三話「養父ルスフォード」6(1/2)
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孤児院は街の中心部から離れたところにあった。
静かな郊外の一画。
このごちゃごちゃした港町で精一杯、子育てに適した場所を探したのかもしれない。そこは人通りもまばらで、悪い遊び場や、危険な路地から離れたところだった。
それだけに夜になるとガス灯の数も少なく、あたりは真っ暗だった。
孤児院の前には、二つの人影が見えた。人影は大きく重なり、何かを取り合うように、くっついたり、離れたりしている。
どうやら、子どもを取り合って喧嘩をしているようだった。
どちらかが子どもを孤児院に預けると言い張り、どちらかがそれに反対しているのかもしれない。
近づくにつれて、女の悲壮な叫び声が聞こえてきた。
「返してください……、その子は孤児院に預けるんじゃないんです」
「もう遅い! この子はもう孤児院の方で受け入れを承認されたんだ」
「私、死に物狂いで育てます! なんでもします! 泥棒でも、強盗でも、どんな手を使ってでも、その子と一緒にいるんです!」
「そんなことは知らん! この子を君に渡すわけにはいかないんだ」
「いやです。その子は私の子。私が死んだ主人と作った子なんです」
孤児院に近づくにつれて、気が重くなっていった。
不穏な空気が濃くなり、俺はここ数日の出来事と、俺が予想する結末のすべてが夢であってほしいと願った。
二つの人影がはっきりと見えるようになり、やがて月明かりに照らされて俺はその女性の顔を見た。
「レイ……あれって……」
「クピディアさんだ。彼女は今日、孤児院に子どもを預けに行ったそうだぞ」
「……そうだったんだ」
「行くぞ」
俺たちは二人に近づいた。
「まったく、分からない人だ。良いか? 俺はこの孤児院から承認を受けて養父になったんだ。その赤ん坊を引き取るための契約書にもサインした。いわば俺の子だ。君に俺の子を渡す筋合いはないね」
「私が産んだんです。孤児院に行けば照会してもらえるはずですし、それにほら、形見の羽があります」
クピディアさんはデイジーをくるんだ毛布の中から羽をとりだした。
そして、自分が持っていた羽の下半分と一緒に男に突きだした。
それらはぴったりと重なり、二人が親子であることを静かに証明していた。
「それがどうしたというんだ。一度は捨てたんだろ」
「魔が差したんです。後悔して戻ってきました。まだ一日も経っていないんです。この子だって私といられた方が幸せに決まってます」
「この子の幸せなんてどうだっていいんだよ!! 大事なのは契約だ。俺は孤児院から承認されて養父になった。俺には法的にこの子を預かる権利がある。あんたにはそれがない。それがすべてだ」
「あの人、今日孤児院でゴネてた人だよ……」
マイラが男の方を指さした。
「そうなのか?」
「うん、最初は養父として六歳の男の子を引き取りたいなんて言い出したんだよ。でも、うちの孤児院では六歳以上は商家に住み込み働きに出すことになってるの。だから、六歳の養父は募集してないっていうのに、六歳の子を引き取らせろって何度もしつこくて。結局、二時間以上ゴネてたんだよ」
「それで、結局赤ちゃんを引き取ることにしたのか」
「そのくせに意固地になってデイジーちゃんを返さないなんて、嫌な感じだよ」
俺たちがそんな話をしている間も、クピディアさんは泣きながら、男にすがっていた。
「だから、こうして頼んでいるんです。お願いです! 私の子なんです。私が産んだんです。もう手放したりしません。だから返してください」
「しつこい女だな!! 諦めろ!!」
男はクピディアさんの腕を振りほどき、彼女を思いっきり突き飛ばした。
クピディアさんは空中で何かを掴もうと手を伸ばし、そのまま地面に倒れこんだ。
したたかに背中を打ちつけ、悲壮な呻きをあげる。
俺は拳を握りしめた。
手がどうしようもなく疼き、悪魔化の兆候を感じ取って深く息を吐く。
落ち着け。マイラが見てるんだぞ。
俺は怒りを抑えて、二人に近づいた。
「ああ、奇遇ですね。クピディアさん」
俺はクピディアさんの手を取り、彼女を抱き起した。
「レイモンドさん。それにマイラさん……」
「どうしたんだ? 立派な紳士が、か弱い女性を突き飛ばすなんて」
俺は男を睨みつけた。
「ああ、聞いてくれよ。俺は著作家で、医者でもあるルイス・ルスフォードというものなんだが、慈善活動として養父をすることにしたんだ。先ほどこの孤児院から子ども預かってね。そしたら、孤児院から出たところで急にその女が現れて、俺の子どもを見るなり、その子を返してほしいと言い出したんだ」
ルスフォードは二十代の若い幻視者だった。
切れ長の聡明な瞳に、嫌味のないすらりとした鼻、口は得意げに歪んでいるが、まあ美形の部類だろう。
だが、下半身は黒いヤギそのもので、よく引き締まった足と、どこか人を畏れ多い気分にさせる真っ黒の獣毛。
著作家と聞いて納得だ。弁が立ち、幻視者特有の啓示にも似た幻視が著作に必要なひらめきを可能にする。
「その子の母親がこの女性で、この女性が自分で育てたいというならそうするべきじゃないか? 子どものためにも」
「そうですよぉ。この子だってクピディアさんといたいに決まってます」
口を挟んだマイラを、ルスフォードはじろりとにらんだ。
「さっきから、子どものため、子どものためってうるさいんだよ!! 子どものためなんかどうでもいいんだ!! 俺にはその子が必要なんだ!! 一刻も早く、その子を連れて帰り、育てなければならない!! そして、その子を引き取る権利が俺にはある!! それ以上のことが重要か?」
男は必死にまくしたてた。
「どんな事情があるのか知らないが、その子は本来、この母親のものだ、とは考えないんだな?」
俺は最後にもう一度だけ聞いた。
「微塵も思わないね。俺がさきほど預かった。契約書にもサインした。状況的にも、法的にも俺のものだ!」
まったく。俺はこんなことはしたくもないんだ。これまでも、この先も一生、こんなのは本当に最悪だ。
俺はそう思いながらルスフォードを見た。
「そうか。で、その契約書ってどこにあるんだ」




