エサを与えないで下さい
「ゆっちぃ~。お腹へった~。購買行こ~」
とある大学の、とある教室。
薄い桃色のパーカーをだらしなく着崩した青年が、長い机にへばりついた。肩まで伸びたクセのある茶色い髪は、前の部分だけを後方に上げ、水色の玉が二つ付いたゴムで結ばれている。
その全開にされたおでこを、ゆっちと呼ばれた青年は、チラリと一瞥するだけで、授業に必要な物を黙々と鞄から取り出していく。
「ね~、ゆっちぃ~。コロッケパン食べたいぃ~」
友人の反応が薄いのがつまらないのか、パーカーの青年・小宮悦郎は、ゆっちこと弓近優の腕を掴み、駄々をこねるように揺すった。
「あと三分で講義が始まるんだがな。お前はそれまでに戻ってこれると思うのか」
抑揚のない声で、至極当然の事を言うゆっちに対し、悦郎はぶつかる勢いで胸を張る。
「パっと行ってパっと帰ってくれば大丈夫だよ~!」
自信満々に訴えかける悦郎を、ゆっちは茶色いフレームの眼鏡越しに、スッと細めた横目で見やった。
「お前はここから購買まで何分かかるか知っているか。六分だ。全力で走ったとしても、お前の足の速さでは四分はかかるだろう。片道だけですでに時間をオーバーしているのに、往復で八分ブラス購入にかかる時間を約二分と仮定して、合計十分。どう考えても講義には間に合わない。それをどう『パっと行ってパっと帰ってくる』と言うんだ。
それともお前は、瞬間移動ができるのか。空が飛べたりするのか。できないだろう。できたら、とっくにやっているよな。パっと行けるなら、今朝も寝坊で遅刻なんて無駄な事をする筈がないものな。
こんなこと小学生でも判るというのに、それでもお前は購買へ行きたいと言うのか。俺を巻き込んでまで、行きたいと言うのか。
ならば仕方がない。そうまでしてコロッケパンが食べたいのなら、一人で買いに行けばいい。そしてそのまま購買に住み着くのはどうだ。そうすればいつでも、好きな時に、コロッケパンが食べられるぞ。
ただもう二度と、俺はお前にノートの写しをやらない事を、覚えておけ」
「うわああああ~~~~ん!! コロッケパン諦めるから、ノート写させてぇぇぇ~~~!!!」
無表情に淡々と吐き出される怒涛の言葉に、悦郎は掴んでいた腕に更に縋りつき号泣した。額をグリグリと肩に押し付けられているゆっちが、揺れる体に動じる事なく、鞄に手を入れた、その時。
「小宮君。そんなにお腹減ったんなら、これあげる」
後ろに座っていた女性が、クスクスと笑いながら小さな袋を差し出してきた。
「ほぇ? 何これ?」
「クッキー。たくさん作ったから余ってるの。良かったら食べて」
きょとりと間の抜けた顔で振り返った悦郎に、女性はニコニコと笑顔を向ける。
「私もあげるー。エツロー君、手出して」
その隣に座っている別の女性も、小包装された小さな四角いお菓子を、お椀状にした悦郎の掌に、ポトポトと入れた。
「え! いいの? ありがとー! 嬉しい!!」
ふにゃりと笑う悦郎を、女性達は微笑ましそうに見つめていた。
「ゆっち~、お菓子もらっちゃった~」
「よかったな」
呑気に喜ぶ悦郎をじっと見つめていたゆっちは、いつもの無表情で一言呟いて前を向いた。悦郎は、どことなくゆっちの雰囲気が重く感じたが、すぐに気のせいかと思い直し、貰ったばかりの小さなチョコを一つ、口に放り込んだ。
◇ ◇ ◇
「ゆっち~。お昼ご飯食べよ~。今日はね、カツカレーにする~」
とある大学の、とある昼休み。
