表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/29

厨房と甲板

「やばい、恥ずかしい」


 甲板でフィリーネに胸を借り、思い切り泣いてから既に三日。

 あの後、竜也は当然厨房に戻って泣き腫らした目のままでサバをさばき、塩焼きにして食事に出した。誰かが「涙の味がするなぁ」と言い出し、ニヤニヤし始めたために終始針の筵のような状態だった。

 その後は特に何も言われることなく、竜也からも特に何も言い出すことなく、食事を作る側と食べる側の関係に戻った。

 しかし――こうやって思い出すと、それだけで赤面してしまうのだから、自爆にも程がある。

 少しでもやることがなければ、フィリーネの顔がちらついてしまう。いくら目の前で泣いてしまい、胸を借りてしまったからといっても、あまりにも意識しすぎだろう。

 フィリーネにとって、竜也は家族なのだ。

 家族であるからこそ、竜也が泣いていたから胸を貸してくれた。それだけだ。フィリーネの行動に対して、そのような情念を抱いてしまう自分が、どこか汚らわしくさえ思える。

 竜也は、料理さえ作ることができれば他に何もいらない。そう真顔で言える人間だ。

 趣味は料理。特技も料理。興味も料理。生きがいも料理。

 だからこの感情に――名をつけることが、出来ない。


 どうしようもないモヤモヤを心の内に抱えたまま、コトコトと煮込まれる目の前のそれを見る。

 大方の手順は終わり、あとは煮詰めるだけというところまで来てしまったため、こうやって考え事をしてしまうのだ。

 目の前で煮込んでいるのは、ウスターソース。

 一般的には、ニンジンや玉ねぎ等の野菜、リンゴを煮詰め、そこにクミンやシナモン等の香辛料を入れる。その後ミキサーにかけて全体を漉し、出てきたものがウスターソースとなる。これに対してケチャップやマヨネーズ等のコクのある素材を入れることで、濃厚なソースとする場合もある。

 だが、サン・ユディーノでは香辛料を売っていなかった。

 少なくともクミンやシナモン、ナツメグといったものは存在しなかった。だからこそ、恐らくこの世界では香辛料というのが一般的ではないのだろう、と思ってこれまで作ってこなかったのだが、先日、転機が訪れたのだ。


 ホプキンスの商船が置いていった、みかじめ料。

 その中にあった、『虫除けの粉』という壷。

 壷の中にはなんと、香辛料がたっぷり入っていたのだ。

 クミンやクローブといった香辛料は『辛く香る』と書くように、そのものが強い香りを持っている。そのため、虫除けにも使うことができるのだ。

 だが、現代社会で香辛料を虫除けに使っている場所など、全くない。竜也がこの香辛料を発見した理由も、フィリーネに厨房の虫除けに使え、と少し渡されたことが発端だ。

 その後発見した香辛料の入った大壷は、竜也が譲り受けた。そして早速、香辛料を使って何かできないか、と探ったのだ。


 結果が、ウスターソースの自作である。

 香辛料といえばカレーがまず思い浮かぶかもしれないが、残念ながらカレーというのは割と香辛料が限定される。クミンからカレーの香りがすることから分かるように、メインとなるのはクミンなのだ。

 だが、虫除け香辛料は様々な香辛料が乱雑に突っ込まれており、竜也にもよく分からないものが多かった。だからこそ、必死に香辛料の壷からクミンを少し、ナツメグを少し、胡椒を少し、唐辛子を少し……と視力と戦いながら回収した。ちなみにエミリアにも手伝わせたが、早々に愚痴ばかり言い出したので追い出した。

 その結果、二十人分は作れるであろうウスターソースが完成したのである。

 これは、クルーの全員に美味しいソースを食べてもらいたい、という思いもあってのことだが、最も大きいのは竜也自身の郷愁である。


 ソース。

 それは、日常生活には必ず存在するものだ。

 誰だって、一度は経験があるだろう。たこ焼き屋の前を通りがかり、漂う香りに足を止めたこと。別段食べたかったわけでもないのに、ソースの香りに誘われて思わず買ってしまったこと。そんな魔力が、ソースには存在するのだ。

 だからこそ、竜也は久しぶりに食べたかった。そんな思いが、ひたすらにウスターソースを作らせた。

 おかげで、厨房全体にソースの匂いが漂っている現状である。

 出来上がったウスターソースを一舐めして、うん、と頷く。限りなく、現代社会において一般的なウスターソースに近付いただろう。

 ならば、次は何が必要か。そんなものは決まっている。


 ソースがあるならば、そばを作る以外にない。

 そばを打つために必要なのは、強力粉、卵、塩だけだ。焼きそばを作ろうと決めた瞬間に、強力粉の代わりにライ麦粉を使用し、卵と塩を入れて混ぜ、薄く延ばして刻んだものを既に用意している。生めんであるため傷みが早いが、今日中に使い切れば問題はないだろう。

 今日の昼食は、手打ち麺の焼きそばだ――!








