第二十八話 湯煙の遭遇
「……失礼いたします」
シュタルトさんの声が聞こえて、水音がする――湯気ではっきり見えないが、彼は少し離れたところから入ったようだ。
「シュタルトさん、湯加減はどうですか?」
「そうですね……丁度良いと思いますが。できれば、あとで水の方にも浸かりたいところです」
「お湯のあとに水ですか……それは気持ち良さそうですが、身体がびっくりしないように、少しずつ慣らしてから入った方がいいですね」
「はい、気をつけます。ふぅ……」
こういった弛緩した様子のシュタルトさんの声を聞くと――何と言うか、艷やかに聞こえる。
そんなことを考えていたら変な奴だと思われてしまうが、リベールでシュタルトさんに魔力を送ったときにも感じてはいたことだ。
「……アトル殿、ありがとうございます。もちろん調査の延長ではあるのですが、休日にこうしてゆっくりとした時間を過ごせるというのは、喜ばしいことですね」
「本当にそうですね。俺も疲れるほどのことはまだしていませんが、こういう時間は大事だと思います」
「アトル殿に学園に行っていただくのは明日からになりますので、英気を養っておいてください。初日だけ私も同行いたしますので」
「え……シュタルトさんもですか?」
「私は騎士の訓練校に所属していましたが、殿下が魔法学園に通われる際に、叙勲を受けて騎士となりました。ですが、学生としての籍が訓練校に残っていて、それを魔法学園に移す手続きをしていたのです。私の務めは殿下をお守りすることですから、あくまで形式的なものだと考えていたのですが……」
「なるほど……てっきり俺は、シュタルトさんはもっと年上なのかと……」
顔が見えないので声を聞いて思っただけだが、シュタルトさんは笑ったようだった。
「部下の中には年上の方もいて、敬語を使われるのが申し訳ないと思うこともあります。ファナは私と同い年なのですが」
「兵学校は卒業が早いっていうことですか?」
「そうなります。騎士は魔法と騎馬、部隊指揮などを学ぶので、訓練校で過ごす期間は長くなります。私は叙勲を受ける資格を早く満たせましたが……」
「ということは……飛び級で卒業して、さらに魔法学園で学ぶということですか。凄いな……」
「い、いえ……そのようなことは。騎士の務めを優先できるように交渉していますので、学生としての活動は適度にやっていくつもりです。剣と魔法については、アトル殿にご指導いただくのが理想的であると思いますし……」
「そう言ってもらえるのは光栄ですが……シュタルトさんも同じ学園に通うというのは、何か安心します。学園内に知り合いがいるのかそうでないかで、かなり違ってきますから」
しばらくシュタルトさんから返事が返ってこない――何か変なことを言っただろうか、と思っていると。
「……アトル殿、少し外してもよろしいでしょうか。身体を冷まそうと思います」
「っ……大丈夫ですか?」
「も、問題ありません……のぼせたというほどでもありませんので……」
ザバッ、と水音が聞こえる――シュタルトさんは熱い湯から出て、もう一つの水場に向かったようだ。
『……アトル様、今のうちに少々よろしいですか?』
すぐ横から顔を出してきたのはトオハだった――どうやら俺たちの様子を見ていたらしい。
(トオハ、殿下たちと一緒にいたんじゃなかったんだな)
『はい……できれば、アトル様と近いところで浸かりたいと思いまして』
(え……?)
トオハは手を出してくる――どうやら湯に浸かる前に洗ってほしいということらしい。前足と後ろ足を順に洗うと、今度はお湯をかけるように頼んでくる。
湯をかけると、トオハはぶるぶると身体を振って水気を飛ばし、そのあとで湯に入ってくる。
『っ……少し熱いですが、良い湯加減ですね』
(気に入ったのなら良かった。ゆっくり浸かるといい)
『はい……アトル様、申し訳ありません。シュタルト様のご様子も気がかりかと思いますが』
水面から頭だけ出して、トオハはこちらを見ている――落ち着いた口調ではあるが、いつもは少し鋭い印象のある狼の瞳が、今はなんとも愛嬌がある。
『……アトル様は、他の皆さんに魔力を移すということをされていましたね』
(ああ、体力を回復させたり、魔力そのものを送ったりってことはしてる)
『そのようなことができるのは、卓越した魔力制御によるものと思いますが……不躾なお願いとは承知しておりますが、私にも同じことをしていただけないでしょうか』
(え……それは、魔力を送るってことか? それとも体力を回復させたいのか?)
