一話 『ミシェルの五人の子どもたち』8
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アレボリスの新居はあたたかい朝日を浴び、静謐な雰囲気を漂わせていた。
この中に本当に誘拐された娘がいるんだろうか?
俺はその前に立ち、中の様子を伺った。
物音は聞こえず、人の気配も感じられなかった。
マイラは無事に『ミシェルの五人の子どもたち』を置いて、港に向かっているところだろうか。
願わくば、そうであってほしかった。
俺は意を決して、新居の扉をノックした。
アレボリスはすぐに出てきた。
「そろそろ来る頃だと思ったよ。入ってくれ」
アレボリスは悪魔らしい人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「いや、ここで良い」
俺は扉から半分身体を入れて、アレボリスの新居を覗き込んだ。
「随分、警戒しているんだね」
「暴力沙汰はごめんだからな。危なくなったら逃げるに限る」
「意外だね。君は私よりよほど強そうに見えるが……」
「加減を知らないんだ。ケンカをしたら必ずケガをする。たとえ一方的な勝負でもな」
「ふふふ、君は面白いね」
「本は届いたか?」
「届いたよ」
アレボリスはそう言って、本をかざした。
「マイラはまだここにいる?」
「ああ、どうも私を誤解しているようでね、治安部隊に通報するなんて言うものだから、拘束させてもらっているよ」
アレボリスの背後で何かが動いたような気がした。
廊下の先を覗き込むと、手足を縛られたマイラが体をくねらせ、芋虫のように這って部屋から顔を覗かせる。
その隣には、汚いボロ切れをまとった少女がたたずんでおり、じっと俯いていた。
俺は拳を握りしめた。
「誤解が解けたら、解放してくれるのか?」
「解けたらね……」
「まず謝らせてくれ。マイラがあんたの大事な本を盗んできたこと。あいつは病気でな、急に物を盗らなくちゃいられなくなるんだ」
「なあに、謝ることはないよ」
「あんたはその本を使って、その心優しい少女を教育しようとしたんだろう? 理想の花嫁にするために」
「それが誤解なんだ」
「どこが誤解なんだ!! そこには乞食の娘がいて、あんたは理想の花嫁を作り出す計画について話していた。そして、ここには教育に関する本がある」
俺はアレボリスから本を奪い取ると、ページを開いた。
「読んでやる」
俺はこの前と同じページを読んだ。
《娘を控えめで清楚な女性に育てたければ、ミシェルの次女、エレナのように育てると良い。ミシェルは、二十七歳の例年にない寒さの年にエレナを出産した……》
「続きを読むと良い」
アレボリスは言った。
《ミシェルは、長女ドナの教育では失敗したところがあった。ドナは料理、裁縫、子どもの世話、読み書き、どれをとっても申し分ない少女だった。それはドナに施した家庭教育が実を結んだためだろう。しかし、ドナはあまりにも使用人や出入りの職人に美しい、美しいと褒められて過ごしたために、自己顕示欲をたくましくさせ、華美な装飾を好んだ。そこでミシェルはエレナを見栄っ張りにならないよう育てようと思った》
「ほら、ここに控えめな女性に育てる方法が書かれている」
「私は何も控えめな花嫁を作り出したいわけではない。見栄っ張りで虚栄心が強いくせに、自分では何一つそれを叶えようとしない消極的な女にうんざりしただけだよ」
確かに悪魔は決して清楚や控えめを重視しない。
刹那的な性格の悪魔は、好きなことを好きなようにやらず、ただ周囲に嫉妬してはイライラしている女に嫌気が差しただけだ。
この育児書に載っているケースには当てはまらないのではないか。
俺の考えを見透かしたかのように、アレボリスは穏やかな口調で言った。
「もう少し続きを読んでみてくれ」
俺は『ミシェルの五人の子どもたち』に視線を落とした。
《そこでミシェルは、まだ物心のつかないエレナの顔に暖炉で焼かれた火かき棒をあてた。エレナの顔には生涯、癒えることのないやけど跡が残った……。ミシェルはエレナをそのやけど跡のために、『醜い、醜い』と繰り返し言い聞かせ、使用人や出入りの職人にもエレナをほめそやすことを禁止した。その結果、エレナは見栄や虚飾には興味を示さず、いつも静かに恥じ入る理想的な女性に育った……》
「な、なんだよ、これ……」
俺は顔をしかめた。
こんな育児書があるのか?
