妻と夫はすれ違う。~落ち込む凡人夫と励ます超人妻~
隆二はテレビから流れてくる音を聞きながら、妻である香澄のシャツにアイロンをかけていた。
専業主夫、というわけではない。
隆二は学生時代からまじめに勉強し、浪人せずに大学に入り、有名企業に就職して問題なく働いてきた。
その甲斐あって年収は二十代のうちに六百万円ほどに達し、三十二になる今、八百万円を超えようとしている。同期の中ではなかなかの出世頭だと自分でも思っている。
妻の香澄と娘の朱莉。二人の大切な家族と共に、隆二は幸せな毎日を送っているはずである。ただ、隆二は最近その幸せに陰りを感じていた。
「最近は女性の社会進出も目覚ましいですよね。」
ワイドショーで、何の専門家なのか良くわからない頭頂部の薄い男性が口を大きく開けて喋っている。
隆二はテレビを横目で捉えながら、シャツにしわが残らないように念入りにアイロンを動かした。
家事は隆二の仕事だった。同棲をしているときは半々だった家事の配分は、結婚し、子供ができるなかで少しずつ隆二へと傾き、今では料理、掃除、洗濯など、ほぼ全ての家事を隆二が請け負っている。
理由は単純、香澄の方が稼ぎが多いからである。特段、あちらから要望があったわけではなかったが、自分の収入を妻が越えたと知った日から、隆二は少しづつ自分が分担する家事を増やしていった。
そうでもしないと、落ち着かなかった。
妻は、香澄はいい人である。恋人として付き合っていた頃から、ブランド物のバッグを強請られたこともないし、食事を奢らされたこともない。それでいて、いわゆる、男を目の敵にしたような強気な女性でもなく、常に自分のことを尊重してくれている。
自分にはもったいない人である。
自分にはもったいない人。結婚した当初は冗談のように言っていたこの言葉のことを、隆二は最近よく考えてしまう。
自分は、香澄の夫として、朱莉の父としてふさわしい人間なのだろうか。
香澄の年収は、上がり続けている。
香澄は化粧品メーカーの企画担当として働いている。
彼女が入社した頃はその会社は小さかったが、香澄が企画した新たな化粧品が悉くヒットしたこともあり、今や業界では知らぬ者はいない企業へと成長した。
小さかった会社を急成長させるのに大きく貢献した彼女は役員へ出世し、若くして会社の未来を担うような仕事を日々こなしている。
自分とは大違いだと、隆二は思う。隆二も大企業で役職こそついているが、出世した理由は単純明快、上の言うことをよく聞くからである。言われたことを言われたとおりにこなす隆二の出世は時期こそ早かったが、それは同時にこれより上には行けないということも表していた。
つまり、課長どまりである。隆二の年収はこれから大きくは上がらない。
隆二は、アイロンをかけ終わったシャツを畳んでいく。娘もある程度大きくなり、夜泣きもしなくなってからは、深夜にゆっくりと家事をする時間がとれている。おかげで、休日にこなす家事はアイロンがけ程度だ。だが、そのゆるやかに流れる時間が、隆二を蝕んでいた。
朱莉が生まれてすぐ、隆二は育休を取った。香澄の会社への復帰を支えたかったからである。無計画、というほどではないが、思いがけず朱莉を身ごもった香澄は、入院中よく会社のことを口にしていた。隆二も彼女が今の仕事に注ぐ情熱を理解していたので、育休を取ることに不満はなかった。
そして、朱莉は可愛かった。すぐ泣くし、すぐ漏らすし、何を考えているかわからない彼女の世話はそれはそれは大変だったが、時折見せる笑顔やつぶらな瞳、声にならない声を漏らしている朱莉は眼に入れてもいたくない可愛さだった。
香澄も育児に非協力的なわけではなかった。むしろ、彼女のほうが朱莉にめろめろである。
親子三人、うまく回っているはずだった。
隆二は、畳み終わったシャツをタンスにしまい、テレビのチャンネルを変えた。よくわからない専門家のご高説は聞くに堪えなかった。
最近、朱莉が小学校に通いだした。それにより増えた家事もあったが、食事やトイレなどの補助が要らなくなったこともあり隆二の生活はずいぶんと楽になった。仕事をしながら家事をこなすことも、最近は負担とは思わなくなっている。
そのせいで、つまらないことを考えてしまう。
隆二はもともと、自分に自信があるわけではなかった。学生時代は教室の中心で騒ぐようなタイプでもなく、香澄以外の女性に好かれたこともない。
大学の同級生である香澄が告白してきたときは何かの間違いだと思ったくらいだ。