『どちらかというと、魔力の方が良いかと……いえ、アトル様がよろしければなのですが』
(ああ、いいぞ)
『っ……全く躊躇なさらないのですね。急なことを言い出したと怪しんだりは……』
自分で言っておいて、急にトオハが慌てている――声もそうだが、狼といえどなんとなくその様子から感情が読み取れる。
俺は魔力球を手のひらの上に作り出すと、青白い色に変化させる。そして、トオハの背中の方から送り込んだ。
『こ、こんな……魔力を他者に送り込んで、拒絶が起こらないなんて……』
(俺の感覚では、そんなに難しいことじゃないんだが……)
記憶がない間の俺は、こうして他者に魔力を送り込むことを幾度もやっていたんじゃないだろうか。それで練度が上がり、身体がやり方を覚えている――ということだと思う。
『……やはりここに来たのは正しかったようですね。自然に任せていたら、もっとずっと時間がかかっていたでしょうから』
(……トオハ?)
湯の中にトオハが沈む――そして、次に浮かび上がってきたときには。
ざぱっ、と飛沫を上げて目の前に立ち上がったのは、白い狼――ではなく、その面影を狼の耳などの一部にだけ残した、獣人種族の女性だった。
「……よもや一度で人化に足りる魔力をいただけるとは思わず……説明が遅れてしまいました。これが私たちフェルリスの、もう一つの姿です」
「そ、そうなのか……人の姿に変われるというのは聞いてたが……」
何を悠長に話しているのかと思うが、今さら慌てふためくというのも違う――だが、頭の中は混乱を極めている。
狼の姿から人の姿に変わると、どうなるか。当然服を着ていない、一糸まとわぬ姿ということになる。
「……もう少し時間があるようですね」
シュタルトさんの様子を見やったあと、トオハは俺の隣で湯に浸かる。そして、胸を手で覆う――全く隠さないのかと思ったが、そうでもないようだ。
「こうして力を取り戻せた今、私も護衛の一人として、エルシェリアス様をお守りできればと思っています。アトル様に、一度私の力を試していただければとは思いますが」
「ああ、ぜひ手合わせさせてくれ」
「……『手合わせ』ならば、別の形でさせていただきましたね」
そう言って、トオハは手をこちらに伸ばしてくる――人化した状態でも爪は鋭いが、しなやかな手をしている。
「フェルリスにとって、他者に手を預けるという行為が何を意味しているか……アトル様は、ご存知ですか?」
「手を預ける……握手と同じような意味だと思ってたが……」
「……改めて、自分で申し上げるのは少し恥ずかしいですが。あれは『信頼』……場合によっては、『臣従』を意味するのです」
「そ、そうなのか? 俺はてっきり……」
トオハが手を軽く握り、こちらに差し出してくる。何を求められているのか――俺は上手く回らなくなってきた頭で、右の手のひらを上に向けて差し出す。
「私はエルシェリアス様に庇護していただいていますが……アトル様は、私を助けてくださいました。盗賊に襲われたとき、そして今日この場でも」
トオハは俺の手に自分の手を置き、微笑みかけてくる――なぜ、ここまで好意を向けてくるのか。その理由は今話してくれた通りなのだろうが、それほどのことをしたつもりもない。
「……この姿に戻れたとき、アトル様に何をお伝えしようか、ちゃんと考えていたのですが。嬉しくて、全部どこかに行ってしまいました」
そう言って、さらにトオハはこちらに身を乗り出してくる。白い髪が垂れていなければ、何も遮るものがない――トオハの目を見たまま、俺はどれほども後ろに下がれず追いつめられる。
なぜここまで積極的なのか。少し落ち着いた方がいい――というのも、ただの逃げでしかなく。
「アトル様……そのまま、どうかお静かに……」
「――アトル、そちらはどうだ? のぼせたりはしていないか?」
殿下の声が聞こえ、トオハの狼の耳がピンと立って反応する――そして、殿下たちのいる方から、こちらに向かってくる水音がする。
状況を察知するやいなや、トオハは再び湯の中に沈む――そして浮かんできたときには、狼の姿に戻っていた。
「エルシェ様、こちらは大丈夫です。シュタルトさんが少しのぼせ気味でしたが、今は水の池のほうで身体を冷ましているかと……っ」
「む……そ、そうか。湯気がすごいから見えないが、アトルはそこにいるんだな?」
「はい、ここにおります。ですので、確認する必要は……」
「だ、駄目ですエルシェ様っ、それ以上進んだらアトル様から……っ、きゃぁっ!!」
