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二話「グリーンメスカル」1(2/2)


 悪魔は刹那的な個人主義者で、自分の利益になることしか考えないが、友人と愉快な夜を楽しむのには手銭を惜しまない。


 どうやら俺はアレボリスに気に入られたようだ。


「その人物が言うには、これをキメたあとは酒も煙草も子どものオモチャにしか思えないそうだ」


 アレボリスはガラスの入れ物のふたを緩めると、青い液体を紅茶に二三滴落とした。


「酔うのか?」


「酔っ払うとは違うらしいんだ。なんでも、もともとは痛み止めとして使用されていた薬らしくてね、それに何らかの成分を混ぜたようなんだ。これをキメれば、無感覚になり世間の煩わしいあれこれが一切気にならなくなるそうなんだ」


「それはうれしいね」


 俺はアレボリスからガラスの入れ物を受け取った。

 中の液体は透明のようで、透けた向こう側に青色に染まったアレボリスが見える。


「ただし、量には注意してくれ。二三滴でじゅうぶんだ。多すぎると幻視を見るらしい」


「幻視か。週末のレースをあてられるのならそれも良いんだが……」


 幻視と言えば、幻視者の得意分野だが、幻視者の中には実際、神からレースの結果にまつわる啓示を受けて、何千万と稼ぐ輩もいるようだ。


「君にも勝負師の血が通っているようだね」


「いや、港で仲間たちが競馬の話ばかりするからな。俺は大して賭けない」


「それがいい。その薬で、幻視を見ようと大量にキメた人が、過剰摂取で死んだという話もある。とにかくよくきく薬なんだ。量には気を付けてくれ」


「ありがとう」


 俺はアレボリスに倣って紅茶の中に二三滴、青い液体を垂らした。


「じゃあ、乾杯」


 飲んだ後、アレボリスの勧めに従って俺はソファーに移動した。なんでも椅子に座っていることができなくなるほど無感覚に陥るらしく、アレボリスと二人、ソファーに座りなおして、ちびちびと紅茶を啜った。


 するとふいに本当の無感覚が訪れ、俺とアレボリスは二人して紅茶のカップを床に落とした。

 コラリーがやってきて、すぐにカップを拾い、絨毯をぬぐう。


 俺はそれを見ているはずだが、まったく気になならない。自分の粗相の始末を他人にさせていることにも、俺の目の前をメイド姿の少女が動き回るのも、すべて分かってはいるが、何の感情も義務感も湧いてこない。


 こういう異常な精神のとき、普段の俺ならきっと恐ろしいと感じてしまうんだろう。自分の頭がどうにかなってしまったことへの恐怖だ。


 しかし、その恐怖すら沸いてこない。


 完全な無感覚で、退屈という感情すら沸いてこない。


 だから、俺はその夜、十時になって薬が切れはじめるまで、おおよそ三時間の間、絨毯に残った紅茶のシミを見つめて過ごした。

 隣にアレボリスが居て、俺と同じように黙っていても、まったく気まずさを感じなかった。だから、二人してその間、一言も話さなかった。


 三時間も紅茶のシミを眺めていながら、まったく退屈することがなく、むなしさも不安も感じなかった。

 何も感じないのだから、気持ちよくはない。こんなものを飲むよりも、楽しいことはいくらでもあるだろう。

 だが、現実がどうしようもなくマイナスなら、ゼロになるのは悪くない。


「これはすごいな」

 薬が切れ始めて俺は言ったが、実際にはそのときも「すごい」と言えるほどの感動は沸いていなかった。


「そうだろう。少し分けてやろうか?」


「いや、今夜はかつてないほど楽しかったが、これを日頃から使おうとは思わないな。俺には夢があってな、それまでは酒も博打も我慢してるんだ。こういう遊びもな」


 ボートが買えるようになるまでは、とにかく一生懸命働いて、お金を貯めなくてはいけない。ボートが買えたら、故郷の近くに住んで、金持ちの持つ別荘島に食料を運んで暮らすんだ。


「それは良くないな」


 相手が悪魔だと分かっていたので、俺はすぐにアレボリスのセリフを遮った。


「分かってる。あんたはそう言うだろう。我慢なんて下らないとな。だが、俺は俺のやり方に口出しされたくはないんだ」


「そうか、それなら仕方がない」


「ありがとう」


「ただし、忠告しておこう。この薬はこの街で、突然流行りだしたものだが、早くも王都の役人から問題視されてね、王都ではすでに薬の持ち込みが禁止されている。この街でもやがて手に入りにくくなるだろう」


「そうか」


「それに伴って、すでにやくざ者が薬の売買を取り仕切るようになっている。こういえば分かるだろう? 娼館も、競馬場も、この町の裏社会を取り仕切ってるカミングス一家とかいう組織さ」


「ああ」


 表社会には表社会の秩序があり、裏社会には裏社会の秩序がある。表社会の秩序が法律や治安部隊なのだとしたら、裏社会の秩序を担うのがカミングス一家だった。


 といってもそんな良いものではない。冷徹で容赦ない恐怖による支配だ。


「だから、これから新規に手に入れようと思うと、かなり危ない橋を渡らなくちゃいけない。やつらに弱みを見せず、やつらの恨みを買わないことだ」


「分かった」


 カミングス一家はこの町を裏で取り仕切る、犯罪組織として有名だ。俺も港で働き始めた当初から何度もその名前を聞かされた。


 なんでも、ある荷下ろしの労働者が荷物の一部を着服していたそうだが、それがカミングス一家の荷物だったそうだ。


 その労働者が川に浮かんでいるのを発見されるまでに、そう時間はかからなかった。


 とにかく危険な組織で港でも恐れられる存在だった。


「忠告ありがとう」


「私も君と楽しい夜を過ごせてよかったよ。今度はぜひ、マイラちゃんも連れてきておくれ」


「ああ、そうするよ」


 俺はアレボリスのまだ感情の戻り切らない目に見送られながら、新居を後にした。


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