夫婦
予約投稿をしたはずだという自分の記憶など信じてはいけない(戒め)
皇国王国同盟軍と帝国の戦争は開戦から2年を経て終戦へと向かっていた。
当初帝国はマイル皇国への圧力を強め、着実に戦線を押し上げていった。
20年程前のハイルバーン王国への勝利も記憶に新しく勝ち戦だと油断した帝国は一気呵成に侵略を続け、戦線が伸びきっている事に気が付かなかったのだ。
伸びきった帝国の横っ腹を同盟軍の精鋭部隊が食い破り帝国の主力部隊は壊走。同盟軍は反転攻勢を仕掛け一進一退の攻防の後、難攻不落と謳われたマロック城の攻略にまで至った。
ここで帝国は停戦を求め、現在は終戦協定が結ばれようとしていた。
「今回の戦のあらましは凡そこんな所だ。例の人物についても捕虜として捕らえてある。目的はほとんど達成したと言って問題ないだろう。
それで?せっかくここまで来たんだ。そっちの様子も聞かせてくれるんだろ?」
同盟軍の指揮を取っていたリンクスは占領したマロック城のベッドに寝転がっていた。横の椅子に座るエジルリブに向かって話しかける。
「聞かせてくれるんだろ、じゃありませんよ!どれだけ心配したと思ってるんですか。」
感情を露わにするエジルリブを見てリンクスは小さく笑みを浮かべた。
「お前の気持ちなどどうでも良い。わざわざ兄上が遣わせたのだから何かあるのだろう?」
「簡単に言いますとダムス領の成長著しく、空前の好景気です。」
「……、くっはっはっは!なんだお前褒められに来たのか。」
「違います違います!その好景気を起こしたのはジェシカ姫様なのです。」
「ほう?聞かせてみよ。」
エジルリブの話を簡単にまとめると、王太子や大商人を巻き込んで規模の大きい商売をやってるそうだ。
初めは服飾関係だけだったが道の整備をしたり果樹園を作ってみたりと更に手広くやっているらしい。
「ふーん、良かったじゃないか。」
「反応小さくないですか?」
「いちいち文句が多いな。他にはもうないんだろう?お前の持ってきた資料には目を通しておく。」
「お願いします。では私は一足先にダムス領でお待ちしていますので。」
ジェシカ姫にやらせてみれば良いと言った覚えは確かにある。だが大成功と言って差し支えのない活躍を見せるとは夢にも思っていなかった。
当初の予定とは状況がだいぶ異なっている。
リンクスはダムス領に帰らなければならない事実に気が滅入る思いで一杯だった。
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「おう、久しいな。」
隠れてダムス領に帰ってから2日後、ジェシカ姫が血相を変えて執務室に飛び込んできた。
15歳になった姫は小さい事に変わりはないのだが雰囲気が随分と大人になった。
「リンクス様、いつお帰りになられたのですか。」
「一昨日だ。よくこの短期間で私の帰還に気が付いたな。
ん?なんだその顔は。」
ジェシカ姫の目は驚きで見開かれていた。百面相にも程がある。目線が一点に集中しているので何を考えているのか想像に容易かった。
「これが気になるか?」
「気になりますよ!一体どうされたのですか?」
ジェシカ姫が見ているのは私の左目、……正確に言えば左目のあった場所に着けた眼帯だろう。
「一言で表わすならば私の失敗の証といったところか。」
姫は全く納得してなさそうだ。話すまで逃がさないという執念すら感じる。
「こちらからも一つ聞いて良いか?どうして私が帰ってきたと気が付いた、これでも目立たないようにはしていたのだが。」
「始めに気が付いたのは私に知らされていない馬車の存在です。昨日エジルリブにその事を尋ねると挙動不審になりまして。