反応することはできたはずだった――しかし、状況が状況であるだけに、判断が一瞬遅れた。
「っ……ユナ、そんなに慌てなくても……」
「す、すみませんエルシェ様……はれ?」
おそらく『あれ?』と言いたかったのだろうが――転びかけたユナをエルシェ様が支えているが、二人がいる場所は俺から見える範囲に入ってしまっている。
風呂に浸かるときは服は着ない。この状況で、湯煙という目隠しもなければどうなるか――。
「っ……ア、アトル……」
「……凄い……どんなふうに鍛えたらこんなになるんですか……?」
お互いに見えていると分かれば、二人はすぐに距離を取ってくれる――そんな予想も意味を成さない。二人は顔を覆いながらも、しっかりとこちらを見ている。
「ちょっと、そんなに近づいちゃったら見えちゃうから……っ、あぁっ……!」
「……アトル殿の鍛錬の仕上がりぶりには、やはり見習うべきところがある。私も頑張っているのに、あれほどにはどうしてもならないからな」
「ラティ、マキアさん、いったい何を……見て……」
ファナさんには一度見られているが、彼女も妹のユナと同じように、顔を覆いつつ見てくる――その姿勢では身体をしっかり隠せていない。
「本当に同じ人間っすか? あの仕上がり方……筋肉ってあんなになるっすね、負けてられないっす」
「あれでただの村人って名乗ってたって、そんな村人はいません! ってなるよねー」
「狼さん、そっちの方にいたんですね~。のぼせないように気をつけないとですよ~」
「私なんかが見ちゃってすみません、私なんかが同じお湯に浸かってすみません」
さらに他の兵の皆までやってくる――全員が全員、顔を覆いつつもしっかり見ているのはどういうわけなのか。
「……バウッ」
「ああっ、狼さんが威嚇を……アトル様を守ろうとしているんですね。失礼しました~っ」
「そ、そうだよね、こんなに大勢で来たらアトル様も困るよね。ほら、戻るよみんな」
「ラティはこういうときは真面目なのだな……アトル殿、失礼いたしました」
「お前たち、あんなにしっかり見ておいて私たちを置いていくな……っ」
「そ、それではまた……シュタルト様にもよろしくお伝えくださいっ」
ラティさんの呼びかけで皆が引き上げていく――エルシェ様とユナも。後ろから見ているとまずいことになると気づき、そのまま俺は天井の方向を仰ぎ見る。
「ただいま戻りました……アトル殿、かなり赤くなられていますよ。一度冷まされてはいかがです?」
「は、はい。ありがとうございます、シュ……」
振り返って、俺は一瞬固まる――そんな必要はないはずなのだが。
冷水で身体を冷ましてきたシュタルトさんは、のぼせが引いたようでそれは良かったのだが、腰には布を巻き、上半身にはサラシが巻いたままになっている。
「……失礼いたしました、アトル殿には少々の熱さなどは通じないのですね」
「そ、そういうわけでもないですが……」
温泉に入るときはサラシを外すものではないだろうか――しかしそれは俺の感覚であって、人によって違うのかもしれない。
「俺もちょっと頭を冷やしてきます。どれくらいの冷たさでした?」
「心臓の遠くから水をかけて慣らすことをお勧めします。ですが、熱さと冷たさを交互に味わうのは良いですね……雑念が消えると言いましょうか」
修行のような話になっているが、シュタルトさんらしい感想ではある。彼と入れ替わりで湯から上がると、トオハも上がってついてきた。
『私が人化できるようになったということは、のちほど皆様にお伝えいたします』
(ああ……そうだな。トオハはのぼせてないか?)
『……先ほどのことは、のぼせていたからというわけではありませんので』
(え……)
『少しその辺りを歩いてまいりますね』
トオハは身体を振って水を飛ばすと、どこかに向かって歩いていく――こうして見ると歩くには適さないほどゴツゴツとしているので、今後も温泉に入りに来るなら整地した方がいいだろうか。
整地というと、リベールで畑を耕していたときのことを思い出す。シスナさんは元気にしているだろうか――と考えたところで、何かが引っかかる。
「っ……なかなか冷たいな」
澄んだ冷水に手をつけ、少しすくって身体にかける。これをシュタルトさんは浴びたのか――俺も負けてはいられないが、なかなか覚悟が必要そうだ。
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