第十六話 月下の練習
夕食が終わったあと、入浴まで自由にしているようにと言われたのでいったん自室に戻った――さっきは切り出せなかったが、殿下と話をしなくてはならない。リンダとの模擬戦に向けての話だ。
しかし俺がそういった事情を知っているとなると、どこで聞いたのかという話になり――密偵で得た情報を明かすわけにもいかないので、殿下の信頼を落としてしまう。
どうしたものかと思っていると、部屋のドアがノックされた。
「はい、今開けます」
ドアを開けると、そこに立っていたのはユナだった。制服から着替えていて、今はなぜかメイドと同じ服装に変わっている。
「こ、こんばんは……っ、あの、夜分に失礼いたしますが、少しお話がっ……」
「話?」
「は、はいっ、で、殿下のお話で……エルシェ様をお風呂に呼びに上がったんですが、まだ入らないとおっしゃって……」
「……風呂?」
入浴の時間を遅らせたいとか、そういう気分の時もあるだろう。それを俺に伝えにくる意味が――と考えたところで、なんとなく事情を察した。
「さきほどこっそりと様子を見させていただいたら、運動用の服に着替えていらっしゃるんです。今から外に出るおつもりのようで……これは、由々しき事態です」
「由々しき……確かに、夜の外出は危ないな。でもこっそりって、声はかけなかったのか?」
「は、はい、私の目があると困るというような、そんなふうでしたので、一度お部屋を出てからこっそりと……ち、違います、覗いたとかではなくてですねっ」
「大丈夫、分かってるよ。俺は殿下に危険が及ばないようにすればいいかな」
「すみません、どうかよろしくお願いいたします。言い出した私がついていくべきだとは分かっていますが、私もその……夜に外に出るのは怖くて」
「暗いのは誰でも苦手だからな。まあ……ユナ、俺はユナより後に入ってきた新入りだから、そんなに緊張しなくてもいい」
「い、いえっ……姉からおうかがいしました、アトル様は朝の訓練で、みごとに皆さんの信頼を得たと……アトル様と一緒だと、訓練のあとでも全然疲れなくて、むしろ元気になると言っていて、私もそれならぜひお願いしたいなとっ……!」
ユナは話しているうちに勢いがついてきて、こちらに迫ってくる――今まで気にしていなかったが、大きくせり出した胸が俺の間合いの内側に入ってきている。
「あっ……す、すみません、私、一人でいっぱい話してしまって……エルシェ様にも言われるんです、ユナは猪突猛進なところがあると」
「それは悪いことではないと思うけど……俺も一応男だからな。あまり近づきすぎると危ないというか」
「そ、そんなことは……私はアトル様に助けていただいた身ですから、アトル様が危ないとおっしゃっても、怖がったりなんてしません。こうしてお話できているだけでも、嬉しいというだけなのでっ……!」
あまりそういう意識を持つのはどうかと思ったが――やたらと懐かれている、そう認めざるを得ない。
「ま、まあ……何と言うか、肩の力を抜いて話せる相手ができるのは、俺も嬉しいというか。とにかく事情はわかった、殿下のことは俺が見ていることにするよ」
「は、はい。でも、ずっと見ているのは何かあったときに、その……お互いに気まずくなってしまうかなと思うので、必要に応じて見たり見なかったりしてください」
「ははは……」
思ったことをほぼ全部言うんだなと思いつつ、ユナとの話を終える。今気付いたが、他の部屋のドアが少しだけ開いている。
誰か聞いていたのではと思うが、特に誤解されることは話していないはずなので、今は気にしないでおく。同じ館に住んでいる人たちがいることを忘れてはいけない。
◆◇◆
殿下は運動用らしい服に着替え、お下げと眼鏡はそのままに、そろそろと館の裏口から外に出ていく。
そして向かう先は、近くにある小高い丘――周りに誰もいないことを確認してから、彼女は小型の杖を取り出す。
「――『光よ』!」
詠唱としては最も簡単なもの――授業では明かりを照らすためのものとして紹介されていた。
それは戦闘において相手を攻撃する手段というよりは、目眩ましをする目的で使うようなものだった。
模擬戦に向けての練習ならば、その魔法だけでは難しい。そう思って見ていると、殿下は持ってきた教本を開く――他の魔法も準備してきているようだ。
「……光よ、我を守る壁となれ……っ、『光の壁』!」