先程誰もいないはずのこの部屋に人影が見えたような気がしたので急いでここまでやって来ました。ですのでリンクス様がいらっしゃると確信していた訳では無いのですが……」
「いや参考になったよ、ありがとう。」
なんとなくわかっていた事だが、ジェシカ姫はただの美しいだけの子供ではないのだ。
視野も広い、知恵も回る、思い切りも良い。ある程度の覚悟はしていたがそれでもなお過小評価だったようだ。
「ではリンクス様のお話も聞かせてください。この2年間何をしてらっしゃったのですか?」
もう少し時間があると思っていたが仕方ない、いずれ避けては通れぬ道だ。
「少し長くなるぞ、それでも良いなら奥の部屋で話そう。」
帰ってくれないかなと多少は期待していたのだがジェシカ姫は迷いなく私に付いて部屋に入ってきた。
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「帝国との戦が終わった事は聞いているな?公式には総大将が我が兄たるハイルバーン国王が座り、将軍は騎士団長が務める事になっている。
しかし彼らが前線に赴くことはほとんどない。実質的に戦闘の指揮を取るのが私の仕事だったという訳だ。」
深刻な顔をするジェシカ姫を尻目にエジルリブに語ったような戦の概要を淡々と話していった。
「……、とまあこのようにして我々連合軍は勝利を手にした。文官たちの交渉の結果幾許かの賠償金を得て、先日マロック城から引き上げてきて今に至る。
戦の流れはこんな感じかな。聞きたい事じゃなかったかもしれないけどまぁいいか、何か質問は?」
「まずは感謝させてください。ありがとうございました。
あまりにも平和に生活出来ていたので戦争中だと思い出す事も少なくなっていました。その間にもリンクス様たちは戦っていたのかと思うと申し訳なくて堪りません。」
「いやいやそれが兄上の方針だったから、まぁ気にしないで。1ヶ月後に王都で凱旋パレードをやる予定だからその時兵に声をかけてやるといい。」
「では、傷の具合は大丈夫なのですか?」
1番聞きたかったのはやはりそれか。
顔の傷が大きなインパクトを与えると知ってはいたが、今まで見てきた誰よりも痛々しい顔で傷を見てきていた。
心優しいお姫様は傷付けられた人を見るのが苦手なのだろう。
「ああ。衛生兵の必至の治療によって今では痛みもなく、生活に支障はないだろうと言われたよ。」
「それは一安心ですね。衛生兵の皆さんには感謝しなければなりませんね。」
安堵の表情を浮かべる姫に対してちょっとした悪戯心が働いた。
感情の高揚、その場の思い付き。良くない傾向だ。しかし良くないと分かっていても簡単には止められない。そういう性質なんだよ私は。
「あの時死んでいれば話はもっと簡単だったのだが。」
時が止まったかのように感じた。目を見開いたまま固まるジェシカ姫を私はエジルリブも似たような反応をしていた事を思い出しながら無表情で眺めていた。
「……冗談ですよね?」
「いや、本気だったけど。」
「やめて下さい!私はリンクス様が生きていてくださって本当に嬉しく思っています。
助けてくださった衛生兵さんに感謝したいという話ではないのですか?」
「実際戦略的に考えても私の死は帝国との早期講和に繋がる一手だった。」
これは嘘じゃない。連合軍に確実な勝利をもたらす準備が整っていたし、後は帝国側に戦いを止めるきっかけを与えてやるだけだ。
帝国からすれば私の死ほど甘美な果実はなかっただろう。彼らの怨嗟の声はそれほどまでに大きかった。
