わないけど、説得力なら少しはあるかもしれないので」
「うん」
「ありがとうございます。じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
「うん。バイバイ」
手を振ると、白石君はくしゃっと笑んで手を振り返した。わたしは、彼が国道に出て見えなくなるまで見送っていた。
「きっかけがほしかったんです」
翌日の放課後、人通りの少ない道をぶらぶら歩きながら、白石君は唐突にそう口を切った。初め、何の話かわからなかった。
「俺たち学年も部活も違うし、何の関わりもないじゃないですか。なんとかして仲良くなりたいけど、話しかける話題がなくて……。だから、告白するしかない、と思ったんです」
手段は他にもいろいろありそうだが。意外とぶっ飛んだ思考をしているのかもしれない。いや、意外でもないか。
「春先の頃、俺、友達と廊下で鬼ごっこしてて粉川さんを突き飛ばしたんですけど、覚えてません?」
確かに、そんなことがあった。教室を出たとたん、身体が吹っ飛んだのだ。わたしを突き飛ばしたのは、靴ひもの色から入学したて一年だというのは把握していた。「すみません、すみません」と何度も謝りながらわたしを助け起こした後、彼はいきなり凄い勢いで土下座をかました。怪我はなかったものの、おかげで見物していたクラスメートから大笑いされたのも覚えている。
「あー、うん。思い出した。……あれが白石君だったのか」
「はい。あの時は本当にすみませんでした。……俺、あの日から粉川さんのこと気になり始めたんです」
「え、そうだったの?」
「廊下ですれ違う度に怒られるかもしれないってビクビクしてて、常に粉川さんを目で追ってたんです。でも粉川さん、俺のことなんて全く眼中になかったじゃないですか。なんか悔しくて、余計意識するようになっちゃったんですよね。……春からずっと、粉川さんを見てました。いつからかわからないけど、粉川さんのこと、好きだと思うようになってました」
「へ、へえ、そうなんだ」
確かに、白石くんの存在を意識したことなんてなかった。気づかぬうちに好意の視線を向けられていたことを知り、頬が火照る。
「あ、ずっと見てたって、なんか気持ち悪いですよね。ストーカーみたいで……」
俯いて語尾をすぼませる彼に、わたしはゆっくり首を振った。
「気持ち悪くないよ。迷惑被ったわけでもないし。……ええと、そうじゃなくて、その……。ありがとう、わたしのこと見てくれて」
今度はわたしが尻すぼみになってしまう。白石くんは、泣きそうな笑顔で「はい」と頷いた。
「あと、もう一つ謝らなきゃいけないことあるんです」
「なに?」
「夏休み明けの大掃除の時、粉川さんの顔面に雑巾投げつけたのは覚えてます? あれも俺なんですけど……」
「あー! そういえばあの顔は白石君だ!」
「はい。あれ、ワザとです」
「はあっ?」
「友達と雑巾を投げて遊んでたら、ちょうど粉川さんが来たので、気を引くチャンスだと思いまして」
「きみ、性格悪いよね」
「粉川さん一筋です」
何を言っているんだ、こいつは。あの雑巾は最悪だった。人生で、雑巾を顔面に食らうことが何度あるだろう? 健全な生き方をしていれば、そんなこと経験しないはずだ。
「雑巾を当てたことは謝りましたけど、狙っていたことについてはまだだったので。すみませんでした」
ペコッと頭を下げる白石君は、かわいい。許しちゃいけない気もするが、なぜか憎めない。下心はともかく、自分を慕ってくれる後輩がいるというのは、素直に嬉しい。
「温かい飲み物奢ってくれたら許す」
ちょっと上から目線でそう言えば、白石君は笑って「自販機でいいですか」と聞きながらわたしの手を自然に握った。
悪くはないかもしれない。握り返してはいけない左手を見ながら、そう思った。
