第二十一話 【ケイン視点】月明かりの夜
月明かりがケインの部屋を微かに照らす。彼の輪郭が室内で露わになる。どこか幻想めいた姿が浮かび上がる。
――ケインの力は神がかっていた。
ケインには彼も気づいている噂があった。神霊のご加護が働いている、というものだ。
相討ちの場面でも彼だけが生き残り、全滅と言われた作戦でもひとり無事に帰ってくる。それは神がかっているという表現以外見つからない。
ケインは何かに導かれるように、ひとり外へと歩み出した。一歩一歩は確かな足取りだった。彼には朧気な確信があった。闇のむこうに何かが、あるいは何者かがいる感覚だ。
ひっそりとした森のなかへ歩いて行く。風はふしぎと凪いでいる。梟の鳴き声も珍しくしなかった。獣の気配もなく、神聖な夜だった。
ケインはふと何も武器を持ってこなかったことに気づいた。無防備な姿で出てきてしまったことを軽く恥じた。騎士としてあるまじきことだ。しかし、森には気配という気配がなくなり、まるで森には一人だけのような錯覚がケインにはあった。
ふと見上げた木の幹から伸びる枝に、誰かがハープを弾く影が見えた。音色は柔らかく、天上の心地だった。ケインはうっとりとした視線を影に傾けると、影は姿を現した。
純白の透き通る肌、ピンクゴールドのしなやかな髪、すらりと伸びた腕と脚。古の衣装を纏い、神気あふれる姿の女だった。
ケインは呆気に取られた。
「あなたは……」
鋭く伸びた耳に、確信する。エルフの女だ。彼女は幽玄に微笑むと、枝から飛び降りた。
「――ようやく話の分かる奴が来た」
見た目とは裏腹に老婆のような口調でその女は喋った。話? とケインは訝ったが、ゴールドのヴェールが疾風のように動いて、ケインの隣へやってくる。彼はこの動きを知っている。エルフ独特の歩法だ。
「お前はなぜ私が見える? 神気はそれほどだが」
「祖母リーデのそのまた祖母はエルフの出自と伝わっています。私には僅かにエルフの血が流れているからでしょう」
自信はなかった。祖母が語った昔話の一節だ。
「ほう、面白い。リーデと名付けるのは、たしかにエルフの慣習であろう」
「そうなのですね」
「私はアイシア。エルウェイクの森に住まうエルフの頭領だ」
いつの間にか、距離を取られている。ハープの音色が甘く鳴り響いた。
恋のような気分だった。ケインの血が親しみを感じているのだろう。
「――で、お前はどちら側だ?」
そう尋ねられて言い淀む。エルフが見えるということ、そしてこの胸の高鳴り。ケインの心は真っ二つに引き裂かれそうだった。
振り返ればケルヒャーたちのいる暖かな世界が――、前を向けばエルフの血がざわめく世界が――。
「私にそう仰るのですね。残酷なお方だ。私は人間に過ぎません。これからもそうです」
ケインは柔らかに微笑んだ。
「ならば、お前を操るだけだ」
アイシアの視線がケインの視線とぶつかると、アイシアの瞳が紅く光った。見たものを服従させ、従わせる力だろう。ケインはよろめくと、頭を抱えた。強力な洗脳術だ。ケインの息は荒くなる。
ところが――
月光のもと、アイシアの瞳が揺れている。
ケインは手の甲を血が滲むまで囓ったのだ。洗脳術が解けた。
アイシアがケインに近寄ると、暖かな力で彼を癒やした。
「すまない、そこまでするつもりじゃなかった」
ケインは脂汗を額に垂らしている。
痛みが引いていくと、アイシアの瞳をじっと見た。
「相談事があるのでしょう? 私に説明してください」
◆
暖かな日差しが森を照らしている。
静かな森で朝日を浴びているケルヒャーを見いだすと、ケインは声をかけた。
「ラングレイスの旦那さま。おはようございます。きょうはお話があります」
「話って何だ?」
「エルウェイクの森から使者が参ります。私が仲介して、ラングレイスの旦那さまにお伝えしたいことがあるのです」
ケルヒャーは口元をもごもごさせている。ケインは無自覚なケルヒャーの態度を疑っている。
昨日、アイシアから伝えられたこと。ケルヒャーはエルフから森を奪ったという話だ。そんな事実があるのかどうか、はっきりさせたい。
「使者はいつ?」
――もう来ておる。
ケインは声に気づくと、ケルヒャーに伝えた。
「……どうしてケインが仲介することになったか説明してくれ」
――お前の力が悪い。お前の力は私たちの声を覆い隠す。私たちの力とは別次元の力だ。
ぷんぷんとアイシアは怒った。ケインは言った。
「つまり、ラングレイスの旦那さまの力が、エルウェイクの森の使者の力とは相反するために、意思疎通ができないという話でして」
「その、相手というのは……」
「――エルフです」
ケルヒャーが微笑んだ。その真意はよく掴めない。
ピンクゴールドの影がケインの隣で揺らめいているのをケインは見つめる。アイシアは指でケルヒャーの身体を突いたりしている。ケルヒャーは動じず、立ち尽くしているだけだ。
ケルヒャーが腕を組んだ。そして、ケインの言葉を待っている。
――ここから出て行きなさい。人間。




