約束
「え、ええと……」
どうやら、自分のことは愛称で呼べ、とそう言っているらしい。
いいのかな、と思いながらも、しかし本人がそう言っているのだから問題はないだろう、と勝手に考えて納得することにする。
「分かった、フィー。よろしく頼む」
「……ん」
相変わらず、竜也から顔を背けたままで、フィリーネは短くそう答える。
どことなく頬が紅潮している気がするのは、恐らく異性である竜也に前触れなく触れられたからだろう。
基本的に男社会である海賊船であるといえ、フィリーネは若い女性だ。
それも、見た目だけならば元の世界における中学生。下手すれば小学生に間違われてもおかしくないほど、幼い見た目である。エミリアのように女性としてではなく、他のクルーからも子供のような扱いをされているのかもしれない。
かーっ、と、竜也の頬に熱が走るのが分かった。
「……聞いて、いい?」
「え、あ、うん?」
柔らかな感触を思い出して、しかし罪悪感を覚えながら、竜也は生返事を返す。
あれはあくまで、事故だから許してくれただけだ。
それでも、ついフィリーネの口元に目が行ってしまう。
「……どうやって……転移、したの?」
まだ少し顔は赤いけれど、ようやくフィリーネは、質問と共に竜也と視線を合わせた。もっとも、顔の赤さならば竜也も全く負けていなかったけれど。
変わらぬ、感情の読めない無表情。だけれど、どことなく頑なな様子も窺える。竜也にはよく分からないけれど、フィリーネはジェイク曰く一流の魔術師だ。魔術に関しての知識に対しては、貪欲になるのかもしれない。
それは、竜也が料理に対して感じることと同じか。
「……どうやって、って聞かれてもな」
しかし、その問いに対しての答えを、竜也は持ち合わせていない。
何故竜也がこの世界に来たのか、という質問は、むしろ竜也がしたいくらいだ。単に卵をスーパーに買いに行っただけなのに、何故か奴隷の販売所の檻の中へと突然移動して、なし崩しにジェイクに買われて海賊船に乗っているのだから。
元の世界で話せば、笑われるか頭を疑われるかどちらかの反応しか期待できないほど、あり得ない体験だと言えるだろう。
「正直、分からない。気付いたらこの世界にいた。だから、どうやって転移したのかっていうのは、俺が聞きたいくらいだ」
「……そう」
「フィーは、見当ついてるのか? 俺がこの世界に来た方法って」
竜也にはさっぱり分からないが、もしかすると一流の魔術師であるフィリーネならば予想くらいはついているのかもしれない。
そんな一縷の望みを抱いて尋ねてみたが。
「……」
ふるふる。
小さく、フィリーネは首を振った。
「そっか……」
「……でも、聞いたことは、ある」
「聞いたこと?」
「……リューヤと、同じ人」
竜也と同じ人。
多分それは、竜也と同じ異世界の人間ということだ。突然の転移で異世界にやってきて、そしてフィリーネが知っているほどに名を残した、という実績があるのだろう。
「その人って……」
「……聞きたい?」
「ああ」
一も二もなく、頷いた。
竜也自身、現在の環境にそれほど不満を持っているわけではない。竜也の料理を期待してくれているクルーが大勢いるし、材料を好きに仕入れられる環境もある。人員こそ竜也一人だが、それでも買出しにはエミリアも手伝ってくれたし、窯を作るにあたってはフィリーネが手伝ってくれる予定だ。「料理長」と様々なクルーが呼んでくれる現在の環境は、むしろ嬉しいものと言える。
だが、元の世界に対する憂いは、当然のようにある。
浅倉屋洋食店は、基本的に両親と竜也だけで切り盛りしている店だ。たまにアルバイトが入ることもあるけれど、最近入っていたアルバイトの青年も就職が決まったと言って辞めてしまった。
つまり竜也がこの世界に拘束されている以上、店は両親だけで運営しているのだ。まだそれほど年老いているわけではないが、竜也の記憶が正しければ、父の譲二は四十五になるはずだ。バイタリティ溢れているけれど、十分中年なのである。
だから、帰りたい。
元の世界に、帰りたい。
そんな竜也の内心を知ってか知らずか、フィリーネはゆっくりと口を開く。