次の魔法はより高度なもので、防御呪文だ。しかし発動するまでに時間がかかっている――防御力も十分ではない。
(……魔力が少ないわけじゃない、俺が魔力を持っていかれるくらいに器は大きかった。だが、出力がうまく行っていないんだ)
「駄目……これじゃ試合には使えない。もっと速くできないと……」
殿下自身も、自分の魔法に対して厳しい評価を下している。しかし彼女は諦めることなく、もう一度杖を構えた。
「光よ、我を守る壁となれ。『光の壁』!」
殿下は壁を展開する魔法を、繰り返して練習している。上手くいかずとも、何度でも反復する。
なぜ、試合で必要になるような攻撃魔法を練習しないのか。そんな考えは過ぎるが、殿下はさらに別の魔法の練習を始める。
「――光よ、舞い煌めき、敵を撹乱せよ。『幻光舞』!」
杖を振り抜くと、光が不規則に煌めきを放つ――それも、攻撃魔法とは言えないものだ。
殿下はそれからも、攻撃魔法を練習しようとはしない。繰り返し、防御と補助の魔法を練習し続けている。
これほどに優しい魔法の使い手がいる。シスナさんも回復魔法が得意で、攻撃が苦手と言っていたが――『模擬戦』という形式において、攻撃魔法を使うなというルールはおそらく無いはずだ。
相手を攻撃せずに勝つ。それがどれだけ難しくても、殿下はそれをやってみせようとしている。
「……もっと速く……それができたとしても、勝てないのかな」
彼女自身が分かっている。けれど、ここで魔法の練習をしているのは、模擬戦に備えるためで――それならば、意識自体を変える以外にはない。
「……殿下、こちらにいらっしゃいましたか」
「っ……ア、アトル……?」
声をかけると、殿下が驚いてこちらを見る――辺りは月光に照らされていて、彼女の銀色の髪が淡く輝いて見える。
「な、なんだ……私を笑いに来たのか。それとも、ユナに何か聞いたのか?」
「いえ、殿下が外に出たとだけ。魔法の練習をされていたんですね」
「……情けないだろう、魔法学園に入ってもう二ヶ月経つのに、私の魔法はそれほど進歩していない。こんな人間が、君に対して偉そうに振る舞って……愚かな主だと笑ってくれていい」
「そんなことは決して思いません。何かのために努力する人間を、笑っていいはずがない」
「っ……」
彼女は自分の魔法に自信を持てていない。しかしそれは、誰かに教えてもらうことのできなかった部分で行き詰まっているだけだ――俺にはそう思える。
「……アトル、君は私よりはるかに上の魔法の使い手なんだろう。私の魔法を見ていたのなら、どう思った?」
「魔法が発動するまでにかかる時間が、実戦で使うには遅い……そう感じましたが。詠唱自体はとても美しく、術式の展開は上手くできています」
「そ、そうなのか……けれど、おためごかしはいらない。詠唱が美しいなんて、そんなことは……」
「それは俺の素直な感想です。詠唱に際して発声も影響しますが、ささやくような唱え方でもよく聞き取れましたし、何より心地の良い波長の声でした」
「は、波長……普通に聞いてそんなものが分かるのか?」
「分かります。耳を澄ませば、音にも色々な形があると分かるものですよ」
殿下はさらに何か言おうとするが――どうやら俺の話を聞いてくれる気になったのか、こちらに近づいてくる。
「……さっきは見られていると知らなかったから、次は近くで見ていてもらう。魔法のことを、君が教えてくれるんだろう?」
「っ……は、はい。僭越ながら、そのつもりで……」
俺の反応を見て殿下は満足そうにする――してやったり、という顔をしている。
彼女は自覚があるのかどうなのか。できるだけ存在感を出さないようにしても干渉されてしまうのは、その容姿が人並み外れて整っていることの表れでもある――今のような装いでさえ、間近で見せられれば否応なく気づかされる。
「……あっ……す、すまない。眼鏡はつけているが、それでも近くしか見えないんだ」
「な、なるほど……殿下、それについてもこちらから助言できることがあります」
「それも気にはなるが、まず君に教えてもらわなければ。アトル、私が……学園で誰かと魔法の試合をするとして。そして、勝たなければならないとして……足りないものがあれば、教えてほしい」
「かしこまりました。では、もう一度魔法を使ってみてください」
殿下は杖を構える。今度は、彼女の身体において魔力がどう動いているかに着目する――そうすることで、問題の実像が見えてくるはずだ。




