第二話 無能と誹られた転生者、土地に目をつける。
ケルヒャー自身にはふたつの記憶がある。ひとつは貴族の一人息子ケルヒャー・ラングレイスとしての記憶。もうひとつは田所勝也としての記憶である。
このふたつの記憶がケルヒャー自身にはあり、自身が転生者であるらしいということが分かった。
――と言っても俺ってどうやって死んだっけ?
勝也は大学院生だった。一日中研究の日々だ。毎朝、研究室へ向かうと隈を拵えた同期の研究者である日野がデスクに座っている。無論、おしゃべりなど余計な会話があるはずもなく、黙々と机に向かうのみだった。
来月までの論文提出まで日が無いなか、ほかの論文を隅から隅まで読み漁る。里山の持続可能な町づくり……、山林における昆虫の役割……、林業分野での画期的なソリューション提案……などなどだ。夕方、日野がコーヒーを淹れてくれた。無言で飲み干しているのを黙って見ていた。研究以外の話題を喋ったこともないので、ひたすら沈黙が続く。
「…………」
彼女とは先月に別れた。給料がいい、家庭的な男性と付き合いたいと言っていた。勝也は仕事熱心な男だったが、包容力がないというのが彼女の評価だったのだ。
同期だった鹿島は院をやめてコンサルになったというし。このさき大学院に居続けるのもメリットがないかもしれない。
特に楽しいこともない日々。進路は博士と決めているけれど、そうなれたとしても淡々と無感動な日々が続くだけだろう。研究者を志した頃の、あのなんとも言えないセンス・オブ・ワンダーを取り戻したい。けど無理か。
夜、研究室から近くのコンビニへ弁当を買いに行く帰り、それは起こった――
人気のない通りで黒いパーカー姿の男とすれ違った。熱っ……!
手が焼けるように痛くて目を遣ると、切れていた。コンビニ弁当が足元でぐちゃっと音を立てて落ちていた。
「……なんだよっ! ……これっ?」
パーカーの男が下品な笑いをしながら襲いかかってくる。
――勝也の記憶はそこで途切れた。
ただ気づけば、ここは中世ヨーロッパ風の世界だ。ケルヒャーが閉じ込められていた地下牢獄、そして屋敷、裏手の墓地、どっかで見たことがある。何度もマップで見たことがある。
あれは……
そうだ、「キングダム・オブ・ヘイヴン」の世界だ。中学生のころにやりこんだゲームの世界だ。勉強をそっちのけで1000時間はやりこんだゲームである「キングダム・オブ・ヘイヴン」の世界は隅々まで知ってる。そのころでは最先端の美麗なグラフィックと戦闘システムの迫力。
なんで勝也がこの世界にいるのかは、この際どうでもいい。
起きてみればパッとしない風貌の、貴族の一人息子だった。さらに母親はとにかく厳しく、ケルヒャーを無能と誹るばかり。
勝也自身、実の親に感謝したことはないが、ここまでの差を見せつけられると、親に感謝したいと思う。
キングダム・オブ・ヘイヴンは中央大陸アースプレイスと辺境にあるアイランドプレイス、そして魔界であるデイモンプレイスの三つの土地からなる。基本的にアースプレイスには魔族が支配するダンジョンがそこかしこに存在する。
アイランドプレイスは帆船で移動できるが、低レベルプレイヤーにはその権利がない。しばらくアースプレイスで経験を積み、それからアイランドプレイスに訪れることができる。
デイモンプレイスはアースプレイス、そしてアイランドプレイスで勇者の称号を得たときに初めて攻略することが許される。
こんなところが原作知識ってところだ。
ケルヒャーは莫大な遺産を手に入れられた。それは母親が死んだことによるが、マリウェリスカがどんな母親だったかはケルヒャー自身の記憶を覗けばいい。
彼女は豪放磊落な性格でありながら、妙にケルヒャー自身を無能として扱っていた。彼女自身のプライドの高さもあいまって、ケルヒャーにも辛く当たっていたようだ。あー、しんど……。
ケルヒャー=勝也はこれで自由になった。金も時間もある。これからどう過ごすか? 豪遊して、美女と放蕩の日々を過ごすも良い。屋敷にある金品と人脈で成り上がるのもいいだろう。
何をするにも選り取り見取りだ。
ケルヒャーは顎に指を当てて考えた。これから何にしたって金はいる。ただ金は有限だ。5千万Geとは言え、ふつうに遊んでたらあっという間に無くなるだろう。
頭を過るのは無能と誹られ続けた日々だ。
商才も剣術も政治的手腕もない、ほんとうか? やってみなければ分からないだろう。難しいことはできない。のんびり、やれることをやってみよう。
まずは身なりを整えよう。
ケルヒャーは自身の髪を櫛で梳かし整えた。 汚れたシャツを洗濯する。そしてこざっぱりとした格好になった。
――ゲームをやっていたときは我武者羅に突き進んでいたけれど、こうして体を持って行動していると勇者になる必要もないな……
世界にはいろいろな職業がある。勇者となれば三つの土地を渡り歩く特権が得られるが、それ以外はメリットがなさすぎる。このまま生活する分には特殊技能は反って邪魔ですらある。
食事のナイフに聖剣がいらないように、適度に使えればいい。
そこそこの力しか持たないケルヒャーには勝ち筋のようなものが見えていた。
まずは土地を手に入れるのだ。何でも出来る土地さえあれば、だ。
貴族の領土はあるがこれは狩りをするような場所で、ケルヒャーの求める土地ではない。
ケルヒャーは自室に戻って地図を広げた。ここら一帯の地図だ。エルウェイクの森に目星をつけた。山岳地帯へ続く森はダンジョンもあり、ときどき初級冒険者が訪れる。
うーん、ここか。
そして丸い印をつける。ざっと補助線を引いていく。ケルヒャーにはビジョンが見えていた。
そうして執事のバーリントンに言いつけて屋敷から出た。馬車を手配してもらう。ゆくのは、エルウェイクの森だ。馬車を待っているあいだ、ケルヒャーは屋敷を振り返る。大きな屋敷はいま見るとどこかちっぽけな佇まいだった。
ジャケットに手を突っ込んで、馬車に乗る。赤いシートに腰掛けると馬車が走り出した。(つづく)