ぺんぺん草のカミサマ
それは頭の片隅に今でもひっそりと、しかしたしかにある記憶である。
お雛様みたいだと思った。
新しいお友達だと担任の先生が連れてきたその子を見たとき、思わず鼓動が強くなるのを感じたのを鮮明に覚えている。
黒く長い髪、雪のように白い肌、下を向いたままのお淑やかで大きな瞳。私と同じような普通のTシャツと普通のスカートに身を包んでいるのに違和感を覚えてしまう。きっとこの子には、それこそお雛様のような綺麗な着物が似合うはずだ。
そのお雛様はどうやら人見知りらしかった。最初の二日間は学校のみんなから質問攻めの日々だったが、すぐにそれも収まり、気付けばその子はいつも机に独りで鼻歌を奏でていた。
私がお雛様に話しかけたのは、きっと憧れからだったと思う。
女の子らしく、なんてお母さんに言われていた言葉の意味をその子は持っている、私が持っていないものを持っているように感じた。
そうやって、記憶の中の私はその子に話しかける。
「ね、一緒に遊ぼ?」
それが私と錫木なずなとの出会いだった。
◆
頭が重い。
真っ暗。
揺れる体。
ここで、ようやくつい先程まで眠りに落ちていたことに気が付く。ただ、ガタガタと振動に揺られてあまりよい寝覚めでは無い。
ゆっくりと瞼を開ける。
そこは車窓越しの山道だった。
車一台がやっと通れるくらいの狭い車道。右側は急斜面になっていてその上から何の木かわからない樹木が垂れ下がっている。左側、つまり私のすぐ隣は泥だらけのガードレール、そしてその先には崖。それほど高い崖ではないが、転がり落ちてしまったのなら、この樹海の中に一人で放り出されることになるだろう。険しい山道ではあるのだが、同時に少しだけ懐かしさを覚えてしまう。
「起きた?」
隣から聞き馴染んだ声がする。
「……起きた」
狭い車内で控えめに体を伸ばす。どうやらおかしな態勢で寝ていたようで、右肩から首にかけての鈍痛がじわじわと広がりどうにも気分が悪い。
「結構寝てたね。昨日何時に寝たの?」
「んー12時くらい」
「なんだ、結構早寝じゃん」
運転席を見遣ると、サチは愛嬌のある笑窪を寄せていた。
先日のこと、久しぶりに帰郷しようと持ち出したのはサチだった。なんでも、最近になって新車を買ったそうだ。軽自動車なのは前の車と変わらないのだが、新車ドライブで旅行が行きたいと言い始めたのが最初。そうして行先を二人で考えていると、たまには故郷へ顔を出すのもいいのではという案にまとまったのである。
正直なところ、車に揺られている今でも少し億劫な気持ちが拭えない。最後に実家へ戻ったのは大学受験の頃。大学時代は両親に仕送りもしてもらっていたのに、遠い実家に戻る手間を考えると面倒になってしまい、ついぞ大学の四年間は一度も帰らなかった。その後社会人になって働くようになっても、日々の疲労感や遠方であることを理由にずっと帰らずにいたのである。なので、今更顔を出すのも気まずい。
サチはというと、私よりは帰郷しているようだがそれでも距離がある都合、今回の帰郷は二年ぶりだという。彼女としては小旅行のような気持ちなのだろう。普段から頻繁に我が家のマンションへ宅飲みしに来るのだが、定期的に私の実家の情報を提供してくれるのだ。今や私よりも私の両親について詳しいかもしれない。
「そういえばさ、朝顔はこの道覚えてる?」
ぼうっと山道を眺めていると、ふいにサチの声が尋ねてきた。
「一応だけど覚えてるよ。真っ暗坂だよねここ」
「そうそう、朝顔が苦手だったところ」
「うそだ、そういうサチだって一人で帰れなかったじゃん」
「それは怖がりな朝顔を待ってあげてただけですよ?」
得意げににやけた顔。
このまま調子に乗らせたくはないものの、悔しいが返す言葉がない。
