プロローグ
浅倉屋洋食店。
都内にある、それなりに老舗の洋食屋だ。勿論、江戸前寿司だとか代々続く和食料亭なんかと比べれば歴史は浅いが、現在の店主、浅倉譲二の時点で四代目になるというそこそこの老舗である。
初代店主、浅倉宇堂の頃には十そこそこしかなかったメニューも、代を重ねるにつれその数を増やしてゆき、現在では百を超える品がメニューにずらりと並んでいる。もっとも、洋食店と名を掲げているもののメニューは洋食に限ったものではなく、丼ものや和風の定食もある。昨今のファミリーレストランの台頭からくる客離れからどうにか逃れようと、その食事のジャンルは和洋折衷だ。
そんな厨房で、四代目店主浅倉譲二が長男、浅倉竜也はフランパンを振っていた。
鶏肉と玉ねぎ、刻んだ人参と混ぜ合わせたチキンライスを火の勢いに負けぬとばかりに振り、パラパラとほぐしてゆく。その中にケチャップを少量投入して赤く色づけし、ある程度まで炒めた後で、横に置いていた独自のブレンドであるカレー粉を投入。
ドライカレーのようなチキンライスをさらに振り、少しだけ置いて隣のコンロへ火を灯す。
軽く油を引いたそこに、片手で鶏卵を割り入れてからほぐし、やや厚めの卵焼きを作る。火が通る間にもう一度チキンライスを振り、さらにカレー風味が全体に行き渡るようにほぐしてから白い皿へ。
ふんわりと漂うカレーの香り。その上へとおもむろに半熟の卵焼きを置き、中央から割って全体を包み込む。熱さが逃げないうちに、半分ほどにデミグラスソースをかけ、パセリをサイドに置くことで彩り良くすれば完成。
これが浅倉屋洋食店オリジナルメニュー、ドライカレーのオムライスである。
「十二番さんオムライスお待ち!」
「あいよっ!」
額の汗を、首にかけたタオルで拭いながら皿を差し出す。
それを阿吽の呼吸で受け取るのは、まだ少女とさえ呼んでいい外見の女性だ。流暢に日本語を喋っているが、見た目は完全に北欧系の白人である。黙っていれば人形のような見た目だが、実際に喋ってみれば完全に『定食屋のおばちゃん』なのが玉に瑕だ。
「お待たせ、オムライスね」
「ああ、ありがとう」
大抵の客は外国人の少女が給仕をしていることに驚くのだが、カウンターに座る男性客は特に気にするでもなく、オムライスを受け取った。ここ一年くらい、毎日見かける常連だ。
だから多分知っているのだろう。
少女が浅倉ハンナ――店主、浅倉譲二の妻であり、竜也の母である、と。
「……うん、美味い。息子さん、相変わらずいい腕だね」
「そりゃどうも。まぁ、まだまだひよっ子ですよ」
そんな男性客に応対するのは竜也でもハンナでもなく、カウンター越しに別の調理をしている店主、譲二。四十を少し過ぎた程度、といった外見であるが、彫りの深い顔立ちをしており、厳つい印象すら持てる。
それもそのはず――譲二は、日本人の父と外国人の母の間に生まれたハーフなのだ。アングロサクソンな容貌は外国人の集まるバーにいても違和感がないらしく、一度ドイツ人に同郷の人間だと思われたこともある。とはいえ、日本生まれの日本育ちで日本語しか喋ることができず、強いて他に喋れる言葉は江戸言葉くらい、という詐欺のような男だった。
そして、ハンナと譲二の間に生まれた長男、竜也。
当然ながら、日本人の血は四分の一しか入っていないため、顔立ちはより日本人離れしているのかと思いきやそうでもない。アングロサクソンな父とユダヤ系な母の遺伝子はそれぞれ別方向に発揮されたらしく、見た目は日本人らしく生まれてきた。そこそこに美男子と言って良い見た目なのだろうけれど、アングロサクソンな父の目付きを見事に受け継いで吊りあがった目つきは、いつも不機嫌そうにしているようにすら見える。本人はすこぶるご機嫌でも、だ。
次の注文は――と探りながら、先程までチキンライスを炒めていたフライパンを流しに入れる。代わりに新しいフライパンを出し、コンロの上に置く。
(次は……カキフライか。油の温度は、っと……)
焼き場から揚げ場へと移動し、軽くパン粉を油の中へ。チリチリと揚げられるパン粉に、油は十分な熱が通っていると判断する。そのまま冷蔵庫に行き、生牡蠣を取り出す。浅倉屋洋食店では冷凍の牡蠣は一切使わず、常に殻付きの生牡蠣を使用しているのだ。より新鮮なものをより美味しく提供するためである。
世の中には牡蠣の殻剥き専用の器具が存在すると聞いているが、浅倉屋洋食店にそんなものは存在しないため、全ての作業はキッチンばさみで行う。牡蠣の先端を切り落とし、そのまま刃先を中へ突っ込んで、捻ればバキッ、という音と共に綺麗に殻が剥けるのだ。
軽く水洗いしてパン粉へ付けて――。
「いやー、しかし本当に息子さん、若いのにいい腕だねぇ」
「へい、どうも。つってもまだ十九の若造ですよ」
「十九!? へぇ。てっきりもっと上だと思っていたよ。未成年であれだけ焼き物と揚げ物を回せるなんて、凄いねぇ」
「いやー、もうせがれも十年近くここで働かせてますからね。これで調理場回せなきゃあ、才能がないどころか料理をする資格もありやせんさ」