自信のなさは、付き合ってしばらくして、香澄から夜の誘いがあるまで続いた。思えば向こうから誘わせたというのも大変情けない話である。
隆二は汗かきで、自分の体臭を気にしていた。高校生の時にクラスの女子が自分のことが臭いと言っているのを聞いてから、他人、特に女性にはあまり近づかないようにしてきた。
それもあって、恋人になってからも手すら握らなかったのだが、業を煮やした香澄が向こうから誘ってくれたのだった。
それから、少しは自分に自信が持てるようになった。こんな自分でも受け入れてくれる人がいるのだと知ると、少しは前向きになれるようになった。
今、その自信が再び崩れようとしている。
会社に行って、誰にでもできる難易度の仕事をして、家に帰ってきて、誰でもできるレベルで家事をする。会社に自分より若くて優秀な平社員は多くいるし、料理も香澄が作った方が上手かった。
自分は本当に必要なのだろうか。
確かに、今自分がいなくなったらこの生活は崩壊する。でも、香澄とその血を引く朱莉ならきっとすぐに生活を立て直すだろう。
むしろ今より豊かな生活になるかもしれない。忙しさこそあれど、本当に美味しい料理を香澄が作って愛を伝え、朱莉も家事を手伝ってそれを返す。自分という不純物がない関係を想像すると、その美しさに動揺する。
隆二は、自分のことが代替可能な粗悪品としか思えなかった。
香澄は隆二のことが心配だった。
仕事を終え、助手席に荷物を載せて家までの道のりを車で走りながら、香澄はため息をついた。
収入のことを気にしているのだろうか。たしかに香澄が隆二の収入を超えたとき、彼は悔しいとはっきり言った。でも、確かに悔しそうではあったけれど、あんなふうに虚ろな目をするような感じではなかった。香澄は隆二がそういう負の感情を誤魔化さないのが好きだった。見栄をはりたいということさえ隠さず、本当の意味で見栄をはらない彼といるのが好きだった。
隆二とは、大学の時に出会った。
単位が確定し、出席する必要がなくなった講義に気まぐれに出た時に、最前列で教授に相槌を打っていたのを見たのが彼を最初に意識した瞬間である。
学部、学科が同じだったこともあり、折に触れてメッセージアプリでやり取りをする機会があったが、普段自分に言い寄ってくる男とは違い、必要事項以外全くメッセージを送ってこない彼がなんだか無性に気になった。
それから彼をデートに誘い、食事、映画、水族館、ショッピングなど色々な場所で時間を共にする中で、彼のことを好きになっていった。
隆二は、卑屈ともいえるほど自分に自信がなかったが、それ以上に他人に優しい人だった。
デートに誘うのも告白するのも、セックスをするのもすべて自分からだったが、そんなことはどうでもよかった。
香澄は、自分を尊重してくれて、受け入れてくれる隆二を愛していた。
お互い就職活動をしている時、香澄は隆二に相談したことがあった。自分が本当に入りたい会社は不安定で、本当に入社していいのか迷っている。大企業の方がいいんじゃないか。そんな感じのことを喋ったのを覚えている。ほとんど愚痴のようなものだったと思う。
彼は、口を挟まず最後まで聞いてくれ、「どちらがいいのか僕にもわからないけど、僕は君がしたいことを応援したい。」と、柔らかい笑顔で香澄に言った。
隆二は、上からアドバイスするのではなく、常に隣に立って意見をくれた。
香澄は、あの時の隆二の言葉があって、今の自分があると思っている。
子どもができた時も、出産してからも、自分のことは後回しで、香澄、そして朱莉のことを優先して考えてくれる。
職場の同僚や先輩が自分の夫への悪口を漏らし、隆二のことを羨むのを聞くと、香澄はいつも誇らしい気持ちになっていた。
香澄は、隆二を尊敬していた。年収なんかでは測れない人としての価値を隆二に感じていたし、愛していた。
それに、社会人としても隆二は優秀だった。自分にはやりたいこともないから、と大企業に就職した隆二はすぐに会社に順応し、課長にまで出世した。自分が役員になって初めてわかるが、隆二のように上司の飲みに付き合わないタイプがすぐに出世するのは本当に信頼されているからである。
自分は課長どまりだと隆二は謙遜していたが、上下関係が厳しい大企業で若くして出世する難しさを香澄は良く知っていた。取引先として大企業の上役とやり取りをすることがあるが、彼らの頭は一様に硬い。そんな中で生き抜く隆二のことを、香澄は尊敬していた。
それだけに、最近の隆二が心配だった。それも、主に心が。