実際、夜中のこの山道は真っ暗で不気味なのだ。高校生の頃は駅に出るまでにこの山を越える必要があったので、サチと一緒に帰っていたし、帰りの時間がズレる日は連絡してわざわざ合わせてもらっていたのを今でもちゃんと覚えている。きっと今でもここは一人で通れない。当時は暗くて不気味、くらいにしか考えてなかったのだが、こうして改めて車窓から景色を見てみると真っ暗坂にも少し納得が行く気がする。背の高い木が多く、そもそもあまり日差しが差さない。時々見える街灯はもう手入れもされていないようでガラスが割れている。昔からこういったところは変わっていないのだろう。
私たちの町はいわゆる限界集落というやつだ。かつては学校もあったのだが、私たちの三人の代で閉鎖になってしまった。そういう町ではもう街灯を直すだけの資金すら無いのかもしれない。
そうやって古い記憶を辿っていると、ふと思い出すものがあった。
それはとある旋律だった。
「それ、何の曲だっけ?」
思わず鼻歌として漏れ出ていたようで、サチが首を傾げる。
「なにか、すっごい聞き覚えあるんだけど、思い出せないなぁ」
「……ふぅん、そっか」
どうやらサチは忘れてしまっていたようだ。
無理もない。当時の私たちはまだ幼かったはずだ。
◆
なずなが、私たちの仲間に加わったのは小学生の頃だった。
錫木なずな。
彼女の実家である錫木家は、あの町で一番大きな家だった。私は詳しく知らないのだが、聞いたところ真っ暗坂のある山や周囲の土地など、数々の土地を持っている家だそうで、古くから大きな権力を持っている家なのだという。
なずなが編入してきたのが小学四年生。
狭い田舎の子供たちであった私たちは、だいたい誰がどこに住んでいるというのは知られていたと思う。私も、錫木さんのお家に同じ年の女の子が住んでいるということ自体は知っていた。だけど、当時の彼女はほとんどお家から出てくることもなく、私たちでさえ名前も知らない子であった。それに、皆が両親から錫木の家に迷惑をかけてはいけない、不用意に錫木の家に近づかない方がいいと言うものだから、なずなについて私たちは本当に何も知らなかった。
でも、子供というのはやはり好奇心の強いものなのだろう。新しい友達だとすぐになずなは受け入れらた。むしろなずなの方が心の準備ができていなかったのか、困惑していたように思う。今こうして振り返ると十才くらいまで箱入り娘だったのだから当然かもしれない。
二日も経てば、賑やかな雰囲気も落ち着き日常の中に溶け込んでいく。しかし、学校生活を、同年代との人間関係を知らなかったなずなが中々馴染めずにいたのは仕方のないことだろう。
そんななずなを無理やり連れまわしていたのがこの私であった。
私はというと、当時は有名なお転婆娘であり、母親同伴で謝罪周りなんてことも度々あった。両親からはいつも”女の子らしく”なんて言われていたが、私にはそれがどういうものなのか全くわからなかった。そんな頃、あのお雛様のようななずなを見たとき、私の理解できない女の子らしさを彼女なら持っている、そう直感したのである。きっと、一種の憧れのような感情だったのだろう。
今でも覚えている。
昼休み、その日のなずなは、教室の窓の外を見ながら何かの歌を口ずさんでいた。
私から見れば、お雛様が窓の向こうを眺めながら歌を奏でている、そんな様子だった。
綺麗だと思った。
『ねぇ、それなんの歌?』
すぐに隣まで駆け寄り、なずなの顔を覗き込んでいた。お雛様本人は私に気がついていなかったのか、顔を真っ赤にして一歩離れてしまった。
『えっと……これは、その』
『さっきの綺麗な曲だよね、あたしも知りたい!』
私は勢いよく離された分を歩み寄った。すると、お雛様は少し固い表情を崩してほんとうに?と聞き返した。
本心であることを告げると、さらに顔を柔らかくして嬉しそうに話し始めた。
『これ、おばあ様が教えてくれた歌なの。とってもいい歌だよね?』
『うん!あたしにも教えて!』
