2話 「私がおぬしの主じゃ!」「チェンジ!チェンジでお願いします!」。
気づくと俺は、あたり一面が真っ黒な空間に居た。
真っ暗でなく真っ黒なのは、少なくとも自分自身の体が見えるからだ。
けれど肝心の光源が見当たらない。太陽もなければライトもない。
そんな状況で何故俺の体が見えているか不思議でならない。
「どういう事なんだろ……つーか此処どこ……」
とりあえずドアノブ腕(両腕)に黒い靄に引きずり込まれたところまでは覚えている。
とすると、この黒い空間はあの靄が立ち込めている場所なのだろうか。
試しにふぅー、と息を吐いてみるが、目の前の真っ黒い空間に変わった様子はない。
「マジモノの心霊体験に巻き込まれたっぽいからなあ……。すると此処はあの世?」
うわあ最悪だ、と頭を抱えたくなる。
まだやりたいことは山ほどあるというのに。
例えば……えーと、うーんと……。
…………。
進学、は別にやりたいことじゃなくて皆がそうしてるから流れに乗っただけだし……。
強いて言えば彼女が欲しかったくらいかなあ……。出来れば小動物系の守ってあげたくなるタイプの。
更に要望を言わせてもらえれば、胸は大きいほうが好みだ。
いや控えめなのがダメだとかいうワケじゃないですよ?
ただ単に大きな胸には夢とか希望とか青少年の憧れとかが詰まってるというだけの話で。
やっぱり夢は大きいほうが良いと思います!
――我が……呼び……よ……。
「……ん?」
声が聞こえてくる。
見回すが、真っ黒な空間が有るだけで、誰かが居るわけでもない。
「空耳かな……?」
――我が……呼び掛け……よ……。
「あ、やっぱり聞こえる」
何処からだろうと意識を澄ます。
――我が呼び掛けに応えよ。
高く澄んだ少女の声だ。
そう認識するやいなや、真っ黒だった空間にぽつんと光が灯る。
突如として現れたそれは、人魂とでも言えばいいのだろうか。
ほんのりと赤く染まっているそれに、俺は何故か強く惹かれる。
俺の手前に現れた人魂に近づきたくなる衝動に駆られていく。
――我が呼び掛けに応えよ!!
一際強く声が響く。
次の瞬間、人魂は大きく燃え上がり、一時の間に真っ黒い空間を紅蓮に焼き尽くしていく。
「ギャアアア!焼け死ぬーっ!?……ってあれ、熱くないな、これ」
唐突に燃え盛る炎に包まれ、ここで丸焼きになる未来を一瞬想像したが、この炎からは熱さを感じなかった。
いや、確かに温度は感じるのだが、なんというか凄く優しい温かさなのだ。
興味が湧き、恐る恐る炎に触れてみる。
――ぐにょり。
炎にあるまじき感触がした。それもつい最近、体験したばかりの感触が。
背中に冷たい汗が流れる。
「このお湯に浸した食パンのような、生温かく人肌的な感触は……まさか……」
思わぬ感触に、俺は炎に触れたまま硬直してしまう。
すると、俺が触った部分の炎が、途端に姿を変えていく。
火の粉をくるくると舞わせつつ、何かの形を成していく。
最初に5本の指が見えた。次に手の甲が見えた。
白魚のような手とは正にこのことを況やとばかりの、
炎から生まれたとは思えないほど白く華奢な手だった。
次に腕が見えた。
そこで触りっぱなしだった俺の手は、ガッシと掴まれた。
感触は完全に人の手のモノになっていた。
――強烈な既視感に襲われる。
ここまでで俺は理解した。これは、
「ドアノブ腕(今は片腕)さんじゃないですかアアアアア!」
――我が呼び掛けに応えよ!!さっさと姿を顕せ!!
すっごい命令口調の声が大音量で発せられた。
しかもちょっと罵倒入ってる……!
周囲の炎が勢いをます。
轟々と音を上げてうねるそれらは、太陽のプロミネンスを彷彿とさせた。
「って冷静に状況描写してる場合じゃねえよ!離してよドアノブ腕(今は片腕さん)!
つーかあっつい!?突然熱くなったよこの炎!どういうことなんです!?」
焦げ臭い臭いがしてくる。
見るとTシャツから微かに煙が上がっていた。
紛れもなく小火である。
「ギャース!焼け死ぬ!焼け死にますってこれ!」
――我が呼び掛けに応えよ!!おぬしも焼け死にたくないじゃろうて!クククハハハハ!!
少女の声が哄笑になっている。
何この性格悪そうなセリフ。
そうかこの天原冬弥さんを焼き殺そうとしているのはコイツのせいか!