 太陽は中天に輝き、遍く海を照らしている。陽光に映える水面は、風が少ないためか随分と凪いでいた。

 フィリーネは甲板で、そんな水平線を見つめていた。

 しかしそれは、風を楽しむだとか海の景色を楽しむだとか、そんな暢気な理由ではない。実際、フィリーネの表情は真剣で、未だ豆粒ほどの影しか見えない海の向こうを見つめている。

 その右腰に携えるのは、愛用の杖。これまで、数多の海賊を屠ってきたフィリーネの武器である。魔術を使えば効果を増し、殴りつければ金剛石の先端で打ち砕く――愛用の武器だ。


「……嵐の前の静けさ」


「割と海に出て長いが、嵐の前に静けさがあった覚えがねぇな。嵐の前には暴風雨があるし、暴風雨の前には雨風がある。その前まで遡っていいなら、静かだって言えるかもしれねぇけどよ」


「……ん」


 ジェイクの軽口に、フィリーネは頷く。

 しかしそんなフィリーネの反応に、ジェイクは小さく溜息を漏らすだけだった。


「んで、あれは間違いねぇのか?」


「……ん。監視のクルーが旗印を確認した」


「髑髏の印に交差した二本の鉄の腕……間違いなく、ムーラダールの賞金首、『鉄腕』の船か」


「……敵の、規模は?」


 フィリーネがそう尋ねる。

 ジェイクは嬉しそうにしているものの、付き合いの長いフィリーネには、少しばかり緊張しているのが分かった。

 ふぅ、と小さく溜息。


「少し前の情報にはなるが、一味は全部で四十人を超えるはずだ。船長は『鉄腕』って異名しか知られてねぇな。んで、五百万アルの賞金が首にかかってる。あとは雑魚だな」


「……魔術師は?」


 んー、と小さく呟いて、ジェイクは右手の望遠鏡を、まだ豆粒程度の大きさしか見えない敵船へと向ける。

 その先に見えるのは、規模の大きな海賊船。正面には砲門が見え、船の先端に巨大な鉄の腕を模したオブジェを装着している。


「そこまでは分からねぇが、随分と巨大なガレオン船だ。風が結構吹かないと動かねぇ状態だから、多分風の魔術を使える奴はいると思う。あと、船の正面に砲門が四つあるな。一応、接近する前に結界だけ張っておいてくれ、フィリーネ」


「……ん」


「ひとまず、エミリアにクルーの指揮を任せる。多分、敵の方からこっちに向かってくるだろうから、敵の侵入を許さないように戦ってもらう。んで、俺が『鉄腕』を相手にする」


 そんなジェイクの言葉に、フィリーネが大きく嘆息する。


「……船長は、奥で、どっしり構えるもの」


「そう言えない状況なんだから仕方ねぇだろ。俺だって働きたくねぇよ。それに、『鉄腕』も、船長が先頭に立って敵船を襲っているらしいぜ。だったら、こっちも一番強ぇので相手するしかねぇだろ」


「……ん」


 ヴォイド号において、最も強いのはジェイクである。

 ヴォイド号は、海賊を討伐する海賊だ。

 勿論海賊は、腕っ節に自信のある者が船を襲う、という生業でもあるため、腕の立つ者が多い。そして、最も強い者が船長をしている船というのも珍しくはない。そんな敵海賊との戦いにおいて、最も船長首を挙げてきたのはジェイクなのだ。

 だからこそ、今回の戦いにおいて『鉄腕』を相手にするのは、ジェイク以外にありえないだろう。


「……砲撃は?」


「そうだな……」


 少しだけ悩んで、ジェイクは敵の船を見据える。


「最初に、二、三発ぶっ放しとけ。当たろうと当たるまいと、どっちでもいい。まぁ、できれば無事に積荷が欲しいし、『鉄腕』の首も貰い受けたいがな。海の底に沈んでもらったら、回収できねぇしよ」


「……ん」


「俺が『鉄腕』と戦っている間、残りの雑魚は手前らに任すぜ。フィリーネ、敵の魔術師は手前が全員ぶっ潰せ」


「……フィー、一人で?」


「お、無理なのか?」


「……燃える」


 くくくくっ、とジェイクが笑う。

 そしてジェイクは手元の宝石――船内に対して、連絡を行うための魔術道具――へ向けて、声を発した。

 それは、戦いの合図。

 敵が現れたことの、証。


「総員に伝達。前方に海賊船を発見。戦闘配置につけ。繰り返す。前方に海賊船を発見。戦闘配置につけ」


 それはヴォイド号全体を回り、全員を招集するための号令。

 ヴォイド号は、この日、本来の姿に戻る。


「よっしゃ、腕が鳴るじゃねぇか」


「……ん」


「来ーたーよーっ! 敵どこ敵どこ!? ひゃっほー、暴れちゃうぞーっ!」


 その生業は、海域の平和を守ること。

 その仕事は、海域の安全を守ること。

 その任務は、海域の治安を守ること。

 されど、その一味。


 海賊なり。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