戦況を変えた一手
激しい怒声は、厨房にまで響いていた。
恐らく数は、敵の方が多いのだろう。食堂で聞くクルーほぼ全員の声よりも、遥かに多い怒声。声を聞いて人数を把握できるような特殊能力は持っていないけれど、竜也にもその程度のことは分かった。
だけれど、竜也のやるべきことは変わらない。
(作るのは、昔ながらのソース焼きそばだ)
誰しも一度は食べたことがあるだろう、懐かしい味のソース焼きそば。
縁日で匂いにつられて買ってしまったこともあるだろう一品。それを限りなく、異世界で再現してみせる。そんな気合と共に、竜也は材料を刻む。
一般的なソース焼きそばに使われる材料は、豚肉、キャベツ、ニンジン、玉ねぎ、もやしである。野菜炒めを作る要領で全体に火を通し、その後麺と共に炒め、火が通ったら全体にソースをかけるのが定番だ。完成した品には青のり、かつお節、マヨネーズを好みでかけ、横に紅しょうがを添える――それが普通の認識だろう。
だからこそ、それに倣う。
使用する材料はベック(キャベツ)、キュロート(ニンジン)、オレオ(玉ねぎ)、ガリク(にんにく)、デーロック肉(豚肉)。残念ながらもやしのような野菜は存在しないが、やはり焼きそばにはもやしのシャキシャキ感が必要でもあるため、代わりにグプスル(白菜)の根元部分を使用することとする。全て、竜也がこの世界に来てから市場で確認した、最も味の近い野菜だ。
まずベックをざく切りにし、ある程度形が残るようにする。キュロートは短冊切りで、少し薄めに切っておくことにした。ニンジンというのは子供の嫌いな野菜でも上位にランクインすることが多い野菜でもあるため、少しでも食べやすくするための配慮だ。
さらにオレオは四等分に切ってから厚めにスライスし、全体をほぐす。ガリクは全体的な臭み取りのためであるため、薄くスライスだ。塩抜きしたデーロック肉は細切れにして、食べやすい大きさに。少しだけ肉を多めにするのは、竜也の好みの問題である。
もやしの代わりの採用したグスプルは、マッチ棒くらいの大きさに刻む。元より白菜と言う野菜はシャキシャキ感を売りにしている物でもあるため、細めに切っても残るはずだ。もっとも、もやしの代用として使ったことはないため、未知数の味ではある。
全体的に切れたら、今度は中華なべで炒める。いつもならば油の代わりにバターを使用するところだが、今日に限ってはバターの香りが完全に邪魔になるだろう。その代わりに、デーロック肉の脂を引いた。少し臭みが残る脂ではあるけれど、デーロック肉との相性は良いだろう。
そこで一旦、火石の魔力を切る。
現在、中華なべの中にあるのはただの野菜炒めだ。そしてソース焼きそばに最も必要なもの――それは、麺である。
今回、竜也が打った麺は生麺だ。そもそも麺料理を専門にしていない竜也にすれば、調理師学校で学んだことを思い出しながら行っているに過ぎない。
(確か……沸騰した湯できっかり一分。終わったらしっかり水を切ってキッチンペーパーで拭く、油をかけて全体をなじませる、だったな)
きっかり一分を計測する道具もなければ、キッチンペーパーのような便利な代物もない。更に言えば、油の代わりになりそうなのはバターかデーロック脂しかない。バターでは焼きそばそのものが洋風になってしまうので、採用するならばデーロック脂だろう。やや残る臭みが心配ではあるけれど、一応ガリクは入れてあるため問題あるまい。
ひとまず、作るのは一人分。竜也の分だけだ。
どんな料理でも、竜也はまず自分で食べる分だけを作る。それで味見をして、問題ないようならばクルーに提供する。そのため、竜也の分の食事を用意することはほとんどない。最近では味見をした後、エミリアに渡すと全部食べてくれるので助かっている。
もっとも、最近はエミリアは味見の品と自分の食事と両方食べているため、これから太るのではないかと心配しているけれど。
味見の品を作るのに、あと数分といったところか。問題なければ、そのまま全員分を作れば良いだろう。味に問題があるようならばメニューを変えねばならないため、なるべく早く作れるメニューを開発しているけれど、現状では出番がない。大体の料理は想定通りに出来ているからだ。
ぐつぐつと煮えたぎる鍋。
一分程度の時間、正確に測る自信はある。伊達に浅倉屋洋食店の揚げ場を担当していたわけではないのだ。
竜也は意を決して、鍋の中へと生麺を投入した
。
戦況は、ヴォイド号に有利な展開を見せていた。
エミリアを筆頭とするヴォイド号戦闘員は、相応の熟練を見せる兵が多い。比べて『鉄腕』の一味はあまり戦い慣れていないのか、倍の数だったというのに全滅していた。
フィリーネも、『鉄腕』の一味にいた魔術師四人を相手に結界を張り、全ての魔術を耐え切ってみせた。そして向こうの結界が薄れると共に攻撃魔術を仕掛け、こちらも完勝した。
しかし――仕事を終わらせたエミリアと戦闘員たち、そしてフィリーネが固唾を飲んで見守るのは、甲板の中央で行われている、最も大切な戦い。
疲労に息を荒げ、鉛のように重くなった腕でどうにかサーベルを構えているジェイク。
にやにやと余裕の笑みさえ浮かべながら、ジェイクに向けて鉄の腕を構えているヒルデガルト。
大勢を決する船長同士の戦いは、敗勢に近い。
