01 訓練生の失敗
「おい、和真。ちょっと大丈夫か?」
少年が訊ねる。もう一人、少年がいる。暗い空き倉庫に二人はいた。和真と呼ばれた彼は、手に薬品の入った瓶を持っていた。
「大丈夫だって、心配すんなよ。健人は心配性だなあ。オカンかよ」
ここは、日本国立中部地方国衛高等教育学校――日本の陸軍兵訓練所だ。十六歳以上の者ならば男女を問わず、無償で入学できる。激化する国際紛争の中、三十年ほど前、日本は公式に武装中立宣言をした。以来、体制を維持するために軍事力は不可欠になった。
彼らはもうすぐ卒業を間近に控えた訓練生だ。
「だってさ、それやばいんじゃないの。過酸化水素水、硝酸カリウム……」
心配そうに、しかし面白がって少年――北村健人は呟く。
「だって、あの程度の口頭説明で納得できるわけねえだろ?中本軍曹はいっつも適当に済ませるんだからさ。ほんとに爆発すんのかな」
嬉々として薬瓶のラベルを見ているのは、藤崎和真という少年だ。どうやら彼らは爆発物に関する口頭のみの講義を受け、果敢にも実験しようと思い立ったらしい。
今日は夜間訓練はなく、訓練生には久しぶりの自由時間が与えられていた。恐らく他の者達は、トレーニングをしたり読書をしたり、喋ったり寝たりと有意義な時間を過ごしていることだろう。
北村がぼうっとしていると、隣で藤崎の焦った声が聞こえた。早口で何を言っているか分からない。しかし、聞き返す前に手を掴まれた。危ない、という単語だけ聞こえた。藤崎に引っ張られる。
次の瞬間、暗闇に爆音がこだました。
「この……問題児どもが!」
国衛学校の一室で怒り狂っているのは彼らの訓練担当軍曹、中本だ。もう五十が近いくらいだろう、顔には相応の皺がある。よく日焼けしており、シミもある。彼は軍帽を脱いでごま塩頭をガシガシと掻いた。
「中本軍曹、落ち着きたまえ。誰にも怪我がなくて何よりじゃないか」
中本よりは少し若い男が諌める。彼の胸元にはいくつかバッジが光っている。彼らの他にも、ここには訓練担当の者が二十名ほどいた。
「大佐、しかし!この卒業間近にこんなことをしおって――除隊が妥当と思われます!ったく、お前らも何で今になって……お前らは今までの成績から言えば、問題行動を差し引いてもそこそこの任地へ行けただろうに!」
むっとして藤崎が反論する。
「軍曹、失礼ですが、我々は別に問題行動をしているわけではありません。単なる純粋な好奇心です!」
「だぁかぁらぁ、それが結果として問題行動だと言うんだバカタレ!空き倉庫といえど、ぶっ飛ばしおって!」
中本はいよいよ顔を真っ赤にしている。飛び散る唾に顔をしかめ、藤崎は大人しくしていることにした。北村は隣で遠い目をしている。
「中本軍曹。血管が切れるぞ、深呼吸だ。ほら、吸ってー、吐いてー、吸ってー、吸ってー、吸ってー……」
「殺す気ですか、大佐!」
しかし、中本は少し落ち着いたようだ。怒鳴るのをやめ、椅子に座った。
「まあ、すぐに軍法会議にかけて除隊しても構わない。いや、倉庫を一つぶっ飛ばしたんだ。さっさと会議を済ませて島流ししてもいいかもしれない」
島流しと聞いて、北村と藤崎の顔色が変わった。彼らの言う島流しとは、中部地方の山で新たに設営された炭坑で働くことだ。そこはほとんどが日雇いの労働者が働いているのだが、一部服役中の囚人がいる。過酷で不衛生な環境らしい。毎日死者が出るそうだ。死んでも手当ては出ない。しかし国営といえど、これ以上予算も割くことはできない。
想像して青くなる二人を見て、大佐は笑った。
「まあしかし、ここまで訓練をやってきた。兵としての素質はあるわけだ。勿体ないのは嫌いでね。今度、北西司令部から何人か視察にいらっしゃるようだ。校長である私が直々に相談してみよう。その時まで、大人しくしていろ。退出してよし」
大人達がざわつく。北西司令部は通称で、正式には北海道西岸司令部という。主に中華共栄圏とロシア解放区からの進攻を防ぐ役目をしている。そこには、鬼と噂される司令官がいるらしい。その人が率いる部隊は連戦連勝だと言われる。
気候が百年前と比べて大きく変動したせいで、北海道は特別寒さの厳しい所ではなくなった。それでも冬には雪が積もる。海岸線も百年前とはすっかり変わった。海面が上昇し、海抜の低い地域は水没した。これは世界中に言えることだ。
今や多くの国が合併し合い、大きな塊になっていた。中華共栄圏は大きな面積を持つが、乾ききった砂漠の国となった。
ロシア解放区は温暖化のおかげか緑豊かな土地になった。しかし移民が多く、紛争は絶えない。
ヨーロッパは個別に存続している国が多い。農地もまだ使える。それでも海岸線は沈んだ。更に三年前、終末の鐘戦争と言われる争いが起こった。日本に詳しい情報は入らなかったが、人間兵器にされたドイツとフランスの王子が共謀し、ヨーロッパを、世界を恐怖に叩き落としたという話だ。今なお混乱は続き、ヨーロッパは惨状だ。
アフリカは再びヨーロッパの脅威に脅かされ、武器を手にした。
