15 雪の下の悲劇
桜庭が北西司令部に戻ってきたのは、その日の夕方だった。乱れた髪で、破れた軍服で、血まみれで傷だらけのままだった。帰ってくるなり、彼女は司令部の異様な雰囲気に気づいた。それを疑いつつ、真っ先に千歳のいる場所へ向かった。だが、ここにはもういないと医師に言われた。代わりに行けと言われたのは、司令部の西棟だった。指示された場所には霊安室がある。悪趣味だとぼやいて、桜庭はそこへいった。
そこには多くの人がいた。桜庭を見て、人々は道を開けた。桜庭が駆け込む。笹井中将や住岡大佐、また、楓部隊の者がいた。黒い柩の中に、千歳がいた。落ち着いた顔をしている。血の痕もなかった。彼の周りには、白い菊が入れてあった。花に埋もれた彼の愛刀もあった。
そんな千歳を見ても、桜庭の表情は変わらなかった。
「千歳」
桜庭が呼びかけた。だが、千歳は答えない。目も開けなかった。彼女はもう一度呼んだ。それでも同じだった。
「千歳。……お前、まさか死んだのか?」
その一言に、住岡が顔を覆った。つられて何人かの嗚咽が聞こえる。しかし、桜庭はそんなものは一切介さないようだった。
「千歳、冗談なら今すぐ目を開けろ。ぶん殴るぞ」
それでも千歳は動かない。桜庭は千歳の手に触れた。そして、驚いたように目が開いた。
「なんでお前、冷たいんだ……千歳!」
半分口が開いたままになっている桜庭の肩に、住岡が手を置いた。
「桜庭君……もう、もう止めえ……。千歳君も頑張ったんよ……」
住岡を見て、桜庭が唖然とする。いつもはきつく睨むような目が、大きく見開かれていた。その顔にはあどけなさが残っていた。
「そんな……死んだら承知しないと言ったのに。私の血までやったのに。今までお前は私を裏切ったりなんかしなかったのに……」
桜庭の声が響く。それを聞きながら、北村は必死に泣くまいとした。それでも、喉の奥が痙攣するように引きつった。思わず口元を覆ってかがんだ。胸の奥から涙がこみ上げてくる。手をつたって、暖かい雫が落ちた。
なぜ、桜庭中佐の言葉がこんなにも心臓を締め付けるんだろう。北村は思った。桜庭の声が、いつもより違う気がした。闇夜に静かに響く獣の遠吠えのように、物悲しい。
「千歳……」
桜庭がもう一度呼ぶ。すすり泣きがあちこちから聞こえた。
「千歳……お前がいなければ、私はどうしたらいい……。お前はやっぱり嘘つきじゃないか、千歳……」
その言葉を笹井が遮った。
「桜庭。千歳に使っていたチップは明石海斗に使う。今度は、明石を鬼にする」
そんな、と桜庭が言う。
「私は、これ以上誰かを鬼にするのは反対です。私は、明石海斗を鬼にするために助けたのではありません」
反論したのは海斗の兄、陸斗だった。彼も楓部隊の一員としてここに来ていた。
「中佐……お願いです、弟を……海斗を鬼にしてください。あいつ、もう生きていられないくらい怪我してて……でも、鬼になれるなら、助かる可能性があるんです。どうか、どうか弟を……」
嫌だ、と桜庭が言った。
「コンピュータと接続された時点で死ぬかもしれない。それに、一度人に使ったチップは再利用できるかどうか分からない」
「でも……!」
陸斗が泣きながら声を絞り出した。しかし、後が続かない。
「うるさい!とにかく、誰かが鬼になるなんて金輪際ごめんだ!勝手に鬼にされて、誰がその責任を負うという!私も千歳も、勝手なお前ら人間なんかもううんざりだ!」
桜庭が怒鳴る。直後に、笹井が桜庭を殴った。彼女は背中から台にぶつかった。近くにあった柩が落ち、中から腕のない兵が転がりでた。花が散らばる。笹井が歩み寄り、桜庭を見下ろす。
