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19 たとえば、あの雪の下で

「最後まで問題だらけだったな、あの馬鹿は」

 燃え盛る北西司令部の屋上で、桜庭が呟いた。空を見上げる。暗い空には戦闘機が飛び交っていた。数が減っている。

 桜庭の両目から血の涙が溢れていた。聞いたことがある。鬼は死ぬ前、または身体が限界に追い込まれた時、血の涙を流すのだと。そして死ぬ時には全身血塗れになるという。それでも腐りながら身体が崩れるよりかはましかと思った。

 その時、階下への階段に繋がる扉が音を立てて開いた。その場にいた全員が振り向いた。

「桜庭、中佐。ただいま帰還しました」

 明石海斗だった。全身血に塗れ、右足を引きずっている。右目は緑に淡く光っていた。額の目のような模様も光を放っている。彼は血の涙を流していた。藍色の軍服は真っ黒になっていた。裾から血が滴る。

「戦闘用ロボットは全て破壊しました」

 彼は左手に蒼鹿あおしかを、右手に誰かの腕を握っていた。それも血塗れだった。

「海斗。来い」

 桜庭に呼ばれ、海斗は嬉しそうに歩み寄った。通った後に血の道ができる。そこにいた数人の将校は、思わず口元を抑えた。

「中佐。また泣いてるんですか」

 海斗が屈んで桜庭と目を合わせる。

「海斗。お前、陸斗と帰ってきたのか」

 桜庭が海斗が握る片腕を見ながら言った。海斗が笑った。

「そうですよー。途中でもうはぐれないように、手を繋いで帰ってきました」

 そうか、と桜庭が呟く。その間にも、空爆があった。司令部の南棟が崩れた。真っ黒い煙があがる。雪が降っているのか灰が降っているのか、もう区別がつかない。

 海斗が桜庭に刀を返し、ふらついた。桜庭がそれを抱きとめる。海斗は桜庭の目の前に膝をついた。そして、空いた左手で全身から溢れる血を掬った。

「中佐、いつか、約束しましたよね。桜を見に行くって……ほら、こんなに、綺麗、だから」

 掬った血を海斗が差し出す。掌の血を眺めて、桜庭は何も言わなかった。

「ほら、綺麗、な、色」

 目と口からどろりと血の塊を溢れさせ、海斗がその場に倒れた。流れ出た血が周りに広がっていく。必死で息をしようとする音が聞こえた。

 憐れな鬼の末路など、誰も考えない。勝手に作って用が無くなり、処理に困ったら殺すのだ。もうすでに日本の鬼は北西司令部にしか残っていない。海斗がいなくなれば、あとは桜庭だけになる。

 桜庭自身も血の涙を流したまま、しゃがみこんだ。そして、海斗の手をとる。

「ああ、綺麗だ」

 無表情なまま、彼女は応えた。海斗が柔らかく笑った。

「俺、は、どっちの、桜、も、大、好き、だ、から……」

 目を開いたまま、彼は動かなくなった。彼の頬に手を添え、親指だけ動かして桜庭は血の痕を拭った。そして、目を閉じさせる。

 再び立ち上がった直後に桜庭はふらついて司令部の壁に手をついた。そのままずるずると壁にもたれて座り込んだ。

「おい。貴様らだけでも脱出しろ。まだ司令部の地下に一機、使える戦闘機が残っていたはずだ。随分旧式だがな」

 桜庭の後方にいた将校が目を見合わせた。そのうち一人、顎鬚の男性が口を開いた。

「中佐。中佐がお逃げください」

 すると、桜庭は弱々しく首を横に振った。

「無理だ。もう、体が限界だ」

 体中から血が滲む。彼女の周りのコンクリートも赤くなっていた。汗をかくように血が流れる。指の先まで染まっていた。

「やはり、私は完全型ではなかった。いや、完全などこの世にあるわけがないんだ……」

 東京総司令部から、暫くメンテナンスをしないとどうなるか実験をしたいと言われてもうすぐ一年が経つ。本来ならば明日、メンテナンスを受ける予定だった。だが、もう不要だと思われたのだろう。メンテナンスについては一切連絡はないまま今日を迎えた。

 それによって分かったことは、一つだ。鬼はメンテナンスを受けていなければ自壊する。結局総司令部から直接自決命令も出て、もしかしたらあの椅子でふんぞり返っている連中は最初からこうしたかったのかもしれない。

 桜庭は自分の手を見た。爪の間からも血が滲んでいた。軍靴の中も血で濡れている。

 そして彼女は空を仰いだ。雪が炎の熱で溶けている。雨が降っていた。それはまるで別世界から降っているようだった。戦闘機の音もなんだか遠くに聞こえた。

「理不尽だ。今になって、死にたくない……もっと生きていたい」

 こんなことさえ言わなければ、きっと美化してもらえるのだろうが。物語の、自己犠牲的な英雄とは雲泥の差だ。

 彼女は虚空に手を伸ばし、何かを掴んだ。その手も力なく落ちる。肩で荒く呼吸し、顔色も幾分か悪い彼女は将校の方を見た。数人がコンピュータの周りに集まり、必死で画面を見つめてはキーボードで何か打ち込んでいた。すると、一人が顔をあげて言った。