その日見せた彼女の笑顔を、今でも、まだ鮮明に覚えている。黒く長い髪を、雪のように白い肌を、お淑やかで大きな瞳を、崩して朗らかに笑うなずなの顔を。
以来、私となずなはずっと一緒にいるようになった。
そうして、なずなは私だけじゃなく、私たちの仲間として受け入れられるようになった。
なずなは、あまりこの町の事も、学校のことも、何も知らない子だった。だけど、実は大人しい子ではなく、慣れない学校生活で混乱しているだけだったという。一緒に遊び始めると、次第に笑顔が増え、そして私たちもなずなについて知っていることが増えていった。
気が付いたら私よりも上手くなっていたザリガニ釣り。怖いもの知らずななずなが活躍した、木の上に秘密基地を作る計画。結局歌詞はよくわからなかったものの、気付けばみんななずなの口ずさむあの旋律覚えてしまって、その事実を気づいた本人が赤面していたりと、私の記憶の場面にはそのどれになずなの姿もあった。
最初こそ、両親からはなずなと遊ぶことに対してあれこれ言われた気がするが、私たちが中学生に上がる頃には、我が家に来るなずなを両親とも笑顔で受け入れてくれていた。その頃になると、元々中学生だった子らが街の高校に出て行ったり、唯一の下級生の子が転校になってしまったりで、私とサチとなずなの三人だけが残っていた。私たちが卒業すれば町の小中学校は閉校になるという話も出ていた。
でも、そんな時期になっても、私はなずなの事をあまり知らなかった。女の子らしさもそうだが、なずなの家の事も、なずなだけ先生との進路相談が無いのも、よく知らなかった。ただ卒業したら、私やサチが行く高校にて行けず、今みたく遊ぶことも難しくなるということだけ、なずなから聞いていた。
卒業式。
私は先生やなずなに涙のお別れをした。それが私となずなの最期になってしまった。
その後、なずなが、そしてなずなの家族が突然失踪したのは、高校二年生のときだった。
◆
ふぅ、と一息。
久しぶりの帰郷は随分と濃い時間となった。
五年以上も時間を空けて再会した両親の顔は思っていた以上に老け込んでおり、お父さんなんかは丸坊主になっていた。なんでも、頭頂部が綺麗に丸くなってきたので、思い切って短く揃えたのだという。昔はお父さんの薄毛をよくからかっていたのだが、こうもさっぱりしてしまうと時の流れを感じてしまうものだ。
お母さんは思った以上に変わってはいなかったが、意外と白髪が少ない旨を話すと今日に備えて白髪染めをしていたという。それに、ほうれい線が記憶の母の顔よりも少しだけ深くなっていたと思う。
正直、あまりにも顔を見せない薄情なこの娘をしかりつけるのだとばかり思っていた。しかし、両親二人とも満面の笑みで迎えてくれたのである。
実家に着いたのはお昼過ぎくらいだが、相当話し込んでしまったようで、こうしてすっかりと日が傾いてしまっていた。
うっかりとこの時間になってしまったが、どうしても明るいうちに行ってみたいところがあった。だから、両親には少し懐かしい景色を見て回ってくるとだけ告げ、こうしてあの鼻歌混じりにこのオレンジ色の日が溢れる林道を奥の方へと、濃くなっていく木陰の隅からカナカナカナと蜩の音がする坂道を先に、車一台がやっと通れるような山の中へと進んできている。
目的地は、この歌の主であるなずなの実家の跡地だ。
この村は山に囲まれた場所にある。その中でもなずなの家は村の最奥、大きな山の麓に佇んでいる。かつては、私含めて村の人たちはみんなここへ近づかなかった。それが過去になった今でも理由はわからないし、錫木家が無くなった今でも変わってはいないようだ。
いなくなったのはわかっている。こんなところに今更来たって、なずなに会えないのもわかっている。だけど、一度は見ておきたかった。そんな気がしているんだ。
カナカナカナカナカナカナ───。