「将校達が上手くやってくれたおかげで私は生かされてしまったまま終戦を迎えたがね。」
「では良いではないですか。生きていて何が悪いと言うのですか。」
「いやなに、少し面倒事が増えるというだけの話ですよ。」
そう言いながら私は簡素な紙をジェシカ姫の前に差し出した。
「これは?」
「離婚届さ。ここにサインして欲しいんだけど。」
姫の口をポカンと開ける様はいつにも増して幼さを強調していた。
「そんなに悪い話じゃない。白い結婚だと簡単に認めてもらえるだろうし、15歳の貴女なら他にいくらでも相手は見つかる。
それに王国と皇国の同盟関係もひとまず解消する。貴女をこの地に縛り付けておく必要も無くなった。」
「……私は一生この地で暮らしていくのだと思っていました。」
「そうしたいならここに留まってもらっても構わない。離婚したからといって貴女が出て行かなくても済むようにする事ぐらい私の力でも出来る。」
「違います、私はリンクス様の妻なのです!」
彼女の言葉は純粋で真剣で、一片の打算も感じないほど誠実だった。
「はぁ、ジェシカ姫は真面目だなぁ。こんな男と添い遂げようなんて思わない方が良いよ。」
「真面目も何も私達はもうずっと前から夫婦なのですよ。」
「あんな誓いのキスすらしていないハリボテの結婚式なんて気にする必要無いのに。」
「……、えっ?キスしていない?」
「ああずっと緊張してたから覚えてなかったか。」
どうやら大変な思い違いをされていたようだ。
良くない。良くないなそれは。私の手が姫を穢した事など一度もないというのに。
「だとしても私達は結婚して夫婦になりました!そこは間違えないでください。
では一体どうして離婚しようと考えているのか教えて下さい。私ではリンクス様が何を考えているのか良くわかりません。このままの関係を続けるでも良いじゃないですか。
私だってこの2年間ダムス領の為に頑張ってきたんです。せめて理由は聞かないとサインなんてしませんよ。」
まさかこのタイミングで問答が詰まるとはなぁ。これじゃあまるで……、いや違う。あくまでもダムス領の運営と商会の発展への懸念が彼女にこういう態度を取らせているのだろう。
「こんな私でも戦場では王国一の知将なんて呼ばれていますがね、私はダメな男でしょう?私と夫婦にさせられた貴女ならわかるのでは。」
「私は自信を持って夫婦だと言える程リンクス様について分かっていないと思うのですが。しかしなんだかんだ言いつつも頭の良い方だと感じています。
そうでなければ仮にも知将だなんて呼ばれないでしょう?」
何だか先程から過剰に評価が高いような気がする。多少の虚栄心やプライドは私も持ち合わせているが真正面から褒められるとむず痒くなるな。
「本当に頭の良い人であれば戦を起こさせるまでもなく目標を達せられますよ。
それに私がやっているのは対処に過ぎません。被害が大きくなる行動を避け、相手には血を流させる。
つまり私の本質は人を傷つける事なのでしょう。どうにもその類の事柄を他人よりも得意としていまして、これまでに多くの者を傷つけてきました。
この2年間は特にそうです。口に出すのも憚られる様な事もたくさんやってきましたよ。帝国からはさぞ恨みを買っている事でしょう。
きっと私は貴女を傷付ける、それも取り返しの付かない傷を。
ですから私は傷つけない内に……いや、もう傷つけているのかな。まぁこれでも1番傷の少ない道を選ぼうとしていた訳です。
離婚したい理由はお分かり頂けたかと思いますがどうです?」
「……えっとつまり、私を傷つけたくないって事ですか?自意識過剰だったらすみません!
