第八話 皇女の憂鬱/異変
クリスタリア皇国魔法学園。この皇国における最高学府には、主に貴族の子女、一般試験を通過した生徒、そして皇帝の子女も籍を置いている。
第七皇女という地位にあるエルシェリアス・ジル・クリスタリアは、学園においては皇女であるとは知られていない。彼女は一人の生徒――それも、極めて目立たない一人として、『銅級』の学級に籍を置いていた。
魔力と血統に優れた生徒は金、次点の生徒は銀、そうでない生徒は銅。皇女であるエルシェリアスが銅級にいるのは、彼女の境遇の危うさを示していた。
「あの子、いつも実技の授業に出ないでどこで遊んでいるのかしらね」
「さあ……『特別扱い』だから、何をしていても卒業できるんでしょ?」
エルシェリアスは学園の廊下で他の生徒たちとすれ違い、後ろ指を指される。それにも慣れている彼女は表情一つ変えず歩いていく。
銀色の髪を二つに結び、その髪色が目立たないように帽子を被り、さらにレンズの厚い眼鏡をかけている。目立たないようにと努めているが、それでも目をつけられてしまう。
「あっ……エルシェ様、そろそろいらっしゃる頃かと……ああっ、置いて行かないでくださいっ」
エルシェリアスは横に並んできた女子生徒に目配せをする。それで意図は通じて、二人は連れ立ってある場所に向かう――校舎の外にある書庫である。
日陰の道を歩いて書庫にたどり着くと、エルシェリアスは持っていた鍵で扉を開けて入っていく。薄暗い室内にはカーテンの隙間から光が差し込んでいて、立ち並ぶ書架の間をずかずかと歩いていき、読書机の椅子を引いて座る。
「はぁ……こうやって大人しくしているのもそろそろ辛くなってきたな。学園に通う理由などないと、なぜ父は理解しないのか……」
「っ……い、いけませんエルシェ様、皇帝陛下のことをそのように……っ」
エルシェリアスは足を上げて椅子の端に置き、靴下を脱ぐ。そして仕舞うこともなく放り出すと、机の上に足を置いて、椅子の背もたれに身体を預け、猫のように伸びをした。
「ふぅぅっ……うぅ、身体が凝った。教室の端で座っているだけでも疲れる、授業もそれほど意味がない。私が独学で読んだ本に全て書いてあるんだからな」
「エルシェ様のおっしゃる通りです。エルシェ様が納得して教えを受けられるような、そんな教師の方がいらっしゃると良いですよね」
「……ユナ、君は素直過ぎるな。私がまた我儘を言っているな、と呆れたりはしないのか?」
ユナと呼ばれた女子生徒は放り出された靴下を拾い、几帳面に畳む。そしてエルシェリアスの傍までやってくると、めくれているスカートを直しながら言った。
「姉がそうであるように、私はエルシェ様のことをお慕いしていますから。こうしてお傍でお仕えできるだけで、毎日が嬉しい……ふゃっ」
エルシェリアスは体勢を変えると、笑顔で話すユナの頬を控えめに引っ張る。
「そういう顔をされると毒気を抜かれる。私はいつも、毒で身体を満たしていないといけないんだ」
「私はエルシェ様が本当はお優しいことを知っています……あ、あの、ひゃれれません……」
両方の頬をつままれて困惑しているユナを見て、エルシェリアスは怒ったような顔をしていたが、その表情から力が抜ける。
「……まあ、やっと教室を離れることができたから大目に見よう」
「エルシェ様、今日はどうなさいますか? 夕方まで本を読んでいかれますか? 私は姉に呼ばれているので、一度外すことになります」
「うん、構わないよ。短い時間なら、書庫に鍵をしておけば誰も入ってこれないだろう……元から誰かが侵入して潜んでいたら、話は変わってくるが」
「ひぇぇっ……で、では、書庫の中の見回りをしてきます。エルシェ様をお守りするのが私の務めですので……っ!」
「大丈夫だよ、いくら私でも異変があったら気付くから」
エルシェリアスがそう言っても、ユナは念のためにと書庫の見回りを始める。それを見送ったあと、エルシェリアスは席を立ち、書架から一冊の本を抜いて戻ってきた。
「……ここまで繰り返して読んでいるのに、わからないな。この本を書いたのが誰なのか」
『魔王と英雄が去りし後』。それは、クリスタリア皇国に訪れた『魔王危機』を救った人物の言行を、何者かが書き留めたものだった。
エルシェリアスがこの本を見つけたのは偶然だった。書架の目立たない場所に差し込まれていて、他の本とは装丁が異なることで関心を惹かれた――手書きの本であり、ページの間には血の痕のようなものが残っている。
「殿下、その本をずっと読んでいらっしゃいますね……私はちょっと怖いな、って思っちゃいますけど」
見回りから戻ってきたユナが、息を整えながら言う。エルシェリアスは眼鏡の位置を直しながら本をめくり、問題の血痕がある箇所を開く。
「そうだな……いわくつきの品というようには見えるけれど。皇国の記録を調べられたわけではないからはっきりしたことは言えないが、英雄のことを知ることができるのはこの本しかないんだ」
「『魔王危機』は十年前に鎮圧されたんですよね。私も姉もまだ小さかったので、詳しいことは分からないんですが」