「……北の、小さい国。オルヴァンス王国」
「オルヴァンス王国?」
こくり、とフィリーネは頷いて、続けた。
「……そこに、異世界の人が、いた」
「俺と、同じ世界の?」
「……それは、知らない」
それもそうか、と竜也は頬を掻く。
竜也が知る世界は、元の世界のこの世界の二つだけだが、現実に異世界にやってきたわけであるし、異世界がここだけとも限らないだろう。
もしかすると、魔物が跳梁跋扈しているような恐ろしい世界もあるかもしれないし、魔王を倒すために勇者を召喚するような世界もあるかもしれない。つまり、『異世界の人』というだけでは、竜也と同郷なのかどうか分からないのだ。
「……オルヴァンス王家に、仕えてた、らしい」
「王家に、か……」
「……そう。だから、フィーも、詳しくは知らない」
確かに、王家に仕えていたということは、それだけ素晴らしい人材だったということか。竜也には全くそういった知識はないけれど、農業の改革だとか黒色火薬の作成だとか、あとは羅針盤、活版印刷などの産業革命の引き金になった技術などを提供すれば、異世界においてある程度の基盤はできるのかもしれない。
残念ながら知識が料理に偏りすぎている竜也には、全く提供できない知識ばかりだが。まさに名前しか知らない知識である。
「……でも」
「ん?」
「……その人は、もう、いない」
「それは……」
「……元の世界に、帰った、らしい」
「――っ!?」
元の世界に帰った。
つまり、この世界には――帰る方法が存在する、ということだ。
それは恐らく魔術。以前ジェイクが言っていた『魔術大公』アーサー・クラウドという人に頼んだのだろうか。いや、言い方からすると故人のように聞こえたし、もしかすると別の凄腕魔術師に頼んだのかもしれない。
だが、竜也にとってそれは光明だった。
世界のどこかに、竜也が元の世界に帰るための方法が存在する。ならば、その方法を探せばいい。
この世界に何の伝手もない竜也には難しいことかもしれないが、それでも、帰る方法があるならば探さない手はないだろう。
「……リューヤ」
「ん?」
「……帰りたい?」
澄んだ眼差しで、フィリーネはそう問う。
それは、竜也の心を測っているかのような問いかけ。
「ああ……帰りたい」
「……そう」
少しだけ、答えるが躊躇われたけれど、それでも本音を答える。
竜也を信頼してくれたフィリーネ。竜也を家族と認めてくれたジェイク。竜也をいつもからかってくるエミリア。竜也を料理長と慕ってくれるクルーたち。
まだ短い時間しか経ていないけれど、竜也自身も、彼らのことを家族だと思っている。
だからこそ――帰りたいと思う気持ちは、裏切りにも思えて。
「……リューヤ」
そんな竜也の内心を読んだのか、フィリーネは一歩、二歩、と竜也に近付いて。
竜也の右手を、その小さな両手で包んだ。
先程は振り払われた、手と手の触れ合い。フィリーネの少し冷たい掌が、しかし柔らかく竜也の右手を包み込む。
思わず、どきりと心臓が跳ね上がる。
「……リューヤが、帰りたい、なら」
目を伏せて、フィリーネはそう呟いて、そして両手に力を込めた。
それはまるで、決意の証であるかのように。
「……フィーが、見つける」
「え……?」
「……リューヤの、帰る、方法」
フィリーネは、小さいながらも力強く、そう言った。
「フィー……?」
「……フィーは、魔術師。一流、だから」
「そ、それは……」
「……だから、リューヤ、安心して」
ジェイクが、いつか言っていたこと。
転移魔術は、『魔術大公』アーサー・クラウドくらいのレベルでなければ扱えない技術。
それが世界でもトップクラスであろう、ということは、竜也にも大体分かる。そんな二つ名がついているくらいなんだから、余程の大魔術師だということだろう。
フィリーネはそんな大魔術を、竜也のために探してくれる。竜也を元の世界に帰すためだけに、使いこなしてくれる。そこにフィリーネの魔術師としての矜持もあるのかもしれないが、竜也にしてみれば些細なことだ。
「そっか……ありがとう、フィー」
「……ん。いい」
少しだけ紅潮した頬でそっぽを向くフィリーネに、竜也はつい微笑んだ。