アメリカ連合はかつての威光を失い、それでも各国と交戦中だ。
そして日本は中立宣言を発表した。海面の上昇に伴い、領土は減ったが、武器を手に外国の進攻を防いでいる。
廃墟の街は世界中に点在する。僅かに住める場所に、人々は肩を寄せあって生きていた。人口も減った。だが、日本には普通科の学校もある。人々は軍人以外は半世紀前とたいして変わらない暮らしをしていた。世界水準で見ても奇跡のレベルだ。
そんな生活を守っているのが彼らだった。訓練を終えて瀬戸内司令部に行くのが、バカンス気分で出来ると言われる最高のコースだ。東京総司令部だと、エリートコース。北西司令部へ行くのは全くの逆コースだと言ってもいい。
「ああ、俺達寒くて死んじゃうかもな」
廊下を歩きながら北村が言う。だが藤崎は嬉しそうにした。
「俺はずっと北西司令部を志願するつもりだったんだ。最初っからそこへ行けるなんて、神様ありがとおおおおお!」
北村は小さくため息をついた。こいつといたら、いくつ命があっても足りないかもしれない。
「でもなんでそこまで……。北西戦線なんて、対中・露だろ?一番危険区域じゃねえか」
すると、藤崎は急に大人しくなった。そして、北村を振り向く。
「なあ、前に言ったよな。俺は孤児だって」
ああ、と北村は返事をした。
「一昨年、父さんが死んだんだ。……俺の父さんさー、北西戦線柏部隊のメンバーだったんだ」
俯きがちに言う藤崎に何と声をかけてよいか分からず、北村は半分口を開いたまま、間抜けな顔をしていた。
「でも、父さん本当に嬉しそうだった、柏部隊に配属が決まった時……滅多に連絡寄越さなかったのにさ、わざわざ手紙送ってきたんだぜ。びっくりしたよ。桜庭っていう司令官をすっごい褒めてた。俺らより三つ上の司令官で……その時、まだ十七歳だって。でもその後三か月くらいで父さん戦死したんだ。ロシアの戦闘機にやられたって。その少し後、去年、母さんと弟もよく分からない病気で死んだ」
藤崎は振り向いて笑ってみせた。
「でも俺、別にその桜庭って人を恨んだりはしとらん。配属以来まめに手紙も寄越すようになってさ。父さん、最後に来た手紙も本当に嬉しそうで。だけん、俺もその人の下で戦こうて……親父と同じ景色を見て……」
ごめん、と北村が謝ろうとした時、藤崎が手を叩いた。
「やめやめぇ、こんな辛気臭い話しよったら親父に怒らるーばい」
北村の手を引っ張って、藤崎は宿舎へ行こうと促した。藤崎はいつもは標準語で喋っている。それが、たまに方言が出てくる。それも本人曰くちゃんとしたのでなくて、方言もどきだそうだ。藤崎はここへ来る前、一年を九州で過ごしていたという。そこで知らないうちに染み付いてしまったのだと笑っていた。発音も現地のものとは違うと言っていた。
そんな彼の後ろ姿を見ながら、北村は歩調を合わせて歩いた。
「おばんですぅ」
突然、二人の右横から声がした。曲がり角にショートヘアの少女が立っていた。タオルを手にしている。どうせまた一人で筋トレでもしていたのだろう。
「あ、新谷」
藤崎が手を挙げて応える。彼女は彼らと同期生だ。彼女もまた、孤児だった。
「聞いたよ、この馬鹿コンビ!ほんっと馬鹿よねえ、馬と鹿に失礼だわ。でもこうして戻ってくるってことは、お咎めなし?」
「いや、保留にされた」
北村がため息と共に答えた。保留?と彼女が聞き返す。
「今度、北西司令部から視察にくる人がいるんだって。多分俺達、揃って仲良く北西に飛ばされる」
いいじゃん、と新谷は笑った。何がだよ、と言い返そうとして北村はやめた。こいつの故郷は、北海道だった。
「ねえ、私も推薦しといてよ」
「どこに?」
「北西司令部」
「ばっか、お前はいいから総司令部に行けって。頭いいんだからさ」
暫くくだらない話をして、三人は笑っていた。
「ま、卒業までせいぜい大人しくしてなさいよ、島流しにならないようにねー」
タオルを首にかけ直し、図書室に行く、と彼女は走っていった。
暗闇に駆けていく彼女の後ろ姿を見て、北村は眉を寄せた。
ここにいるのは皆、相応の理由がある者ばかりだ。大抵は家が貧しいから食い扶持を稼ぎに来ている。北村もそのうちの一人だ。故郷の岐阜には母と妹が叔父夫婦一家と暮らしている。だが、中には新谷や藤崎のように孤児もいる。彼らは国が保護し、中学までの義務教育を無償で受けることができる。その後は最寄りの国衛学校へ入学させられ、軍人として利益を還元することが義務付けられている。人々はそんな孤児のことを「青葉の子」と呼んでいた。青葉の子で軍人にならなくて済むのはほんのひと握りの優秀な子供だけだ。しかし彼らは政治か科学研究に携わることが義務付けられる。
北村は自ら入学を希望した。そのくせ弱音を吐いた。一度や二度ではない。数えていたら両手の指では足りない。だが、藤崎や新谷は望まずとも決められた道を歩いている。なのに、彼らが愚痴っている姿を見たことはない。急に虚無感をおぼえた。北村は再び藤崎と宿舎へ帰りながら、始終無言で彼の背中を見つめていた。