伸びる影へ向いて歩き続けていくと、果たしてそれは現れた。
瓦のある塀に囲まれた敷地、道路からその家を見るとちょうど真ん中くらいに立派な門が構えられている。塀も門も隙間?小窓?のようなものはあまりなく、門はいつも閉まっているので、屋根の向こうにある大きな日本家屋が木と木の間から見えている。山の麓に木々と並んで建っているせいか、鬱蒼として暗い印象はあるものの、昔から変わらず荘厳な家がそこにあった。
記憶と違うのは、人の手が無くなったからなのか、苔かそれとも黴か、気持ち少しだけ緑っぽい雰囲気があるところ。
そして、
「あれ、門開いてる……」
門扉が開け放たれているのだ。
まだ錫木家がいた頃はどういうわけかいつだってこの門は閉まっていたし、私も開かれたところは見たことなかった。
そのせいで、塀の奥にある草むした砂利の庭と、明かりのない玄関という、記憶にない景色が見えていた。
カナカナカナカナカナカナ───。
なんと表現すればいいのだろうか。
もう人がいないとはいえ他人の敷地だし、私自身ちょっと見れればいいと思って来ただけだ。だから、あの門を潜ろうなんて思ってもみなかった。むしろ、怖がりな私にとってこの夕暮れの時間にあんな薄暗い廃屋に入るなんて選択肢はない。
けれど、不思議と目が離せないような感覚がある。
なんというか、見知らぬ老婆から、表情も見えない遠くからゆっくりと手招きをされているような感じだろうか。
それとも、ぽっかりと口を開けてなにかを待っているような……。
カナカナカナカナカナカナ───。
うん、帰ろう。
元々長居するつもりもなかったし、疲れて頭が変になっていたのかもしれない。
一呼吸を置き、胸を撫で下ろし、早足で踵を返す。
気付けば空も紫がかってきている。帰ったらもう夕飯の頃合になっているだろう。急いで帰らないと昔みたいに小言を、
ガラガラガラガラガラ。
咄嗟に振り向く。
音がしたのは多分背後。
引き戸のようなものが開かれる乾いた音だったと思う。
見ればそれは玄関の戸だった。さきほどまで閉まっていたのに、今は玄関までもがぽっかりと口を開いている。
でも、人気なんて。
「あの……何方かいらっしゃいますか?」
…………返事は無い。
明かりも無く傾いた日差しも当たらない、真っ暗な玄関がこちらを見つめているだけだった。
いや、無理だ引き返そう。
きっと何かの間違いだったと思う。あまり深く考えずに家に戻った方がいい。
再び錫木家に背を向ける。
人の影。
目の前にあったのは、ここに来た時に通った薄暗く狭い林道と、遠くに立つ人影であった。
「…………ええっと」
内心でびっくりした、とぼやいてしまう。
本当に心臓に悪いタイミングで出てきてくれたものだ。
しかし、人影は強い夕焼けの日差しがこちらを向いているせいか、真っ黒で誰だかよくわからない。
「こ、こんにちわー?」
とりあえずで声をかけてみる。この時間にこんなところにいるとなると、やはり村の人のはずだ。声さえ聞けばあれが誰なのかもわかると思った。
返事は、無い。
だけど、向こうは無言のまま歩み寄ってきているようだ。
「あのー、すいません?」
一歩。
一歩。
遠くにいた人影は徐々に大きくなっていく。相変わらず返事をしてくれない。
カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ────。
蜩の音が耳の奥にこびり付いて離れない。頬を、顎を、雫がしたり落ちる。
返事の無い人影が近づいてくる。
一歩。
さらに一歩。
明らかに様子がおかしい。
私がそう気が付いたのは、それがかなり近づいてからだった。
「あの──」
喉から出た声は、音にならずに潰れてしまう。
人影、じゃない。
あれはそんなものじゃない。
黒い影が、黒い何かが、人のような形で、人のような動作で、私へ向けてゆっくりと近づいてきているのだ。