薄い桃色のパーカーをだらしなく着崩した青年が、ウキウキとした様子で友人に声をかけた。上部で結ばれた前髪が、動く度に、ちょんまげのようにぴょこぴょこと跳ねている。
今にも踊り出しそうな雰囲気の悦郎に対し、ゆっちは表情など最初から持ち合わせていないような顔で、茶色いフレーム眼鏡のブリッジを、軽く押し上げた。
そして、何か言おうと口を開いた、その時。
「ねぇねぇ、悦郎くん。お菓子あげる」
二人の姿を見かけた女性が、小袋に入ったお菓子を渡してきた。
「やった! ありがとー!」
突然のお菓子に感激し、悦郎はちょんまげを激しく揺らした。お菓子を渡すだけで立ち去った女性の後ろ姿を見送り、食堂へと足を向けた悦郎は、数歩進んだ所で、隣にある筈の存在がないことに気づき、不思議そうに振り返る。
「ゆっち? ご飯行こ?」
立ち止まったまま悦郎をじっと見つめていたゆっちは、ふいと視線をそらし、無言で歩き始めた。悦郎は、なんだか違和感を覚えたが、それが何かが判らないまま、すぐに意識はカツカレーへと移っていった。
◇ ◇ ◇
昼時の食堂やカフェは、どこも人で溢れている。上手く取れた奥よりの席で、カツカレー(大盛り)を嬉しそうに頬張る悦郎を正面に、ゆっちは黙々と生姜焼き定食を食べている。
「ゆっち~。おれのカツ一切れと~、ゆっちの生姜焼き一切れ、交換しよ~?」
物欲しそうに生姜焼き定食を見つめる悦郎を、ゆっちはチラリと見る事もなく、黙々と箸を動かす。いつもなら、何かしらの返事があるのに、無言のゆっちにおかしいな、と悦郎は小首をかしげた。
「・・・ゆっち? お腹痛いの? 気分悪いの? ご飯食べれる? なんならおれが代わりに食べようか?」
悦郎が心配げに見当違いの事を問いかけるが、それでもゆっちの口は、淡々と定食を消化していくだけで、言葉を発する事はなかった。
増々不安になった悦郎が、ゆっちに触れようと左腕を伸ばした、その時。
「あーやっぱりここにいたー。はい、エツローくん」
悦郎を探していたらしい女性が、包装された小さな箱を机に置いた。
「えー? おれにくれるの?」
「うん。今日、バレンタインでしょ。義理だから安心して食べて」
ニコリと満足げに微笑んだ女性は、別の男性の姿を見つけて、すぐにそちらへと行ってしまった。
「ゆっち! すごいね! 今日バレンタインだって知ってた? だから皆お菓子くれたんだね~!」
今朝から続く貢物の謎が解けた悦郎は、満面の笑みで向かいに座る友人を見た。
しかし、『よかったな』と言ってくれる筈の声はなく、茶色いフレームの眼鏡越しに、薄暗い瞳で自分を見つめるゆっちに、ドキリと心臓が委縮した。カチャリと、ゆっちが箸を置く音がやけに耳に響く。
「悦郎」
滅多にその口から出る事のない名を呼ばれ、悦郎はぴょこりとちょんまげを跳ねさせた。
「俺のお菓子一箱と、お前が今日貰ったお菓子全部、交換しろ」
そう言って、ゆっちは鞄から黒い箱を取り出した。いつにない意志のこもった強めの声は、断る事を許さない、絶対的な何かを孕み、悦郎の目をぱちくりとさせた。
しばし無言で見つめ合う二人。まるで空間が遮断されたかのように、周りの喧騒も気にならず、静かに、ただ静かに視線を交わしている。
「悦郎」
もう一度、ゆっちが静かに名を呼ぶ。コトリと悦郎の目の前に置かれた箱は、上品な黒いパッケージに金色のシールが貼られている。包装も何もされていないその中身が何なのか、悦郎にはすぐに判った。