うるせぇ、と心の中だけで毒づいて、竜也は譲二を睨みつける。元来目付きの悪い竜也は黙っているだけでも睨まれている、と思われるため、実際に睨みつけると怖がる連中が多いのだが、残念ながらそんな竜也を生まれた時から知っている譲二には何の効果もなかった。
パン粉に浸した牡蠣四個を、一斉に油の中へ入れる。パチパチとパン粉が爆ぜる音と共に、徐々にパン粉が色づいてゆく。
牡蠣は冬になるとノロウィルスという食中毒の原因菌が蓄積されて、加熱が悪いとそれによる集団食中毒を起こすこともある。そのためしっかりと加熱して殺菌しなければならないのだが、かといって加熱しすぎると牡蠣から水分が抜けてパサパサになってしまう。そのため、あまり加熱しすぎてもいけないのだ。
そのあたりの塩梅はこれまでやってきた勘で、カキフライの表面をじっと見据える。
「しかし十年ねぇ。ってことは息子さん、九歳のときから働かせてるのかい?」
「ええ。九歳にもなりゃ分別もつきますし、料理人の修行を始めるには十分ですよ。つっても、最初は下拵えと洗い場しか任せられませんでしたけどね」
「へぇー。よく文句も言わずに働いたねぇ」
「なぁに、ハイハイもできねぇ頃から、ガラガラ渡しても泣き止まなかったくせにフライ返し持たせりゃあニコニコ笑ってたガキだったんですよ」
「ははは! そりゃ本当かい!」
「親父! いい加減にしろ!」
さすがに、会話が竜也の子供の頃に移行し始めたため、そう声を出す。しかし譲二は、へっ、と鼻を撫でてケラケラ笑った。
「しかし、親父さんも安心だね、これだけ立派な跡継ぎがいれば」
「いやいや、まだまだひよっ子ですよ。近々修行に出してやらなきゃと思ってますからね」
「修行というと、他の店とかにかい?」
「いや、海外でさ。俺も昔、五年くらい海外に修行に行きましてね。せがれにも同じ経験を積んでもらわなきゃいけねぇ、ってね。まぁ、俺はそこで料理も勉強したんですけど、ついでに嫁さんも貰って来たんでさ」
アイツにも、修行先で嫁さんの一人や二人、連れて帰ってもらわなきゃねぇ、と笑いながら言う譲二。
くそっ、と盛り上がる譲二と男性客の会話を流しながら、キツネ色になってきたカキフライを油から上げる。ちょうどいい塩梅か。譲二が刻みキャベツと櫛型切りしたレモン、パセリを載せた皿を渡してくるのを受け取り、カキフライをのせて軽く塩を振る。
そしてそのまま、厨房と客席を繋ぐカウンターへと出して。
「十六番さんカキフライお待ちっ!」
「あいよっ!」
変わらぬ動きでハンナに渡して、ハンナが客席へと運ぶ。
(次の注文は……ドライカレーのオムライス、ね)
伝票を見て、冷蔵庫を開く。出すのは鶏肉、刻み玉ねぎ、刻み人参、そして米だ。米は炊飯器から取り、ある程度をボウルに突っ込んでから別の冷蔵庫を開く。
(げっ……!)
今日はいつもよりドライカレーのオムライスを注文する客が多かったため、少し残数が怪しいか、と思っていた鶏卵が、残り二個しかない。
ドライカレーのオムライスに使用する卵は、一人前二個だ。卵をたっぷり使用することにより、上に載せた半熟卵にふわふわ感を出している。今回の注文は足りるけれど、さらに注文があったら対応できない。
仕方ない、か。
「親父! 卵がねぇ!」
「あん? マジか……」
「オムライス注文止めっか?」
「いや……まだ閉店まで時間あるからな。よっしゃ、竜也ちょっと卵買ってこい。五パックくらいだ。この時間ならカクソトが開いてるだろ」
時間は――零時前。歩いて十分程度の位置にある大型スーパー、カクソトならばまだ開いている。
だが――。
「……スーパーの安い卵使うのかよ」
「注文に応えらんねぇ方が問題だ。お前の腕で何とかしやがれ」
「無茶言うぜ親父」
はー、と大きく竜也は嘆息する。
「親父一人で刺し場と揚げ場と焼き場回せんのかよ。随分長いこと揚げと焼きやってねぇんじゃねぇのか?」
「はっ! ぬかせ。お前が一人前になるまで、俺一人で回してたんだよ」
「へーへー。だったらちょっと行ってくるわ」
頭に巻いたバンダナ――洋食屋だからコック帽と思われるかもしれないが、浅倉屋洋食店では昔からバンダナである――を外し、レジへと置いてからレジにある千円札を取る。卵を五パックくらいだから、千円もあれば十分だろう。
それを無造作に尻のポケットに突っ込む。
「それじゃ親父、今ドライカレーのオムライス、注文入ってっから!」
「あいよ、任せな。ゆっくり帰ってきてくれていいぜ?」
「はっ! さっさと帰ってくるから腰痛めねぇよーに注意しろよ!」
「まだそんな年じゃねぇよ!」
譲二とそう言い合いながら、勝手口へ。キッチン用の防火靴を脱いで、サンダルに履き替える。
さっさと卵買って帰らなきゃ――と勝手口から外に出た、その瞬間。
まるで世界が逆さまになるかのような、激しい目眩が竜也を襲った。
奇しくもそれは時刻が零時を回り、浅倉竜也が二十歳になったその瞬間の出来事だった。