フィリーネも見ていたが、ヒルデガルトは恐ろしく強い。
その最大の理由が、両腕を包む鉄の篭手だ。鉄というのは非常に比重が重いものであり、鉄の全身鎧をまとって自由自在に動ける人間などいないだろう。
ジェイクとて、鉄で覆っているのは一部の急所のみだ。それ以外は、基本的に革で防ぐようにしている。
だが、ヒルデガルトはそれだけの重みを抱えながらにして、恐ろしく素早い。
ジェイクの変幻自在の刺突を、全て両腕で受け止める。そして距離を詰めてきては、一撃必殺の腕の振り下ろしでジェイクを葬ろうとしてくるのだ。ジェイクがどうにか距離をとって魔術を放つも、それも同じく両腕で受け止める、逸らす、弾く――対処されてしまう。
今のところ、全ての殴打をジェイクはかわしている。だけれど、それもいつまで保つか分からない。
ジェイクの体への負担もそうだが、更に船への激しい損傷もその理由だ。
ヒルデガルトが鉄腕を振るうたびに、甲板には大穴が開き、柵が砕かれ、マストが折られる。既にヒルデガルト一人のために、ヴォイド号は船としての役割を放棄するような状況まで追い込まれている。
メインマストは半ばからへし折られ、操舵輪は打ち砕かれて飛んでいった。今でこそダメージは甲板のみだが、この戦闘が続けば最悪、船底に穴を空けられ沈みかねない。
だが、そんなヒルデガルトの暴虐を、ジェイクに止めることができないのが、現在の状況だ。
じっと見守るのは、ヴォイド号のクルーのみ。傍から見れば、包囲をしているように見えるかもしれない。
だが、船のトップ同士の戦い――それに水を差すことは、できない。
海賊とは無法者だ。それでも、守るべきルールはある。
一騎討ちに手を出すことは、できないのだ。
それはある種の信頼。自分たちを率いる船長であるジェイクが、誰よりも強いと信じているから。
実際に、ジェイクは強い。
これまでに出会った海賊の船長で、ジェイクに討てなかった者などいないのだ。
「速いじゃないか、兄さん」
だけれど――そんなジェイクに比べて、ヒルデガルトは更に強い。
「は、ぁっ……手前も、なかなか、やる、じゃねぇか……」
それは、傍から見れば明白なほどに。
ヒルデガルトの一撃必殺の攻撃を凌ぐために、全力で回避し全力で距離をとるジェイクの疲弊は、既にピーク近くまで達している。
幸いにして現状、ジェイクは攻撃こそ受けていないが、フィリーネから見ても疲労が限界だということは分かる。
比べてヒルデガルトは、未だに半笑いを崩さない程度にしか疲れていない。
それはジェイクの動きが全身を使って変幻自在に動き回るのと比べ、ヒルデガルトは最低限の動きでしか防御をしていないからだ。
回避と防御。
その疲労は、回避の方が圧倒的に強い。
「へぇ、アタイの一味はもう全滅したのかい。あんたはともかく、クルーはまぁまぁ強いのが揃ってんじゃないのさ」
「う、るせぇ……」
「まぁ、せっかくだ。アタイが勝ったら、アタイがあんたの代わりに率いてやんよ」
くくっ、と笑いながら、囲んでいる戦闘員を睥睨するヒルデガルト。
絶対に御免だ。
少なくとも、フィリーネは。
こんな、頭のネジがぶっ飛んでいるような奴に、従いたくなどない。
「……まずい」
口中だけで、そう呟く。
分は、完全にジェイクに悪い。現状、保っているのが奇跡と言って良いほどだ。そして、囲んでいるフィリーネたちから手は出せない。
「さあて、そろそろ死んどく?」
「残念、だが……はぁっ……死んで、やれねぇよっ……!」
ヒルデガルトが鉄腕を振り上げ、駆ける。
全力で、ジェイクはあとどれだけ動き回れるだろうか。そして、あとどれだけヴォイド号は保ってくれるだろうか。
そして、ジェイクが倒れればヴォイド号はヒルデガルトの支配下に置かれるか、もしくは全滅するかの選択肢しかない。
ジェイクに勝てない者に、他のクルーの誰も勝てるはずがないのだから。
ぐっ、とフィリーネは杖を握りしめる。
最後の最後は、フィリーネとて戦う覚悟はある。海賊の矜恃のもとに、死ぬ覚悟もある。
――フィー。
そこに、微かな楔は、あるけれど。
「……くっ!」
「あーあ、すばしっこいねぇ」
ヒルデガルトの激しい振り下ろしを、ジェイクは横に飛んで回避する。
激しい音と共に、ヴォイド号の甲板に穴が開く。最早船と呼べず、ただの海に浮かんでいる木材の塊に過ぎないヴォイド号に、修理を嘆く余裕などない。
状況を変える、一手が欲しい。
最悪の状態を、せめて一歩前に進めるだけの要素が。
「いくよぉ……あん?」
そこでふと――唐突に、ヒルデガルトの動きが止まった。
まるで、ジェイクではない何かを気にしているような。空に何かが存在しているために、それを警戒しているかのような。
どこか――焦燥感溢れる、ような。
「こいつは……何、だい……?」
ヒルデガルトが何を気にしているのか、ジェイクには分からない。
だけれど。
ヒルデガルトの表情から、余裕が消えていた。
しきりに鼻を動かし、どこかを虚ろに見つめている。その視線に、ジェイクは入っていない。その半開きになった口元から、涎を垂れ流している。
まるでそれは――あの日の、フィリーネのように。
「……まさか」
フィリーネは、様子の変わったヒルデガルトを見ながら、そう呟く。
すん、とフィリーネの鼻に、濃厚な香りが漂った。