第十九話 【ケイン視点】スローライフ法?
キッチンでケインがパンを捏ね終わり、腕で汗を拭っている。ふぅと息をつくと、ウィズが駆け寄ってきて目をきらきら輝かせながら尋ねてくる。
「それで、どうなったんですか……」
下からこうも見つめられてしまうと、困ってしまう。ケインは言葉を探していた。あれからなんだかんだでこのエルウェイクの森にいる身の上のこと。そしてソファに寛ぐケルヒャーを見つめつつ、レンバスの焼成に取りかかった。予熱したオーブンを開けて、なかへとレンバスを配置していく。ウィズも手伝い、作業は大詰めだ。
「ラングレイスの旦那さま。私はどうしたらいいんでしょう?」
眉根を下げるケインを尻目にケルヒャーは読書に夢中だ。紙を捲る音が無常にもしているだけだ。ケインは腰に手を当てて、あのときのことを回想している。
ケインはドラゴンの襲撃がどこの冒険者ギルドのものではないことを水晶を通じて知った。
そこまでは良かった。だがドラゴンには、S級冒険者が関わっているという予想が外れたのだ。落下したドラゴンの下敷きになった亜人間は、どこからどう見ても魔族だった。
「グリーデ、これはどう思う?」
「人間と魔族の混ぜ合わせた存在ですね、こりゃ」
二人が遺体を見ていると、奥からケルヒャーとイライザがやってきた。
振り返ればヨクモク砦の外壁はドラゴンの炎によって黒く焦げ付いていた。堅牢な石壁と木組みの櫓。そして穴がそこかしこに空いている。見れば黒い眼がちかちかと覗いており、ビヒャルテ公らの気配を感じる。砦の門を開けさせて、中へと五人は入った。これまでの戦闘の激しさと勝利の安堵で、身体がいっそう重く感じられた。
砦のなかは疲弊した兵士たちで溢れかえっていた。生傷のある者、包帯を巻いた者、そして煤で汚れた者など様々だ。壁際で蹲った兵の視線が一点に集まる。
視線のさきには頭領であるビヒャルテ公そのひとが立っていた。豊かな茶色の髭を持つ大柄な男だった。ケインもビヒャルテ公に会うのはこれで二回目だ。
ビヒャルテ公は兵達に慈愛の視線を傾け、こちらへ近づいてくる。
ケルヒャーが彼に声をかけた。
「ラングレイス家の長子、ケルヒャーだ」
「私はイライザ」
ビヒャルテ公はレスクリンに気づくと、片眉を愉快に動かした。レスクリンは複雑な表情を浮かべる。
「ラングレイス、ラングレイス……、そうか。君がマリウェリスカの長男坊か」
「そうです、王の命によりあなたを捕らえに参りました」
ケインもビヒャルテ公を見た。ボロボロに解れた軍服は戦闘の激しさを物語っていた。ダークグリーンの勲章は変わらず名誉を示していた。
レスクリンが口を開いた。
「ビヒャルテ公。あなたはわたくしに本当のことを仰っていないのではないですか?」
「何だ? 藪から棒に」
「此度の革命は革命ではなかった。あなたはわたくしに嘘をついている。王が魔族と契約など事実無根だった」
「ほう。そこまで気づいたか」
レスクリンは拳を握った。手が震えている。
「何をお考えなのですか? わたくしには知る権利があります!」
「――まぁ、待て」
ビヒャルテ公はその場に座り込んだ。そうして地図を広げた。
「儂はアースプレイスにはもっと自由な裁量を与えるべきだと考えておる。王の直轄地や貴族の領地、それ以外の民のための土地だ」
ケルヒャーが地図を覗き込む。ケインも続いた。いくつもの複雑な線で象られた土地が地図にあった。
「儂は希望者に土地を与えて、豊かな生活を思う存分楽しんでほしいんだ」
「……それが革命の理由だと?」
レスクリンが口をぽかんと開けた。
「魔族と手を組んでいるのが事実であろうとあるまいと、事実はでっちあげれば出てくるだろう。王政に不満を持つ者は多いし、期待の声が後押しするだろう」
ケルヒャーがぽつりと尋ねる。
「それってスローライフを奨励する政治をするってことですか?」
「すろーらいふ? 何だか分からんが」
「だから……! みんながみんな自由に商売と生活をして喜んで貰えるってことで……!」
「そうとも言えるな」
「待って、ケルヒャー。揺らがないでよ。それが王政を潰す理由になんかさせないわよ」
「でもさ、合法的にスローライフが送れるんだぞ!」
ケルヒャーがイライザにそう言うと、ケインは頭を抱えた。ケルヒャーの望みがビヒャルテ公の思惑に沿うものだとしたら。それがさきほどのパンの作り方を教えることと合致するのかもしれない。ケインは考えを巡らせた。
「いいでしょうか? ビヒャルテ公の案は私が引き受けます。あなたは黙って罪を償ってください」
「なにぃ? 儂は行かんぞ!」
「でもあなたは何者かに、亜人間に狙われている。私たちといるほうが安全だ」
所属の分からない軍団に追われるより、身の安全を保証する。良い案だ。
ビヒャルテ公は髭を擦って、承知した。
――遠い出来事のような、ヨクモク砦でのこと。
「……それで、こうしてパンを焼いているんだ」
「分かりませんよっ!」
「そうかもな」
あははとケインは笑った。
「ビヒャルテ公は投獄された。でも彼のスローライフ法を王が認めたんだ。それで騎士たちもこうして研修と評してスローライフを実践してこいとお達しがあった……」
オーブンからパンの匂いが立ちこめてくる。
焼けたパンを取り出すと、ナイフで形を整える。
「ラングレイスさま。レンバスを味見してください」