「中佐。イザナミの準備が完了しました」

「そうか」

 彼女は力なく笑った。

「笑うというのは楽しいな。もう少し、早く知りたかった」

 微笑んだまま、彼女は蒼鹿と愛刀、紅烏べにがらすを片手で抱えた。そして、放り出されている海斗の片手を握った。海斗の指先の血は、少し乾き始めていた。

 空にはもう味方の戦闘機は残っていない。これから内部まで侵攻するつもりか、頭上には羽虫のように戦闘機が見えた。

「私などに関わったせいで、貴様らの人生を狂わせてしまって悪かったな。いや、ここはありがとうとでも言うべきか……こうして生きてこられたのだから……」

 将校が数人、目を拭った。桜庭はまた独り言のように呟いた。

「ただ、もし神がいるのなら……来世というものがあるのなら……高望みはしないから、今度は普通の人間として生きていきたいものだ」

 千歳。その時はまた、甘えさせてくれるのか?

 微かな呟きが風に飛ばされた。その時、コンピュータに向かっていた先ほどとは別の将校が顔を上げた。

「中佐。ロシア解放区軍、及び中華共栄圏の戦闘機集団がもうすぐ札樽海岸線北緯四三度六分、東経一四一度一一分地点を通過します」

 桜庭が刀を握り直した。

「よし。これより紅雪作戦最終行動に移る。覚悟はいいな」

 そう言って将校を見た。彼らは頷いた。それを確認し、桜庭は微笑んだ。

「最終命令だ。イザナミを発動させろ!」

 コンピュータをいじっていた将校が、パスワードを入力し、キーを押した。次の瞬間、司令部の建物の下の地面から閃光が差した。大地を切り裂くように光が走る。地の底から光が溢れ出るようにコンクリート造りの建物が浮き上がり、崩れた。光に飲み込まれる。桜庭のいた場所も、その先も、光に包まれた。

 空にも光は届き、手稲山付近からも光が見えた。郡別岳と羊蹄山の方角からも光が溢れた。光は急速に広がり、北西司令部の管轄区域をほとんど飲み込んだ。

 そしてゆっくりと光が消えた。舞い上がる土埃のせいで霞がかった世界が落ち着いていく。霞が薄くなった時、そこには何もなかった。大きな穴が空いていた。司令部の影もなく、草も木も一本だって生えていない。積もっていた雪もない。空を舞う戦闘機は一機もいない。雲すらなく、青空が広がっていた。あれだけ燃えていた炎もない。風もない。焼けただれた大地には、何もなかった。

 ただ、またどこからか雪がちらつき始めた。それだけだった。


 北西司令部を出発した輸送機は、途中で追ってくる戦闘機を全て撃墜し、無事に全機が東北東司令部へ辿り着いた。北西司令部とは違う外見の建物が並ぶ。北村はそこで必死に藤崎と新谷、明石達を探したが、見つからなかった。

 そこでも民間人を見かけた。やはり老いた男女が軍から食糧を受け取っていた。ただ、ここは人数が多かった。皆疲れきった表情で、ぼろぼろの服を着て。急に家族のことを思い出した。だが、連絡のとりようもない。

 そんなことを考えていると、急に虚無感に襲われた。

 どうして生きているんだろう。なぜ、なんのために。毎日こうして死ぬかもしれないと思っていると、その感覚すら薄れていく。人として、生き物として死ぬのを恐れなくなるのは多少まずいと思う。だが、それがあまりに現実で溢れかえっているため、かえって現実に思えなかった。

 そうやってぼうっとしていると、隣に水無月が来た。官報を手にしている。北村に、読んでみろよと手渡した。

 一番大きな記事には、やはり北西司令部の崩壊が書かれていた。見出しを見て、北村が目を見開く。

「なんだこれ……一人の無能な司令官により……北西司令部は壊滅……?」

 桜庭の名前があった。その下には、総司令部の将校の鬼の活用に対する反対意見が載せられていた。要約すれば、あの北西司令部を破壊するという紅雪作戦は全て、桜庭が行ったとしている。総司令部の関与は書いてなかった。