「……決定権はお前にはない。もうすぐ手術の準備も整う頃だ」
桜庭が笹井を睨んだ。何だその目は、と笹井が言う。彼は倒れ込んだままの桜庭の首を踏んだ。桜庭の口からうめき声が漏れる。
「作られた物が、人間に逆らうとは。不良品だったか。今度こそ完全型を作らねば……」
その様子を周りの物は怯えながら見ていた。一瞬、誰もが千歳の死から意識が遠のいた。
「鬼ならば首を折っても死なないんだろうな?」
笹井がますます足に力を込めた。桜庭が苦しそうに睨み、笹井の足を握る。笹井の顔つきが変わった。
「や、止めてください!」
笹井の前に土下座をしたのは住岡だった。
「この子は昔から千歳君と一緒で……鬼じゃいうても心は人のままなんです!」
舌打ちし、笹井は足を上げた。桜庭が咳き込んだ。ばつが悪そうに笹井が呟いた。
「桜庭。これ以上面倒事を増やすな」
喉を押さえ、桜庭は笹井から目を逸した。
「申し訳ありませんでした」
それを聞くと、笹井は去っていった。住岡がため息をつく。桜庭が体を起こした。
「大佐」
呼ばれ、住岡は力なく返事をした。すみません、と桜庭が謝る。そして続けた。
「私は、部下が死んだ時はいつだって分かっていました。たとえそれが戦闘の最中であっても。なのに……なんで、千歳が死んだのが分からなかったのでしょうか。ほんのわずかでも、気づきもしなかった……」
千歳の顔を見つめ、桜庭が独り言のように言った。
「戦っとったんじゃろ。千歳君は、邪魔せんようにしたんじゃないかね。そういう子じゃったけえ……優しい子じゃったけえ……」
桜庭は無言だった。少しして、彼女は俯いて言った。
「千歳……馬鹿者が……私を恨め……」
彼女は出て行った。外は雪が降っている。誰も後を追おうとはしなかった。暫くの間、霊安室が重い空気に包まれた。
「陸斗少尉」
名前を呼ばれ、陸斗は敬礼した。
「弟さんに会いに行ってやりんさい」
陸斗は重々しく返事をすると、出て行った。
桜庭が向かった先は慰霊碑だった。戦死した者、病死した者。とにかく北西司令部に在籍していた全ての兵士がそこにいる。空は重く、雪が降っている。日が暮れてしまった後の景色は灰色がかっていた。愛刀を杖のように体の前につき、桜庭は立っていた。
暫くそうして立った後、桜庭は小さく呟いた。
「千歳……」
その途端、記憶が溢れてきた。決して忘れることができない一秒一秒、無理に刻まれた記憶。その断片に千歳が映った。そして、自分の声が聞こえる。
『千歳、千歳、千歳――』
呼んでいたのは、いつも自分だ。いつも、いつも。しかし、その名を呼んでも答えてくれる人はもういない。桜庭は俯いた。風が黒髪を揺らす。雪が横から頬に吹きつけた。
「ちとせ……」
呼んでも、答えてくれない。
軍帽にも肩にも雪が降り積もった頃だ。背後から足音がした。随分ゆっくりと桜庭の方へ向かっていく。数メートル離れた場所で、足音が止まった。
「中佐」
桜庭は振り向かなかった。微動だにしない。
「大変ご心配をおかけしました。明石海斗、無事に生還しました」
海斗は敬礼した。それでも桜庭は動かない。海斗は再び歩み寄り、桜庭の一歩後ろに立った。
「千歳中佐のことは聞きました……。中佐の『チップ』のおかげで、俺が生き延びたことも」
桜庭は無言だ。
「中佐」
再び海斗が呼びかけた。すると、桜庭が顔をあげた。
「海斗。隣へ来い」
海斗は大人しく従った。桜庭はまた俯いた。
「海斗。もし、私が最初に出ていたら……千歳も死ぬことはなかった。お前も……鬼になんてならなくてよかった」