そう思うと、心の中に強い感情が生まれた。
俺はギリ、と奥歯を噛み締める。
状況から見て、俺の手を握っている――あ、恋人握りになってる……――ドアノブ腕(今は片手)も、この声とは無関係ではあるまい。
俺はこのドアノブから生えた手に黒い靄の中に引きずり込まれ、
今度は訳も分からないままに炎に巻かれている。
それがこの声の仕業で有るのならば。
どうして。
俺がコイツの声になど隸わなければならない理屈があるだろうか。
確かに死にたくはない。
けれど。
俺にも守るべき矜持というものが有る以上、唯々諾々とこの状況に流される訳には行かない。
だから。
だから俺は忌々しいこの少女の声に対し、大きく声を張り上げた。
「呼び掛けでもなんでも応えますから助けてくださーい!!」
俺はまだ此処で死ぬわけには行かないんだ!
何故なら小動物系できょぬーの彼女を手に入れてないから!
夢も希望も手に入れないまま死んでたまるか。それが俺のプライド!
次の瞬間。
カッと辺りが眩い光に包まれる。
俺は思わず目を瞑った。ドアノブ腕が、俺の手をキュッと握っていた。
意識はここで再び落ちる。
頬を風が撫でていく。
その感覚に意識は浮上していく。
チリチリ、と聞こえるのは近くで何かが燃えている音だろうか。
遠くからは何か金属を打ちつける音がする。
耳障りだな、と考え――俺の手を握っていた誰かが、その手を離したのを感じた。
俺はゆっくりと目を開ける。
最初に目に写ったのは、深い赤に染まった双眸。
覗き込めば何処までも吸い込まれていきそうな、赤い瞳だった。
それが今は、マジマジと俺を見ている。
風に吹かれ、彼女の前髪が一房、ふわりと揺れる。
流れるような金色の髪の毛。
一本一本が驚くほど滑らかに輝き、月のない夜空の下でさえどことなく淡い光を放っているように感じた。
鼻梁は驚くほど整い、肌は白く透き通っている――。
俺は衝撃に目を見張った。
いま目の前にいる少女は、今まで見たどの女性よりも……美しい。
年の頃は16、7と言ったところであろうか。
身長は低いが、それは可憐さを増す要素でしかなく。
やや切れ長の目は、それでいて眼自体の大きさを損なわず。
薄いながらも確かな肉付きを感じさせる唇は、妖しい色香を放ち。
触らずとも分かる柔らかい髪の毛には、恍惚さえ覚え。
白い肌は、決して不健康なそれではなく、瑞々しい麗しさを備えている。
精緻なまでに完成されたそれは、アンティークドールを思わせるような美しさ。
確かに人でありながら、畏怖の感情さえ覚えずにはいられない、完成された作品。
これを単純に美しいと表現してしまっては、世の美しいという語彙を真っ向から意味のないものに塗りつぶしてしまうだろう。
見惚れてしまう、とはこのことか。
思わず呆然と眺めていると、彼女の唇が微かに持ち上がる。
その些細な動作にさえ、視線を注いでしまう。
ああ、彼女の声が聞きたい。一体どのような声音をしているのだろう――。
「さあ往け下僕!あやつらを煮るなり焼くなり、二度とこのアルンシア様に刃向かおうなどと思わぬよう、骨の髄まで恐怖を刻みこんでやるのじゃ!」
悪役丸出しの表情で、彼女はそう宣った。
聞き間違いではない。
だって俺、超集中して聞いてましたもの、いま。
しかもこの声。
こいつ、さっきの俺を焼き殺そうとしてたヤツだ……。
彼女は俺の後ろを指さしていた。そちらからは数人の狼狽えた気配があった。
「クク……!この際、殺しても構わぬ。むしろそうしたほうが見せしめには丁度いいかも知れぬしのう!」
活き活きと不吉な笑みを浮かべ、心底楽しそうだ。
俺は一瞬前までの美しさとか何とか言っていた自分を、もう思い出せない。
落胆度メーターがひっどい数値まで落ち込んでいくのが分かる。
何この言動、完全に電波じゃないか……。
そしてこの表情に確信する。絶対ロクな性格してないですねこの人本当にありがとうございました。
嗚呼、現実とはかくも儚く、残酷なものか。
「おぬしの力も見たいところじゃしのう!はてさて、見るにも稀なヒトガタの精霊、どのような権能を奮うか楽しみじゃ」
俺は彼女に応えず、改めて彼女を見る。小さい。
一歩下がる。
そこで初めて彼女の全身を見た。
何処のお嬢様だと言いたくなるダークレッドのシックなドレス。
人外じみた美しさであることは認めよう。
しかし、俺は彼女の美しさに欠点を発見した。
はあ、とため息を漏らす。
そんな俺に焦れた様子で、彼女は俺に更に強い口調で命令してくる。
「どうした下僕!おぬしの主はこの私じゃ!命令をきかんか!」
「……主ぃ?」
「そうじゃ!魔族を統べる王の娘にして精霊術の繰り手たる、このアルンシア・ドミトリス・メイロゥこそ、おぬしの主よ!」
彼女は自慢気に胸に手を当て、ふんぞり返った。
その手の置き場を見て悲しい気持ちになり、俺は叫んだ。
「黙れナイチチ!お前なんてチェンジ!チェンジでお願いします!」
そう。アルンシア云々と名乗った彼女は奇跡の貧乳の持ち主だった――。