二話「グリーンメスカル」(過去編)2/3
「さあ、川下りをしてらっしゃい」
わたしの家は山の中にあって、周りには誰も住んでいなかった。家の前には流れの早い渓流があって、その岸辺にイカダがつないである。お母さんはわたしをイカダに乗せると、もやい綱を解きながら言った。
「夜までには帰ってくるのよ。イカダも忘れずにね」
「うん」
「流れが遅くなるまで決して下りようとしちゃいけませんからね」
「うん」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
お母さんは綱を放し、イカダは山間の渓流を下っていく。
いつからそうなったかは覚えていないが、川下りはある日、突然はじまった。
それまでは普通に遊ばせてもらっていた。山で虫を追いかけたり、木登りをしたり。
しかし、あるときわたしが家の裏手に腰掛け、摘んだお花で花冠を作っていたのをお母さんが見つけた。
「マイラ! 何しているの!?」
お母さんは険しい表情で近づいてきた。
「花冠だよ? 出来上がったらお母さんにあげるね」
「そんなものは捨てなさい!! まったく、何のために外で遊ばせてると思ってるの? そんなところで座ってるんじゃ体力はつきませんよ」
お母さんはわたしに体力をつかせようとして、外で遊ばせているらしかった。
しかし、外に放したわたしが常に鳥や虫を追いかけて走り回ったり、木登りをしているかを監視することはできない。
そこで、川下りを思いついたのだろう。
「そろそろ良いよね?」
急流が淵に流れ込み、その中でも流れの緩やかな淀みに差し掛かったとき、わたしは勢いよくイカダを飛び降りて、川岸に降り立った。
そこからわたしはイカダを引いて、川を上らなくてはいけない。
これがとてつもない重労働なのだ。
自分一人でも山道を登っていくのは大変なのに、そのうえ、川の流れに逆らってイカダを引っ張っていかなくてはいけない。
お母さんの望み通り、わたしはかなり激しい運動をすることになる。
険しい山道をイカダを引きながら歩いても、少女の細腕はちぎれたりしなかった。その代わりにわたしの身体は日に日に大きく、たくましくなった。身長は普通の女の子より二〇センチ以上高いし、そのほか、腕も胸も、お尻も足も、すべてのパーツが大きく、頑丈にできている。
わたしが馬鹿力になったのは、この習慣のせいなのだ。
お母さんがどうしてこんなことをするのかは分からなかったが、比較対象のないわたしはお母さんの行動を疑問に思わなかった。
町で育ったのなら、友だちがどんなふうに育てられているか、家でどんなふうに過ごしているのか分かるのだが、わたしは山の中でお母さんと二人きり。
町では馬車が走っていることも、大道芸人が奇術を披露していることも、知らなかった。
食事、睡眠、運動、読書。
あの頃のわたしの生活は、完璧にこの四つで支配されていた。それ以外の出来事が起こることはほとんどなかった。
わたしはあの頃の日々がどんなだったかを知っているが、思い出すことはできない。
どこに何があって、何をいつしていたのか、詳しく説明することはできるのだが、思い出と言えるような印象的な光景は何一つなかった。
しかし、その日を境に、すべてが変わった。
その日以降の出来事となると、今でもまぶたの裏にありありと浮かんでくる光景がいくつもあった。
その日、川の淀みでイカダから降りると、わたしはイカダを岸にあげて、しばらくの間、ぼんやりと川面を眺めていた。
家には帰りたくなかった。
家に帰るとまたあの地獄のような時間が待っている。とはいえ、帰ってくるのが遅いとお母さんに厳しく叱られるので、暗くなるまでには帰らなければいけない。
そのためには、ぼんやりできる時間はそう長くはないことも分かっていた。
そんなとき、下流の方からとぼとぼと人が歩いてくるのが見えた。
わたしより少し小さいくらいの男の子で、ケガをしているのか、左足を庇うように変な形で歩いてくる。
わたしはその光景をぼんやり見つめていた。
男の子はわたしに気が付くと、ハッと目を見開き、腕でゴシゴシと目をこすった。
それから用心深い目つきでわたしを見た。
それがレイとの出会いだった。




