第二十六話 ご褒美の夜
出発前日の夜だった。扉がノックされ、開くとイライザが私服で立っていた。
どうしたんだ、こんな夜に……とケルヒャーは彼女の顔を見ると頬が赤くなっている。とりあえずなかへ通した。
暖炉の炎を前にして、イライザの視線はぎこちなく彷徨う。困ったような眉の下がり方をしている。
「あのね……」
これって。まさか、えっちな展開か? ケルヒャーは拳を握った。ごくりと喉を鳴らした。思考が早くなって、つい口走ってしまった。
「イライザ。俺、君のことをそんなふうには見てない……!」
とイライザが隣を過ぎ去り、ソファに座った。
「――は?」
唖然としているケルヒャーを余所にイライザが膝をぽんぽんしている。
「なに勘違いしてるの? こぉこ」
なにを促されているのか、ケルヒャーはイライザのとなりにとりあえず腰掛けた。
これから何をされるのか。
「膝枕ってこと。わかったかしら」
「あー、そっか。そっか……」
下心も期待も吹っ飛んだ。ケルヒャーはイライザに応じて、イライザの太ももに頭を預けた。えっちな気持ちはないが、どきどきしてくる。ケルヒャーは赤面する。(なにもない、なにもない……)
イライザがさらさらと髪を撫でた。
「どうしたんだ? きょうは、その……」
ケルヒャーはもじもじしてしまう。どうしてだろ。
「ずっと働きづめでしょ? お姉さんが君を癒やしてあげよう」
――と思って♪ とイライザが微笑んだ。ケルヒャーは構わず、前だけを見た。木組みの壁を見よう。
「ほ、ほんとうは何か企んでいるじゃないか? 欲しいものがあるとか……」
「へー、そんな酷いこと言うんだ。お姉さん悲しい」
イライザが顔を手で覆った。ますますよくわからない。
「ノーヴェンバーに聞いたの。殿方を喜ばせるにはどうしたらいいか、ね」
あいつの仕業か。今度たっぷり叱ってやる。ケルヒャーは一人決心した。つぅ――、耳に固いものが入った。え?
「あれ……? 痛かった? 今度は気を付けるね」
耳かきされている。ケルヒャーの目は大きく開いた。
「あ、喋らないでね。顎がモグモグすると耳元が動いちゃうから……」
(――わかった)
頷くことも出来ずに無言で返事をした。すると静かになった。
でもこの状況に慣れていない。
「言ったでしょ。君はがんばった。えらい、えらいよ」
包み込まれるような優しい声だ。普段の彼女ではないみたいだった。
思えば、これまで怒濤の勢いで色々なことがあった。
耳かきをかりかりされている。途中くすぐったいところが何度もあって声が出そうになった。
イライザがそれに気づいて、くすりと微笑んだ。
「声。我慢しなくていいんだからね?」
「我慢なんて……あっ……」
「ふふ。私に嘘はつけないわよ」
耳かきが奥に入っていく。かりかりと薄い皮膜を剥がすようにされると、眠ってしまいそうな心地になる。温かで柔らかな極上の膝枕に意識を持って行かれそうだ。
ふと、耳に息を吹きかけられる。ぞくっとした感覚が背中を通り過ぎていく。
「あ、ビクってなった」
「驚かせるなよ」
「それじゃ、ここはどうかしら?」
――また気持ちいい。
「耳には迷走神経が通っているっていうけど、これがそうなのかもな……」
ケルヒャーは冷静になろうとして理知的に説明を始めた。
そうこうしていると、イライザがにこにこして言った。
「悪い子だなぁ、君は」
「え……ちょっと待って、待っ……」
反対の耳を無理矢理向けさせられる。いやそれはいい。イライザのお腹のほうに顔が向いている。これはえっちな場面なのでは……。
「続けるわよ。こっちも手強そうだね」
イライザが腕まくりしている。もう、どうにでもなれ。ごくりと唾を飲み込んだ。
まただ。また……。天上の心地とはこのことだ。
「顔がふにゃあってなってる。ふふっ」
「笑うなよ……」
「どうしてそうなっているか、教えてよ」
かりかりと耳かきで探るように触られた。されるがままとはこのことだろう。
イライザが耳元で囁いた。反応してしまう。ぞくっとして、それで――。
「耳。赤くなっているよ。へーき?」
「揶揄うなよ……!」
「それもそっか。じゃあ、仕上げするよ。待ってて」
ケルヒャーはきょとんとして待っていると、イライザがタオルと小さな瓶を持ってきた。あれは確か薬草オイルの――。
膝枕の体勢でふわふわのタオルで耳をマッサージされる。ふだんは意識してこなかったけれど、このタイミングでやられると頬がさらに緩んでしまう。ケルヒャーは恥じらいを見せた。
「それじゃ、これはどうかな?」
イライザがオイルを手に伸ばしている。薫り高いレモンのような香り、現代でいうレモングラスみたいな香りがする。イライザが耳元を触った。
「――あ」
さらりとして、香りのいいオイルに気持ちが安らぐ。
「気持ちいい?」
「ああ。いや、はい……」
居住まいを正したケルヒャーはそのまま耳を優しく揉みほぐされた。
オイルでさするようにマッサージされると日頃の疲れが吹き飛んでいくようだった。
そのまま手が首元に伸びていく。
「……こうして首の裏のほうをさすると、頭痛なんかにも効くのよ」
ぐりぐりと首を押されている。気持ちいい。
頭がすっきりしてきた。これもマッサージの効果なのか。ケルヒャーは目を瞬かせると、イライザの目元を見つめた。
――じゃ、タオルで拭いていくからね。




