意図せぬ接触
「こほん……えと、すみませんでした……」
「……ふん」
女性の胸をそんな目で見てはいけない――と反省しながら、咳払いをしてごまかす。しかし向こうでエミリアが、「いやーん」と言いながら胸元を隠していた。全く隠せていないけれど。
「フィリーネ、落ち着け」
「……ん」
「はぁ……まぁいいや。んでな、リューヤ。フィリーネは帝国の魔術協会始祖にして、『魔術大公』と呼ばれている偉大なる魔術師アーサー・クラウドの一番弟子を先祖に持っている。弟子で唯一、アーサー・クラウド自身にクラウド姓を名乗ることを許された家系なんだ」
アーサー・クラウド。
確か檻にいたときに、ジェイクがぶつぶつ呟いていた人名の一つだったか――とやや薄くなりつつある記憶を探る。
この話を聞く限り、この世界は魔術というのがあって当然の世の中で、かつ協会ができるほど世間に認知されているのだろう。
「あと、フィリーネはヴォイド号の航海士もしてる。波の流れを読む才能は天下一品。加えて、無風のときなんかには風の魔術を使って船の動きをサポートしてくれるから助かってんだ」
「……別に」
「ま、そういうこった。フィリーネもリューヤと仲良くするように。リューヤ、魔術関係のことで困ったことがあれば、フィリーネに聞くといいぜ」
そんなジェイクの言葉にも、ふい、と顔を背けるフィリーネ。
恐らく竜也自身が嫌われているとかそういうわけではなく、単純にどんな相手にもこんな態度をとっているのか、それとも男嫌いかのどちらかだろう。仲良くなれそうにないな、という印象を抱きながら、ひとまず竜也は右手を差し出す。
「リューヤ・アサクラです。よろしくお願いします」
「……ん」
しかし差し出した右手に対して、フィリーネは短い言葉だけで返して顔を背けた。
半ば予想していた反応に、やれやれと苦笑しながら手を戻す。
「はぁ……まぁ、リューヤ、フィリーネも別に悪気があるわけじゃねぇんだ。これから仲良くしてやってくれ」
「……ん」
最初から最後まで無表情で、口数少なくそう締めるフィリーネ。
そこでぱんぱん、とジェイクが両手を叩く。
「ひとまず、紹介はこのくらいだな。エミリアは仕事に戻んな。フィリーネだけは残ってろ」
「……ん」
「じゃ、リューヤ。また後でねー。あーあ、甲板掃除せっかく抜け出してこれたのになー」
いい笑顔でサムズアップした後、エミリアは面倒臭そうに唇を尖らせながら船長室から出てゆく。言われた通り、仕事をしに行くのだろう。
そして船長室に残るのは、竜也とジェイク、それにフィリーネの三名。
エミリアが離れたのを確認して、ジェイクが口を開く。
「フィリーネ」
「……ん」
「リューヤなんだが、恐らくこの世界の人間じゃねぇ。故郷の名前なんて聞いたことがねぇし、常識も知らねぇ。俺の予想だが、『転移魔術』で異世界から来たんだと思う」
「……本当に?」
フィリーネの無表情が、僅かに動く。
じっとその視線は竜也に向き、そして上から下まで観察してから。
腰掛けていたソファから立ち上がり、ゆっくりと竜也の方へと歩を進める。
そして唐突に、竜也の頬へと両手を伸ばし、思い切り顔を近付けた。
「――っ!?」
互いの吐息がかかるほどに、近い距離。しかもそこにいるのが、美少女と呼んで憚りないフィリーネであるのだから、尚更竜也の鼓動は強く跳ね上がる。
フィリーネはしかし、そんな竜也の様子など歯牙にも掛けず、ただその瑠璃色の瞳でじっと竜也を見据え。
「……魔力は、高い。属性は火特化」
「へ?」
「鍛治師のように、火を使う仕事を長くやってきた魔力型。火精霊を無意識下で使役してる。でも『時属性』は皆無。一人で『転移魔術』を使用するのは間違いなく無理。ただ、全体的に『時魔術』の残滓は見える。設置型の魔法陣、もしくは触媒により強制的な転移を行わされたと思える」
饒舌にそう喋るフィリーネに、竜也は言葉を返すことができなかった。
火に特化した属性だと、フィリーネは竜也を評した。
鍛治師のように、火を使う仕事を長くやってきた――その通りだ。何も反論することはない。竜也は料理人であり、料理人にとって火は恐れるものではないのだ。
料理人だと、名乗った覚えもないのに。
この少女は、それを当ててみせた。