娘の顔にアザを作って、娘をそのことで罵倒し、自信を失った娘を見て、理想的な女性に育ったなどと言う育児書があるのか……。
「じゃあ、一体、あんたはなんのためにこんな本を手に入れて、その乞食の娘をどう教育しようって言うんだ」
「だから、それが誤解なんだがねえ……」
悪魔はそういうとニヤリと笑った。
そのときだった。
俺の背後からにゅっと手が伸びてきたかと思うと、俺の持っていた本をさっと奪い取った。
俺は驚いて振り返った。
俺はアレボリスの家の玄関扉を開けており、その人物は外から俺たちの様子を伺い、見覚えのある本を見つけて思わず飛び込んできたようだった。
その人物は『ミシェルの五人の子どもたち』を抱え、噛みつかんばかりに俺たちを睨んでいた。
「返してよ!! 私の本を返して!!」
その人物は叫んだ。
髪には丁寧にクシを通してあり、妙に力のある瞳が絶望に歪んでいる。
そこには、あの丘へあがる道で出会った貴婦人が立っており、狂おしいほど頬をこわばらせていた。
「あんたの本?」
俺はアレボリスと貴婦人の顔を交互に見た。
「よくも私の本を盗ったりしたわね!! 私の、たった一つの母の形見なのよ……!!」
貴婦人はそう言って涙を流し始めた。
よほどその本を探し回っていたのだろう。
彼女は慈しむように本を抱え、滂沱のごとく涙を溢れさせた。
そして、その涙によって化粧が流れ落ちたとき、彼女の目の下には痛々しいやけど跡が現れていた。
それはあの女乞食の目の下のアザととても良く似ていた。
「お母さん!!」
俯いていた乞食の娘が叫んだ。
「もうそんな本捨ててよ!! その本のせいで、お母さんどんどん悪くなってるんだよ」
それは恐らく、乞食の娘、今となっては彼女が乞食の娘なのかさえ怪しいものだが、彼女の心の叫びだったのだろう。
街で乞食の格好をして施しを受けていた貴婦人に対する、娘の全力の訴えだった。
しかし、目の前の貴婦人は娘を完全に無視した。
「いやぁ、お恥ずかしい!! どうも、娘がご迷惑をおかけしました!」
貴婦人はそのときにはすでに社交的な笑みを浮かべていた。
「お母さん……」
「この子はよく嘘をついて大人をからかうんです。娘が何を言ったか存じませんが、まともに取り合わないでください。さあ、帰りましょう」
貴婦人はアレボリスの新居にずかずかと上がり込むと、乞食の娘の腕を掴んだ。
俺はこの貴婦人の変わりっぷりにただただ唖然とするしかなかった。
「お母さん!! もうやめてよ!! この本のせいで、お母さん、いつか取り返しのつかないことになるんだよ!!」
娘は貴婦人の手から『ミシェルの五人の子どもたち』を奪い取ると、隠し持っていたマッチを擦り、本の表紙に火をつけた。
「やめてええええええええええええええ!!」
貴婦人は叫び、燃え盛る本にしがみついた。
アレボリスはその異常な光景をニコニコしながら見守っており、俺はそろそろ潮時だと思った。
アレボリスは誤解さえ解ければ、マイラを解放してくれると言っていた。
俺は必死で火を消そうとする貴婦人の横を通り過ぎ、マイラに近づいた。
「なんで人の言うことがきけないんだ!! 一緒に行って、返してこようって言っただろ」
俺はマイラの拘束を解きながら言った。
「だってぇ、レイが怒ってたから……朝、ゆっくり寝たいだろうと思って……」
「それがこのざまだ!! アレボリスがもし誘拐犯だったらどうなる!! お前は今頃殺されてるかもしれないんだぞ」
「そしたら、レイは一人で生きれるでしょ? お金もすぐに溜まって、欲しかったボートも買えるじゃん」
「もういい、黙れ」
俺はマイラを起き上がらせると、彼女の腕を掴んで引っ張った。
「アレボリス、迷惑をかけたな」
「いや、大したことじゃないよ」
「この二人はどうするんだ?」
貴婦人ほとんど燃え尽きた本の火を必死に消そうとしていた。
「どうするかなあ。まあ、もう少し事態を見届けてから考えるよ」
「そうか。俺たちは仕事があるんだ」
「分かってる。行ってくれてかまわないよ」
「行くぞ、マイラ」
俺は彼女を引っ張って外に出た。
「レイ、怒らないでよぉ。今のは嘘、今のは取り消すから」
「もう遅い!! 遅すぎる!!」
仕事の時間には間に合わない。一時間か、二時間か。とにかく大幅な遅刻だ。ダニエルには何を言われるか分からないし、日当は七割か、半分しか貰えないだろう。
まったく、こいつが窃盗癖を起こすとろくなことにならない。
俺はムカムカしながら港に向かった。
燃え盛る本を抱く貴婦人の激しい叫び声と、それを止めようとする少女の声。そして、その光景に見とれるアレボリスの気配が背後から伝わってくる。
俺は無意識にマイラの腕をきつく掴んでいた。