「私も同じだよ。だからこそ、この本の真偽が気になっている……いや、もし作り話なんだとしても、純粋に面白いんだ。ここに出てくる英雄の人となりが、とても変わっていて」
エルシェリアスの横顔を見ながら、ユナは頬に手を当て、ほぅと息をつく。
「エルシェ様……それは恋ですか?」
「んっ……けほっ、けほっ。急に何を言うかと思ったら……こんな引きこもりなら、本に出てくる人物に恋をしてもおかしくないと?」
「いえ、素敵なことだと思います。その英雄という方のことをお話になるエルシェ様は、なんというか……きらきらとしていて……」
恍惚とした様子のユナを前にして、エルシェリアスは机に頬杖をつき、ため息をつく――しかし、彼女は笑っていた。
「……恋というのは正しくない。私にとってのただの憧れだよ」
「憧れ……ですか?」
「さて、私は引きこもりなりにやっておくことがあるからね。ユナも自由にしていていいよ」
「かしこまりました。それでは、お茶をお持ちいたしますね」
◆◇◆
数時間後、学園内から出なければならない時間になっても、書庫から一度出ていったユナは戻ってこなかった。
何か用があって、それで遅れているのかもしれない。エルシェリアスはそう判断して、一人で書庫から出ると、正門から出て馬車に乗る。
多くの生徒は寮であったり、貴族であれば帝都の自邸から通学している。皇女であるエルシェリアスは、皇家が所有する別邸で暮らしていた――自邸の周囲のみという、ごく小さな領地まで与えられて。
「ここでいい」
「よろしいのですか、殿下。もう少し近くまで行けますが……」
「いや、いいんだ」
エルシェリアスは自邸から離れた場所で馬車を降り、夕日の中を日傘を差して歩いていく。
元は皇家が使うために作られた屋敷は、今は世話をする人手が足りず、周辺が荒れてしまっている。その中を一人歩いてきたエルシェリアスは、玄関の扉に触れたところで異変に気づいた。
「――第七皇女殿下、お帰りなさいませ」
「っ……!」
エルシェリアスが振り返ると、そこには黒い外套を被った男が立っていた。フードに隠れ、その顔は見えない。
「こんな寂れた屋敷に暮らしていれば、あなたの価値は知られにくくなる。ですが……」
「――光よっ!」
エルシェリアスは右手をかざし、魔法を放つ――簡易詠唱によって放たれた光弾は、黒い外套ごと男を貫いたかに見えた。
「なかなか筋がいいな。だが、所詮は児戯だ」
外套を残して、男はエルシェリアスの背後に移動していた。首筋に突きつけられた冷たい感触に、エルシェリアスは動きを封じられる。
「もう少し魔法を学んでいたら、手こずらされたかもしれん。だが、そうはならなかった」
「……ユナ……!」
黒い外套を身につけた人物がさらに二人現れる――そのうち一人は、気を失ったユナを抱えている。
「抵抗すればこの娘を殺す。周辺には結界を張らせてもらった……お前の愚かな配下たちは今頃、こちらの陽動にかかったことに気づいただろう」
「……貴様……ぐっ……!」
恭しい態度は最初だけで、男は獣のように瞳をぎらつかせ、エルシェリアスの胸ぐらを掴み、吊り上げる。
「はな……せっ……けだものが……っ!」
「そうだ……そうでなくてはならない。お前のような血を持つ人間から見れば、私たちは獣でしかない。だからこそだ……っ!」
男は掴み上げたエルシェリアスを投げ飛ばす。細い体躯を壁に叩きつけられ、苦鳴が上がる。
「あっ……ぐ……」
「心配せずとも殺しはしない。我々に協力してもらうことになるがな」
「……協力など、するものか」
エルシェリアスの瞳に決意が宿る。しかし男はそれを察していた――舌を噛もうとしたエルシェリアスの口を手で塞ぐ。
「んっ……んんっ……!」
「舌を噛んでも容易には死ねんよ。だが、これ以上傷んでも支障がある」
外套の男の一人が魔法を詠唱する――エルシェリアスは抵抗を試みるが、抗いきれずに朦朧に陥る。
「連れていけ。他に屋敷に残っていた者、そして戻ってきた兵も――」
男は途中で言葉を飲み込む。動くことができない――本能的な感覚が、訴えかけている。
屋敷の門を通って、誰かが歩いてくる。その腰に帯びた剣の柄に手がかけられ――光が閃く。
「ぐぁっ……」
「うっ……が……」
二人の男がその場に倒れ込む。仲間を倒され、エルシェリアスを連れ去ろうとしていた男の頬に汗が伝う――だが、その頬が釣り上がる。
「魔法を使ったか……なかなかの使い手のようだが。それで私に……」
「それで終わりでいいのか?」
「……は?」
言葉を遮られた男が怒りに顔を歪める。それを見ていた黒髪の少年――アトルは、感情のない瞳で言葉を続けた。
「言いたいことはそれだけかと言ったんだ」
「――ほざくな小僧ォォッ!!」
男が火炎の魔法を放つと。アトルは剣を逆手に構えて腰を落とし、爆発的に加速する――火炎弾はアトルが残した残像をすり抜けていく。
エルシェリアスは気を失う前に、おぼろげな視界で、駆け抜けてくるアトルの姿を見ていた。