「過ぎたことに、『もし』は無しです」
「だが……私を、恨んでくれ。お前をまた地獄に引き込んだ……私のせいだ、何もかも」
海斗は悲しそうに桜庭を見た。彼女の表情は分からない。
「なぜ、一人で背負おうとするんです。俺の人生まで中佐が背負うことはないです。それに……俺も、千歳さんも、恨んでなんかいません」
桜庭が顔を上げた。海斗と目が合う。海斗が微笑んだ。
「いいんですかー、桜庭中佐。千歳中佐にだって泣いたとこみせたことないのに。俺、死んだらあの世で本当に千歳さんに殴られちゃいますよー」
桜庭が驚いて目を見開いた。彼女の頬は濡れていた。
「凍っちゃいますよー」
桜庭が袖で頬を拭った。そして、なぜ、と呟いた。
「なぜ、お前がそんなことを知っている」
慰霊碑を見たまま、海斗が答えた。
「一度使用されたチップを他人に使うと、コンピュータが反応するみたいです。コンピュータからデータが転送される時、千歳さんの記憶が全て入ってきました。これ以上は詳しい人体実験が必要みたいなので分かりません」
そして、ひと呼吸置いて彼は謝った。
「すみませんね、桜庭中佐と千歳中佐だけの記憶のはずだったのに……俺なんかが勝手に見てしまって」
息を吐き、桜庭は慰霊碑を見た。風が吹きつけ、白い吐息が掻き消えた。海斗の一つに結ばれた髪と、桜庭の長髪が大きく揺れた。
「構わん。貴様の意思ではない。勝手をするのはいつも人間だ。それに、見られて困るようなことなどない」
海斗はくすっと笑った。
「嘘つきですねー、中佐。千歳さんとキス以上のことやってるのもちゃんと知ってますよー」
その言葉に、桜庭が頬を赤くして反応する。海斗の言葉が終わらないうちに、彼女は回し蹴りをした。しかし、海斗はそれを避けた。普通なら避けられる速さではない。それを見て、桜庭はまた目を伏せた。
「やっぱり……鬼になってしまったんだな」
海斗の額に、桜庭と同じ模様がある。目のようなそれは鮮やかな緑色だった。
「もう、寒くても平気になったのか」
雪が降る中、彼女は尋ねた。空を見て、海斗が答える。
「そうですね。冷たいとは思いますけど、苦痛ではないです」
海斗の目を見て、桜庭は息を飲んだ。
「その左目、どうした」
海斗が左目に手をやった。彼の左目は青く濁っていた。
「今回の戦闘中に失った臓器は再生しました。ですが左目はもともとなかったので、再生しなかったようです。それで、研究員達が目を入れてくれたんですが、いろいろ機能をつけようとしたみたいです。でも、失敗したと言われました。結局見えないままです」
「また、勝手なことを……」
吐き捨てるように桜庭が言う。海斗は悲しげに笑った。
もう随分暗くなった。俯いたままの桜庭を海斗が見た。
「中佐。戻りましょう」
しかし、桜庭は俯いたままだ。
「嫌だ……千歳がいない場所になど、帰りたくない。それに、知っているだろう。鬼は氷点下に食べ物も水もなしで放置されても、数日は死なない」
海斗がゆっくりと近づいた。そして、また濡れている桜庭の頬を拭った。
「中佐。体が大丈夫でも、あなたの心が死んでしまいます」
彼はもう一度、戻りましょうと言った。彼女は慰霊碑を見た。
「千歳。お前の人生を狂わせてすまなかった。だが……お前を好きで良かった」
敬礼し、そして左手に愛刀を握り、彼女は司令部の方へ歩いて行った。相変わらずその頬には濡れた痕がはっきりと見て取れる。彼女の背を見つめた後、海斗は慰霊碑に向き直った。そして敬礼し、桜庭の後を追った。