朱莉が生まれて、お互いの育休が終わってすぐは、仕事をしながら家事のほとんど全てをこなす彼の体が心配だった。自分も手伝わなければならないという思いはあったが、仕事終わりに、片付いた部屋と暖かい料理、可愛い我が子と愛する夫が迎えてくれ、食事を済ませてまどろんでいる間に片付けが終わっているという毎日が幸せすぎてつい隆二に頼り切りになってしまっていた。
すると、香澄が葛藤している間に、隆二は仕事と家事を完璧に両立させ始めた。成長した朱莉に赤ん坊のころ程手がかからないというのもあったが、それ以上に隆二の適応力がすごかった。
仕事から帰ってすぐにだらけることなく家事を片づけていく彼に香澄は惚れ直した。
最近は香澄が帰ってくるとゆっくりとテレビを見ていることも増え、安心していた。
おかしいと気づいたのは、先週のことだ。
その日、いつも通りにただいま、と言っても返事がなかった。時間的に朱莉は寝ているとしても、隆二から返事がないのは変だ。
リビングに向かうと、虚ろな目でテレビをザッピングする隆二の姿があった。
付き合ってから今まで、香澄が隆二のそんな姿を見たのは初めてだった。
その日から、隆二を注意して見てみると、色んな所が少しずつおかしくなっているのがわかった。
まず、自分の話をしなくなった。隆二はもともと自分のことをあまり話さない人ではあったが、ここまで徹底して自分の話をしないことはなかった。
そして、付き合い始めた頃のように、体臭を気にしていることが分かった。
彼がとてもコンプレックスに感じている体臭だが、香澄は出会ってから一度も彼を臭いと思ったことはない。隆二は多少汗かきではあったが、その汗のにおいはむしろ好ましいもので、香澄は大柄な彼に抱きしめられるのが好きだった。
香澄が初めて夜に誘ったとき、隆二は恐る恐る、優しく自分に触れた。抱きしめて、キスをしてと言っても、彼は応じなかった。
理由を聞くと、自分は汚い。それに臭う。君を汚したくないと言う。
香澄は腹が立った。
優しくて卑屈な彼のことだ。誰かに言われた臭いという言葉をずっと気にしているのだろう。
香澄は、臭くない、汚くない、愛していると繰り返し囁いた。囁くたび、隆二がくすぐったそうに、そして嬉しそうに笑うのを見て胸が高鳴った。囁くのを続けていると、隆二が少しずつ香澄の要望に応じてくれたのを覚えている。
彼に罹った呪いを解いてあげられた気がして嬉しかった。
結婚してからも、朱莉が生まれてからも、隆二が自分のことを抱きしめてくれるのは信頼の証だと思っていた。
それだけに、隆二が再び体臭を気にしだしたのは香澄にとってショックだった。会社で何か言われたのだろうか。
思えば、隆二から愚痴を聞いたことがない。さっきも言ったように隆二が自分の話をしないということもあるが、それ以上に彼は何か悪いことがあるとその原因を自分に求めるところがあった。
きっと隆二は、自分を責めている。前にも似たようなことはあった。
香澄の容姿は美しく、言い寄る男は後を絶たなかったため、おとなしい隆二と付き合い始めた時は周りからは意外だとか似合わないだとか色々なことを言われた。
香澄でさえそうだったのだから、隆二はもっときつい言葉を言われていたのだろう。一度、別れを切り出されたことがある。
君にふさわしい男になれないと、あの時の隆二は言った。
香澄は、勝手なことを言うなと激怒した。ふさわしいから好きになったんじゃないと泣きながら喚き散らすと、隆二はポカンとしていて、それにまた怒って収拾がつかなくなった。
あの時、もっとはっきりしておくべきだったと香澄は思う。隆二は自分にとってかけがえのない存在なのだと。
この世界に家事も育児も完璧にこなして、安定した仕事に就いて、妻の話も娘の話も笑顔で聞いてくれる夫がどれほどいると思っているのか。今乗っている車も、隆二が乗っているよりずっと大きくて高級なものだ。
二人で相談して車を買う際、敏腕美人役員が乗るんだからと、隆二に言われ、香澄が思っていたよりずっといい車に乗ることになった。自分の乗る車は軽自動車なのに、似合っているねなんて言ってくれる夫の素晴らしさを、本人にわからさなければならない。
香澄は、ハンドルを握る手に力を入れた。家に着くまでまだ少しかかるが、わからずやの夫への愛ある怒りが香澄の中で燃え上がっていた。
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