お気に入りの洋菓子店『Angelique』のトリュフだ。店のケーキではクリームチーズケーキが一番好きだが、口の中ですぐに蕩けるトリュフも気に入っている。美味しいだけに少し値段の張るそれは、悦郎は滅多に買わない贅沢品だった。
そのトリュフと、女の子に貰ったお菓子。どちらが悦郎にとって嬉しい物かは考えるまでもない。もうほとんど食べてしまったが、まだ残っているお菓子をパーカーのポケットから慌てて出した悦郎は、ふと疑問に思った事を口にする。
「でも、ゆっち。そのチョコゆっちが貰った物じゃないの?」
いくら意地汚い悦郎とはいえ、さすがに人が貰った高価な物は奪えない。それくらいの常識はあると自負している。
そんな悦郎の心配をよそに、ゆっちはスっと目を細め、『違う』と短く答えるだけで、トリュフを更に押し出してきた。
カツカレーの隣にまでやってきた黒い箱を見つめ、悦郎は小首をかしげた。貰ったのでないならば、これは一体どうしたと言うのだろう。もしかして、ゆっち自ら買ったのだろうか。それなら、何故わざわざ交換など提案するのだろう。
いつもならもっと饒舌のゆっちは、これ以上語る気がないのか、ウンウンと唸る悦郎をじっと見つめている。その瞳には、先程の剣呑な雰囲気はすでになく、しかし、どこか落ち着かなさを含んでいたのだが、それに気づく者は誰もいなかった。
ゆっちだって判っている。彼女達は、親切心で悦郎にチョコを渡しているのだと。近所の子供か弟に対するようなそれに、深い意味はない。
それを受け取る悦郎も、お菓子が貰えて嬉しいとしか思っていない。その行為に意味を見出す事はしない。
ただ、ゆっちが嫌なだけなのだ。
自分じゃない誰かが、彼に何かを与えて喜ばせる事が。
自分じゃない誰かに、彼が何かを与えられて嬉しそうに笑う事が。
自分じゃない誰かが、彼を幸せにする事が、嫌なだけなのだ。
「はっ・・・っゆっち! もしかしてもしかしてこれっ おおおおれの為に買ってきてくれたの・・・?」
ようやく脳内会議に決着がついたのか、悦郎が恐る恐る窺うと、ゆっちは無言でまた箱を押しやった。悦郎は、これ以上近づけないくらいに近づいたチョコと、こちらを黙って見つめるゆっちの顔、時々カツカレーをぐるぐると忙しなく視界に捉え、震える手を箱に伸ばした。
「もう、他の奴らに何も貰うな」
素っ気なく言い放ったゆっちは、皿の上に置いていた箸を取り、何事もなかったかのように食事を再開させた。
それを聞いた悦郎は、全身だけでなくちょんまげをぷるぷると震えさせ、うんうんと何度も頷きながら、手に取った箱から綺麗に並ぶトリュフを一つ、大事そうに口に入れた。
「~~~~~~~~~っっ!!!!!!」
食べた瞬間、舌の上で蕩けるチョコの美味しさに、言葉が出ずに身悶える悦郎。
しばらくじたばたとしていたが、口の中からチョコの余韻がなくなった途端。がばりと机に身を乗り出し、ゆっちの頭の両側を掴んで引きよせて、短い前髪から見え隠れする額にぶちゅりと吸い付いた。
「ゆっち!! ありがと!! 大好き!! 愛してるぅ~~~~~~!!!!!」
ギョっと驚いたのは周りの学生達で、続いて頭にチュッチュと何度も口づけをされている当事者は、眉一つ動かさず、いつもの無表情で、それを黙って享受していた。
※ゆっち・・表情筋が死滅したクーデレ(ごく稀にデレがある)。
※悦郎・・・食べ物とゆっち大好き。思考が小学生の大学生。
※『Angelique』・・この界隈で人気のケーキ屋さん。店員がイケメン。