【企画candy store】はつ恋
まあまあ、遠いところをわざわざありがとう。どうぞそこに座ってくださいな。それにしてもずいぶんお久しぶりだこと。生きているうちにもう一度会えて何よりですね。飲み物は何がお好き?
……ああ、その写真立てですか。ふふ、くちゃくちゃの紙を飾っているなんておかしいでしょう。今でこそ褪せてしまいましたが、昔は綺麗な銀色をしていたんですよ。何だと思います? ──そう、正解。元はチョコレートの包み紙です。どうしてそんなものを大事に取っているのか、ですか? そうですねえ……信じられないでしょうけれど、こんな皺くちゃのおばあさんにも娘の頃があったのですよ。いいえ、あれはまだ娘とも呼べない歳だったかもしれません。もう何十年も昔のお話。……聞いて頂けますか?
当時、わたくしの家は旧外国人居留地の近くにありました。海の匂いがする小さな町です。居留地自体はとうに廃止されていましたが、それでも日本に留まる者は多く、ハイカラなものもよく見かけました。夕暮れ時に染まった街並みを、わたくしは今でも忘れません。
今でこそそれなりに社交的になりましたが、幼い時分のわたくしはひどく内気な性分をしていました。ひとと目を合わせることも難しくて、いつも俯いていました。他人が何を考えているのかわからない。そんな当たり前のことが、わたくしには耐え難いほどに恐ろしかったのです。時には親兄弟にすら恐怖を感じました。
子どもの社会は開放的でいて閉鎖的です。そんな子どもが周囲から浮かないはずもありません。その日もわたくしは散々にからかわれ、ぽろぽろと涙を流しながら、海へと続く道を歩いていました。あまり知られていなかったのですが、海に面した河口のそばに小さな歩道があったのです。焼きレンガの敷き詰められた、潮の香りに満ちた道。幼いわたくしにとって数少ない心から安らげる出来る場所でした。寄せては返す波の音が、わたくしにはとても優しいものに感じられました。
ですがその日、わたくしは安心することが出来ませんでした。普段誰もいない歩道には人が、それも異人さんがいたのです。いつもわたくしが海を眺めていた場所では赤い巻き毛の男の子が、やはりぼんやりと水の世界を見つめていました。
わたくしはひどくうろたえてしまって、その場で固まりました。異人さんを見る機会は少なくなかったはずなのに、何故だかとても恐ろしく感じられたのです。空を映した青い目も磁器人形のような肌も、なにかわたくしの世界を侵すもののように思えました。脈が速まり、息が苦しくなりました。それなのに目が離せず、逃げ出すことも出来なかった。やがて見られていることに気づいたのでしょう。微動だにしないわたくしに彼は異国の言葉でなにごとか話しかけましたが、当然わたくしには理解することが出来ませんでした。
涙も拭かずに怯えるわたくしを、彼は自分が泣かせてしまったと思ったのでしょうね。こちらへ歩み寄って、また何事か言いました。けれどわたくしは首を振って後ずさりました──当然です、言葉の通じる者ですら怖れていたのですから。
青い目の男の子はいよいよ困った顔をしました。向こうからすれば知らない女の子がいきなり現れて、しかも泣いているのです。戸惑いもするでしょうね。彼はしばらく思案し、それから何か思いついたようにぱちんと指を鳴らしました。彼は吊りズボンのポケットから何かを取り出し、わたくしの手にそっとそれを握らせました。見ると、舶来もののチョコレートでした。
最初わたくしは首を振りました。施しをされる覚えはなかったからです。それより何より、一刻も早く逃げ出してしまいたかった。けれどあちらもなかなか突き返されたものを受け取ろうとはしません。チョコレートの押し付け合いになり、そのうち業を煮やしたのか、男の子は乱暴に銀紙を剥いて中身をわたくしの口に押し込みました。いきなりの出来事にびっくりして、わたくしは目をぱちぱちさせました。
味、ですか? 今ほど洗練されたものではありません。もっと粉っぽくて苦味があって──けれど、とても甘かった。何度か口にしたことはありましたが、その時食べたチョコレートは他の何よりも美味でした。もちろん、印象の強さが手伝ってはいるのでしょうけど。
驚いて泣き止んだわたくしにもう二、三のチョコレートを押しつけ、男の子はぐしゃぐしゃと頭を掻きました。照れたようなその様子をわたくしはぼうっと見つめていたのですが、ちょうどその時カラスが鳴いて──ようやく我に帰ったわたくしは、潮の香りが濃いその場所から一目散に逃げ出しました。
次の日、わたくしはびくびくしながら歩道へ行きました。またあの子に会ったらどうしようという気持ちと、昨日のお礼をしなければいけないという子どもらしい義務感でいっぱいでした。幸か不幸か、赤毛の男の子はそこにいました。前の日と変わらない様子で、海の向こうを見つめていました。その姿を見てわたくしは、何故か同情のような気持ちを覚えました。
