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最終話「ドリフターズと汚れた手」(過去編)(2/3)

「なあ、聞いてるか?」


「う、うん、聞いてるよぉ」


 わたしは気のない返事をしながら、ネックレスを見つめ続けた。


 欲しいわけじゃない。盗っちゃいけないと分かっている。分かっているのに……その光景がわたしの中で膨らんで、何も考えられなくなっていく。

 手を伸ばしたい、それに触れたい、それをとって、ポケットに入れてしまいたい。

 喉が渇き、息を吸っても、肺が満たされない。


 わたしはどうにかなってしまいそうだった。


 あのときほど感情の渦に飲まれたことはなかった。それからもわたしは何度も窃盗衝動を覚え、我慢しきれなくなって人の物に手を伸ばしたことはある。


 でも、あのときの濁流に比べたら、荒波くらいのもので、そういう意味ではわたしは年々、悪くなっているのかもしれない。


 わたしの中で何かがぷつんと切れた。

「お、おっと……ご、ごめん……」


 わたしは何かにつまずくふりをして、レイにぶつかった。そして、ポケットからはみ出たネックレスを掴み取り、手の中に握りしめた。


「大丈夫か?」

 レイはそう言ってわたしの顔を覗き込む。


「どうしたんだ、なんか、顔赤いぞ」

「え……」


「それに呼吸も荒いし、目がとろんとしてる。マイラ、風邪でも引いたんじゃないか?」

「ううん、多分平気だと思う」


「マイラ、お腹出して寝てるんじゃないか?」

 レイはそういってわたしをからかったが、わたしはぎこちなく笑うことしかできなかった。

 甘美な時間はほんの一瞬だった。一秒か、二秒か分からないが、わたしは気が遠くなるほどの興奮を覚えた。

 その後、お腹の疼きはさっぱりと消え去っていた。


 わたしはがくがくと震える足で、なんとか歩き続けた。足腰の力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。


 めくるめく快楽の名残に目がちかちかしていた。


     §§§


 テーブルの上に並んだ大量の料理に背を向けて座らされていた。

 窓の外はもう真っ暗で、部屋はランプの光でほの明るいものの、四隅には闇が広がっていた。

 その日の出来事を、本当はもう思い出したくもなかった。


 だが、思い出したくない出来事に限って、何度も頭によぎり、わたしはぎゅっと目を閉じてそれが通り過ぎるのを待たなくちゃいけない。


 自分は一生、この思い出を忘れることはないだろうと、悲しみに暮れる。


 そして、できることならレイはもうすべてを忘れていますようにと願うのだ。


 わたしはボロのワンピースを肌脱ぎにさせられ、お母さんの料理と毎日の川下りで逞しくなった肩を露出させていた。


「マイラ、偉いわねー。本当に偉い子よ」

 お母さんはわたしの髪をいとおしそうに手ですいた。

 わたしは俯いて、歯を食いしばる。


「ヒィッ……ッく……ぅくっ……」

 わたしは悲鳴をかみ殺していた。涙がぽたぽたと垂れ落ちていく。床に広がった液体は、もはやよだれなのか、涙なのかも分からない。


「ああッ!」

 思わず叫び、ハッとして口をつぐんだ。


 手は椅子の足を握りしめている。爪を食い込ませ過ぎていて椅子はそこら中にささくれができていた。


「これくらいの痛みで悲鳴をあげてはいけません。あなたは我慢強く、家事や育児に耐える女性になるのよ。冬は冷たい水で皿を洗い、夏は暑い部屋にこもってパンを焼くの。これくらいのことで、弱音を吐いてはいけません」


「はい……お母さん……」

 わたしはぎゅっと目をつむり、次の痛みに備えた。


「あっ……うぅく……平気です……続けてください、おかあさん」

 十歳のころからそのトレーニングは始まった。

 夕食前、一週間に一度か二週間に一度、わたしは午前中に読書をしなければいけないように、昼から川下りをしなければいけないように、夜にはそのトレーニングを受けなければいけなかった。


 お母さんはわたしの服を脱がせ、背中にトロトロに溶け切った蝋を垂らした。


 ロウはわたしの肌にねっとりとからみつき、背中に刺すような熱を閉じ込めてしまう。


 ビリビリと頭に響いてくる痛みに、わたしは泣きながら耐えなければいけなかった。


 そうやって訓練をしていれば、大人になったとき、家事や育児に耐える人になれるのだという。

 それがどのくらいの時間かはわたしにも分からない。


 とにかくとても長い時間に感じられた。


「い……いったぁ――」

 わたしは口の中でくぐもった悲鳴をあげる。

 もし、大声を出してしまえば、トレーニングは失敗となる。

 もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ。

 発狂したくなる衝動をこらえ、わたしは静かに平静を装わなければならなかった。


「あああっ――」

 わたしは涙と鼻水と唾液でぐしゃぐしゃの顔をあげた。息苦しいほどの痛みに、空気を求めて首を伸ばした。


「えっ……」

 そこでわたしは言葉を失った。

 リビングの小さな窓から、レイがこちらを見ていたのだ。


「なんでぇ……帰ったはずでしょぉ……」

 わたしは絶望した。


 こんな姿を見られたくなかった。服はだらしなくずれ落ち、背中は蝋で真っ赤になっているだろう。 顔は涙とよだれでぐじゃぐじゃだ。

 自分でもとても男の子に見せられない顔をしていると分かる。


 レイは戦慄したように顔を青くし、驚愕の表情で部屋の中を見入っている。


 わたしと目が合ったことを察し、レイはさらに狼狽えた。


「れ、レイ……ごめんね……」

 わたしはレイに許しを請うた。

 どうしてかは分からないけど、自然と口から洩れていた。


 わたしはレイに許しを請い、こんな姿を見た後でも、友だちでいてくれるようにと願った。

 

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