あと数歩のところで、歩行者用信号機が点滅を始める。急いで渡るか? 無理か? いや、いけるだろう……
「友梨さーん!」
「えっ、……あ、あ〜!」
白石君に呼ばれ動揺した隙に、信号はあっという間に赤に変わってしまった。
「初めて声を掛けた時も思ったんですけど、友梨さんって一人で歩くときペース速すぎませんか。競歩の大会にでも出るんですか」
「あはは」
信号に間に合わせるためとは言いづらく、適当に笑ってごまかす。白石君は仏頂面だ。
「友梨さん、今日、用事でもあるんですか」
「ないけど」
「じゃあ、何で先に帰るんですか」
白石君とは、放課後にバスの時間まで二人でぶらぶらするのが恒例になった。毎日じゃない。週に三日から四日、たまに五日。まあ、ほぼ毎日だけれども。今日のように部活のない日は基本的に一緒に歩いていた。
そんな日々が、一か月以上続いた。廊下ですれ違えば、ちょっと立ち止まって言葉を交わす。連絡先を交換し、メールのやり取りもしょっちゅうしている。勉強のできないわたしをバカにする秀才な彼は、ものすごく憎たらしい。時折わたしの前に現れる、剣道部の袴姿の彼は見飽きないほどかっこいい。いつからか、いや、告白されて四日後くらいから、彼はわたしを下の名前で呼ぶようになった。わたしはいまだに「白石君」だけれども。
この一か月で、彼の下の名前を知った。
駅前の定食屋さんの、唐揚げ定食が好きなことを知った。
理数系科目が得意で、歴史が苦手なことを知った。
ご両親は共働きで、大学生のお兄さんがいることを知った。
将来の夢ははっきりとは決めていないが、医療系を視野に入れていることを知った。
剣道は小学生の頃から習っていて、現在二段だということを知った。
今まで誰とも付き合ったことがなく、告白もわたしが初めてだと知った。
他にもたくさんのことを知った。でも、まだ足りない。彼を、もっと知りたいと思う。
彼の名前の由来を知りたい。
唐揚げを頬張るときの彼の表情を知りたい。
成績が良いらしい彼の勉強法を知りたい。
家族と接するときの彼の様子、態度を知りたい。
なぜ医療系を考えているのか、そのきっかけを知りたい。
剣道にはどんな思いで打ち込んでいるのか知りたい。
彼のわたしへの想いに、一か月でどんな変化があったのか知りたい。
もう、自分の気持ちの変化には気づいている。一年生の女の子と楽しそうに話している彼を見て、つまらなく思っている自分がいた。彼から「友梨さん」と声を掛けられるのを、期待して待っている自分もいた。彼のいろんな表情が見たい。声を聞きたい。手を触れたい。そんな欲求も強くなった。
「だって……、白石君の靴、なかったから」
「えっ、俺のこと探してたんですか」
小さく頷くと、彼は頬を緩めた。
「じゃあ、俺に付き合ってくれますね?」
わたしが返事をする前に手を繋がれる。ここ、国道なんだけどな。同級生とか、今も普通に目の前歩いてるんだけどな。まあいいや、と思ってしまうわたしは、彼にだいぶ毒されている。
「友梨さんて、手袋しないんですか」
「ん……まあ」
この時期、例年なら完全防備なわたしは、曖昧に答えた。そういう白石君だって、手袋はしていない。繋がれた彼の手は、ひどく冷たかった。
白石君は、わたしがわざと手袋をはめないことに気づいているのだろうか。寒風にやられる手を毎日ハンドクリームでケアしている意味を、彼はわかってくれるだろうか。
まだ、わたしの気持ちは伝えていない。今の、友達同士のような関係が心地よいのだ。その関係が崩れるのが怖かった。たとえ、その先により深い繋がりがあろうとも。
わたしはまだ、未知の世界に足を踏み出せずにいる。
でも……。
気づいてほしい。関係はまだ変えたくないけど、この気持ちには気づいてほしい。
言葉で伝える代わりに、わたしは繋がれた彼の右手をそっと握り返した。