「ねえ」
気づけば声をかけていました。男の子は驚いた顔で振り向き、ずいぶん親しげに手を振りました。その馴れ馴れしいしぐさにいつもの怯えや恐れる気持ちが起こらないでもなかったのですが、わたくしは懸命に声を搾り出しました。
「あのね、これはね、昨日のお返しなの」
わたくしが差し出したのは、お気に入りだったセルロイドのブローチです。男の子にとって、そう嬉しい物ではなかったでしょう。けれども意図を理解したらしく、彼は大人しくそれを受け取るとしげしげと眺め、笑顔で何か言いました。異国語に明るくなくても、彼がありがとうと言ったことくらいは分かります。そうして初めてわたくしは笑いました。男の子はちょっと面食らった顔をして、にやっと笑いました。たぶん、互いにとって初めてのお友達でした。
その日から、わたくしたちは一緒に遊ぶようになりました。日がな一日、身振り手振りで苦心しながら意思の疎通を図ったこともあります。舶来ものの店頭をふたりで覗き込んだこともあります。ふたりして迷子になって、日暮れ時に慌てたこともあります。遊びに行くとき彼は必ずチョコレートを持ってきて、ふたりで仲良く半分こにしました。
お互い言葉は通じなかったけれど、本当に楽しかった。
彼と遊ぶようになってから、わたくしの性格は徐々に明るくなりました。まだ他の子と遊ぶことは少なかったけれど、ずいぶん他人と話すことが出来るようになりました。おそらく顔の色も違ってきたのでしょう。ある日、遊びに行こうとするわたくしに母が首をかしげて尋ねました。
「最近よく出かけるのね」
「お友達が出来たの。異人さんの、とても綺麗な子」
「あらまあ」
あっさりとしたわたくしの答えに母は感極まったようでしたが、反面父はあまりいい顔をしませんでした。今にして思えば、その後のことを考えていたのでしょうね。
ご予想がつくかもしれません。そうです、二度目の世界大戦の足音が近づいてきていたのです。日を追うごとに対日情勢は悪化し、国内の外国人たちは姿を消していきました。わたくしは子どもながらに不穏な匂いを感じてはいましたが、まさか自分に関わりはないであろうと、そう思っていました。
けれど、そうはならなかった。とうとう父から「異人の子と慣れ合うな」と言い渡されたのです。向い合って正座をさせられたまま、わたくしはきりきりと掌を握りしめていました。ただでさえ親の言うことに絶対の力があった時代です。面と向かった反抗は出来ませんでしたが、わたくしは悲しくて悔しくてたまりませんでした。
どうして大人たちの都合で、子ども同士が引き裂かれなくてはいけないのでしょう。どうして時代は、友達を奪おうとするのでしょう。
つらくてやるせなくて、わたくしはいつかと同じように泣きながら通りを歩きました。彼はいつも通りにレンガ道で待っていて、わたくしが現れると笑顔で手を振ってくれました。その姿が目に入った瞬間、わたくしは耐え切れず地面に膝をつきました。もうそれ以上がないほど、彼のことが慕わしかったのです。おろおろする彼に、わたくしは滲んだ声でもう会えないのだと打ち明けました。ずっと一緒にいたいのに、離れたくないのに、もう会ってはいけないのだと。
涙声と途切れ途切れの言葉とで、彼はきっと何を言っているのかわからないだろう。わたくしはそう思い、もう一度言い直そうと顔をあげました。
すると彼は唐突にわたくしを抱き寄せ、ふっくらと整った唇をわたくしの口元に重ねました。ほんの一瞬の出来事でしたが、わたくしは頭が真っ白になりました。何をされたのかすら、ほとんどわかりませんでした。すぐに離れた彼は唇を強く噛み、今にも泣き出しそうな顔をしていました。彼はほんのわずか俯くとわたくしに背を向けて──そのまま走って行ってしまいました。
わたくしに、彼を追いかけることは出来ませんでした。
一度だけ、両親の目を盗んであの場所に行ったことがあります。けれど彼はいませんでした。レンガの敷かれた道にただ海風だけが吹いていて、まるで知らない場所のようだった。街中で彼を見かけることすら、もうありませんでした。
それから数ヶ月の後でしょうか。あの戦争が始まり、国中がぼろぼろになりました。わたくしは家族で田舎へ移ることになり、あの男の子と出会う機会は完全に失われてしまいました。
後はご想像にお任せします。ここまで来るのに色んなことがありました、とだけ。
あら、もうこんな時間。ずいぶんと長い話になってしまいましたね、年甲斐もない。そろそろ──まあまあ、そんな顔をなさらないで。これは別に悲しいお話ではないのですよ。年寄りの下手な話ですから、誤解させてしまいましたね。
……ふふ、主人はね、赤い巻き毛と青い目をしているのです。もうすぐ帰ってきますから、ぜひ会って行ってくださいな。