その、他に好きな人がいるとかだと思っていたのですが。」
「いやこれでも棺に入って帰って来ようとしてたんだけど。」
「そ、そうでした。では本当に?」
「貴女を傷つけたくない、穢したくない。言葉にするならそんな所でしょう。
それに好きな人が居るのは貴女の方ではないのですか、ジェシカ姫?」
「どういう意味ですか。私が浮気をしていたとでも?」
「違う違う、そんなつもりは滅相も無い。ただ私が命を落としていた場合、次の相手として選びたい人が居たのではないかという話だ。」
エジルリブがまとめたダムス領の運営記録から目星は付けてある。本来なら裏をとって身辺調査して私の方でも見極めておきたかったのだが、流石に1日では出来るはずもない。
「この情報からだと商会の幹部であるアッシュ、親衛隊のヘラグ、マイル皇国でのまとめ役をしているムリナール辺りが最有力だな。
エジルリブの可能性もあるし、王都から王子であるギャリー君も良く来ると聞いている。
君はもう選べる立場だ。どんな未来があってもおかしくないだろう。」
その時目の端で立て掛けた杖が倒れそうになるのに気が付いた。
カランと音を立てて倒れる杖にジェシカ姫の目が吸い寄せられる。その瞬間、私は姫の背後をとった。
姫の目線が正面に戻ると同時に背後から彼女を抱きしめる。「へっ?」と言う声と共に大きくビクッと体を震わせた。
不意の思い付き。つい体を動かしてしまったがもう既に少し後悔している。
「おとなしく離婚届にサインするといい。」
そう言いながらリンクスの指がジェシカ姫の首元を滑る。
「私の手がどれほど汚れているのか知らないんだろう。私の評判の悪さを知らないんだろう。
私がどんなに酷い人間なのか知らないんだろう。
最初に言った通り君に非は一切ない、そう世間的にも認められる。だから安心して。」
流石にこれはやり過ぎたか?こんな脅すような事をするつもりじゃなかったのに。
「すまない、流石にやり過ぎた。ちょっとした冗談だから……」
リンクスが手を離そうとするとジェシカ姫はその腕を押さえつける。
「待って下さい。許します、私達は夫婦なので。」
「そ、そうか。それはありがたい。」
「ですが申し訳ないという気持ちがあるなら、私を褒めて下さい。」
「え?褒める?」
「そうです。リンクス様も色々考えていたのかもしれません。しかし私だってこの2年間頑張ってました。
せっかく生きて帰ってきてくれたんです。それくらいしてくれても良いと思います。」
「この格好でか?」
「ほら早く!」
ジェシカ姫を褒めるなんて腕を離してもらうよう説得するよりもずっと簡単だ。
「あ、ああ。そうだな。初めエジルリブにジェシカ姫に領の運営をやらせてみれば良いと言った時は半分冗談だった。しかし貴女はやったんだ。
王国流の書類整理、経営法、知らない事だらけだっただろうに良くここまで軌道に乗せられた。素晴らしい。」
「もっと。」
「商会も凄いね。人の求める商品を扱う力、商機を逃さない目、従業員を引っ張るカリスマ性。その全てが合わさってここまで成長出来たんだ。
ダムス領と共にこれからも発展し続けるのは貴女の力だ。本当に頑張ってくれてありがとう。」
「もっと。」
「えっと、そうだな。
肌は白く滑らかで、髪はサラサラで良い香りがする。服は威厳が出てとても似合っている。
上に立つものとしての身だしなみが出来ていて、ってこれはちょっと気持ち悪いか。」
「もっと!」
「ええ、これ許されるのか。
初めて会った時から貴女は美しかった。ついつい姫の元に目が留まってしまう。生まれてこの方、貴女以上の人は見た事がない。
言動一つ一つが愛らしく、なぜ他人に愛されるのか私にだって分かったさ。」
「……。」
「でもだからこそ貴女は私と別れるべきだ。私より良い奴はいくらでも居る。貴女には好きな人と幸せになって欲しい。」
ジェシカ姫が後ろを向くと唇に柔らかい感触が襲った。
「へへっ、キスしちゃいました。」
「ちょっと何をして……」
「だって私達は夫婦ですよ。許して下さい。」
ジェシカ姫は小さくはにかむ。その目は私に何を期待しているのか雄弁に語っていた。
正直に言って私の頭の中は薔薇色だった。どこまで許されるのだろうかという興味がちらつく。
「良くない、良くないよこれは。このままじゃ手を離せなくなる。」
「私が傷つくような事があったとして、リンクス様は守って下さらないのですか?」
「きっと後悔するよ。あとで泣いても知らないから。」
リンクスの手がジェシカ姫の服の下へと伸びていった。
ジェシカ姫は我らが光であり、リンクスの業を背負いし者である