「なるほど。んじゃ、リューヤの元の世界にそういった技術があるってことか?」
「……不明。調べる」
そうジェイクと会話をしている間も、ともすれば唇が付きそうなほどに距離が近い。あまりに心臓が跳ねすぎて、鼓動で耳がうるさいくらいだ。
昔から料理一筋で生きてきて、女の子に対する耐性が全くない竜也に、この距離はあまりに刺激が強い。
女の子って、いい匂いするな……などと、思考が斜め上に行きかけたあたりで。
「フィリーネ……調べるのはいいが、ちょっと近すぎねぇか?」
「……ん。でも、仕方ない」
ジェイクの嗜める言葉に対しても、フィリーネは離れようとせず、じっと竜也を見据える。
漂ってくる甘い香りと、掛けられる吐息。
恐らく人生で今以上に顔を真っ赤にしたことは、かつてないだろう。触らずとも、頬に走る熱が分かる。
「……ん」
「分かったのか?」
「……分からない」
思わず、竜也はずっこけそうになった。
これだけ長い時間、天国のような拷問を味わった結果、進展なし。
大きくジェイクが溜息を吐くのが分かった。
「……ん、でも」
そこで。
竜也の足元が、大きく揺れた。
ここは船。そして船は海上にいる。現代技術で作られたフェリーですら、少なからず揺れが生じるのだ。それがこのような帆船であるならば、尚更だろう。
だが、そのタイミングが最悪だった。
「――っ!?」
「……?」
吐息がかかるほど近付いている状態で、船が揺れればどうなるか。それは簡単な帰結だ。
竜也の唇と、フィリーネの唇が。
触れ合って、いた。
「お、おいおい!?」
「……ん」
フィリーネが、竜也から唇を離し、そして数歩下がる。
竜也は、動くことができなかった。元より女性との関わりなどこれまで全くなく、女の子と手を繋いだ記憶すら、幼稚園まで遡らなければ存在しない。まごうことなきファーストキスである。
心臓が口から飛び出すのではないか、と思えるほどに強く高鳴っていた。そして同時に、強い罪悪感に心が支配される。
ろくに知らない女の子に、事故とはいえキスをしてしまった――!
「……リューヤ」
「ご、ごめんなさい、俺……!」
「……事故。いい」
フィリーネは少しだけ顔を背けて、そう言ってくる。竜也とてわざとしたわけではなく、事故であった、とそう言ってくれた。
良かった――そう、胸を撫で下ろす。
竜也と視線を合わせようとしないフィリーネは、僅かに頬を赤らめていた。恐らくフィリーネも、恥ずかしいのだろう。そう考えると、やはりとんでもないことをしてしまった――そんな罪悪感が湧き出てくる。
はぁ、と大きくジェイクが溜息を吐いて。
「おいおい、船長室で何やってんだよてめぇら……」
「……事故。仕方ない」
「まぁ、フィリーネが許してんならいいけどよ」
ジェイクのそんな言葉と共に。
唐突に、奇妙な音楽が鳴った。
「っ!?」
思わぬ音楽に、竜也は身を強張らせる。しかし竜也以外の二人はというと、別段特別な反応はない。
「もう夕食の時間か。リューヤ、食堂行くぜ」
「……ゆ、夕食?」
「ああ。さっきの音楽は、朝食と昼食と夕食の時間にそれぞれ鳴る魔術道具でな。さっきの音楽が聞こえたら食事の時間だと思ってくれて構わねぇ」
「あー……了解です」
学校でいうところのチャイムのようなものか、と納得する。
フィリーネが竜也に背を向け、無言で船長室から出てゆく。ああは言ったが、やはり怒っているのかもしれない。女の子にとってキスは特別な相手とする、大事なものだ。それを竜也が土足で踏みにじったのだから、そんな反応も仕方ないのかもしれない。
だが、竜也の胸の鼓動は、その背中を見るだけでも激しく高鳴った。
いくら今まで女の子と触れ合う機会がなかったとはいえ、たった一度の事故のせいで、初対面だというのに気になってしまう。
はぁ、と小さく嘆息。
そして共にジェイクが竜也を手招きしながら、「行くぜ」と言った。
食事か――思わず、期待に少しだけ喉が鳴る。
ここが異世界というのは理解した。ここが海賊船だということも理解した。
だったら、この世界をなるべく楽しむべきだろう。
竜也を唸らせる料理が出てくるのか――期待に胸を弾ませながら、竜也はジェイクと共に食堂へ向かうことにした。