「おい、意味分かんねえ」

 北村が手の中で官報を握った。鬼であることを利用し、人を使って無茶苦茶な攻撃をしようとしたという内容も載っていた。

「なんでだよ。利用されたのは中佐だろ?」

 きっと、最初からこういう筋書きだったのだろう。桜庭中佐が総司令部の思惑が分からないはずがない。こうなることも分かっていて、あの人は背負ったのだろう。

「おかしいだろ……」

 北村の呟きが風に掻き消された。水無月は無言で地面を睨んでいた。その時、人ごみの向こうから怒鳴り声がした。何事かと二人がそちらを向く。

「たいがいにせえよ!」

 住岡の声だった。聞いたことのないほど声を荒げている。慌てて二人が駆け寄る。野次馬を押しのけ、他人に足を踏まれて自分も他人の足を踏みながら、泳ぐように前へ進んだ。

 やっとのことで見える場所に来ると、住岡が立っているのが見えた。彼の近くに一人の将校が尻餅をついて倒れていた。

「何も知らんお前に言われとうないんじゃ!あの子らがどんだけ苦しんだ思うとるんね!?」

 住岡は丸めた官報をその将校の顔に投げつけた。

「勝手に鬼にされて勝手に運命突きつけられて!それで自業自得?どの口が言いよるんね?」

 住岡は何も言えない将校に近づいた。将校が後ずさる。

「あんたらにあの子らを語られとうないわ!背負うもん以上のもんを押し付けられて、血塗れになって――いっぺんあの生き地獄を見てから、そっから言うてみいや!」

 大佐、と呼びかけて止めようとしても、激昂した住岡には届かなかった。すると、野次馬のかなり後方から一人の男が近づいてきた。通してください、と声がする。その人はやっと群衆を通り抜けた。

「住岡!」

 立ち尽くしていた住岡の肩に手を置いたのは石原大佐だった。中部国衛学校の校長だ。北村と藤崎が北西司令部に行く前、世話になった人だ。なぜここに。北村はそう思いつつ見ていた。

「あんた……なんでここにおるんね」

 まだ声の隅々に怒りを宿した住岡が振り向く。すると、石原は住岡に小さな紙切れを渡した。

「桜庭准将からだ。少し前、私のもとへ手紙が届いた。もしお前に会えたら渡してほしいと」

 その紙切れを見つめる住岡の目に、涙が溢れた。彼はその場へ崩れ落ちた。

「なんで……なんで許せるんね?こんなことした人間を……なんで……ありがとうなんて、言えるんね……なんで、そんなに優しいんね……」

 大事そうに紙を手で包み込み、住岡が声を絞り出す。

「もう嫌じゃあ……早う、あの子らのとこへ行きたい……」

 そのまま地面を見つめて動かない住岡の傍らにしゃがみ、石原は彼の肩に手を添えた。

「お前のことをよく慕っていたのが分かる手紙だった。特進で階級を追い越されてしまったな……だが、お前はそんな情けない格好で、桜庭准将と千歳准将に会いに行けるのか」

 住岡は顔を覆って泣いていた。

 その様子を見ていた野次馬がざわつき始めた。官報の内容を疑う声が多い。本当に桜庭という鬼が全て悪いのか。官報に書いてあることが本当か。議論が始まった。しかし、石原がさっさとどこかへ行けと命じた。野次馬がばらばらになる。その波に呑まれて、北村と水無月も歩き始めた。すると、北村の肩に手が置かれた。振り向くと、中本だった。中部国衛学校の北村達の訓練担当軍曹だった。

「中本軍曹……」

 北村は敬礼した。水無月も敬礼した。そっちは、と中本が首を捻る。北西司令部の同期生ですと答えた。中本は苗字だけを名乗り、北村に向き直った。

「大変だったな、お前ら」

「いえ……」

 なんと答えてよいか分からず、二人は曖昧な返事をした。

「藤崎はどうした。一緒に楓に行っただろう」

 北村が俯いた。

「ここに来る途中で、行方が分からなくなりました。あいつは青葉の子だから……輸送機には乗れなかったんです」

 そうか、と中本が残念そうに言う。新谷も分からない。あの輸送機の護衛をしていたのか、それとも他の場所にいたのか。それすら分からない。

「実はな、今度瀬戸内司令部に行くことになったんだ。向こうでもまあ、教壇に立つわけだが……どうだ、こんな状況だし、お前らも瀬戸内に行くといい。住岡大佐が許してくだされば行けるだろう」

 しかし、北村は首を横に振った。

「自分は北西司令部に戻ります」

 まっすぐに中本を見て答える。中本も北村を見つめ返し、そうか、と頷いた。そして彼は去っていった。

 北村は空を見上げた。雪が静かに降る。曇天の空に、ところどころ切れ目がある。青い空は、こんな色をしていただろうか。

「水無月、お前はどうするんだ」

 水無月も空を仰いだ。

「俺も北西司令部へ戻る。誰がなんと言おうと、俺はあの場所が好きだ」

 灰色の世界に白い雪が降り続く。灰が降っているのか雪が降っているのか、羽根が舞っているのか分からなくなりそうな景色だ。

 何かを憎むのも間違っているように思えてくるから不思議だ。ただ、この世界は残酷で美しい。だから、奇跡なんかに騙されたふりをして生きてみようと思える。信じられる神はいなくても、別のものを信じればよいだけだ。信じられるものを信じればいい。そうするしか方法を知らない。もう考えたくもない。日常の無限ループに陥った人は、きっとこんな感覚なのかもしれない。

 そう思って空を見上げる北村の目尻には、小さく光る雫があった。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

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