喉の奥がきゅっと締まって上手く声が出せない。
血が引いていくように足の感覚が抜け落ちて、上手く動かせない。
──やばい。
逃げなきゃ、絶対やばい。
震える足に鞭を打ち、ゆっくりと後ずさる。まるで泥濘に引っかかるみたく足が重い。
でも、そんなことを言ってられない。
なんとか逃げようと振り返った。
「えっ……」
二体いた。
私の背後にも、黒い人影が。
いや、違う。
さっき開かれた玄関扉から、もう一体、二体と次々に黒い何かが出てくる。それも、扉の奥の闇の中から、どろりと這い出て、産まれ落ちている。そしてそれらは、皆一様に私へ向けてゆっくりと歩き始めてくる。
「……う、うそでしょ」
背後には黒い人影。
目の前にも黒い人影。
ここは狭い林道。左右の木々を抜けるとそこは崖。
逃げ場がない。
ふと。
背後から土を掘り返したような臭いが漂う。
口。
顔を向ければ、黒い何かは私のすぐ背後まで来ていたのだ。人間のような口を大きく広げて、舌を蠢かせて。
「いやぁっ!!」
思わずしゃがみ込んでしまった。いや、足の震えに限界が来たのかもしれない。
でも、どっちにしたってもうこうすることしかできない。ギュッと目を瞑り、両手で耳を塞ぎ、ただ何かがどこかへ過ぎ去ってしまうのを祈るしかない。
カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ────。
塞いでいても、劈く蜩の音。
頭が割れるかと思うくらい強い鳴き声。
わかる。
わかってしまう。
黒い影が、あの得体のしれない何かが、私の周りに集まって、今にも覆いかぶさろうとしているのが。
大きな口を開けて、きっと私に喰らいつこうとしているのが。
そんな時だった。
──鼻歌、だと思う。
聞き馴染んだ旋律。なずながいつも口ずさむあの歌。
その刹那。
「朝顔っ!!」
がっしりと私の手が掴まれ、力一杯引っ張られた。泥濘に絡まったように重かった身体が、嘘のように動き出せた。
それは、サチの手だった。
◆
卒業式の日。
私となずなは涙の別れを交わした。
ただ、あのとき少し不思議な事を言われた。今でもよく覚えている。
『朝顔は、カミサマって信じる?』
『えっ?』
当時の私は素っ頓狂な声を上げていたと思う。あまりにも唐突な質問だったからだ。今まで、なずなとはそんな話題を話したの事は一度も無かったのだから。
神様というと、私の家にもサチの家にも神棚はあった。両親に言われて毎朝頭を下げてはいたのだけど、神様を信じているかと聞かれるとそうとも言えなかった。
『私ね……もうすぐカミサマにならなきゃいけないんだって』
なずなは、下を向きながらそう告げた。
『神様に……?』
私はというと、その言葉を、それが何を意味するのかもうまく理解できていなかった。それは今でも変わらない。
『……ん』
頷くも、なずなの声音は今にも消えそうだった。顔を上げたなずなは、本当になんの感情のない、ぞっとするような無表情だった。初めてだった、なずながそんな顔を見せるのは。
『……朝顔、お願い』
その瞳から、小さな雫を伝わせながら私へ続ける。
『私を、朝顔の……貴方のカミサマにさせてほしいの』
彼女は、縋るように私の制服の袖につまんだ。
これもなずなからの、初めてのお願い。
そう、今でも変わらない。
ただ。
このときの私は、なずなと本当にお別れになってしまうんだと思った。だから、答えずにはいられなかった。
『いいよ』
すると、なずなは袖をつまむ指に力を込めた。
『……本当?』
『うん』
頬を伝う雫が大粒となり、彼女はにっこりと笑った。泣いてはいるけど、それはいつものなずなの笑顔だった。
『ありがとう』
◆
真っ暗闇の村の中。
サチの手に引かれるまま、わけのわからぬまま、私は彼女の車に押し込まれた。
サチはの方は自分も運転席に乗り込み、肩を上下させながらエンジンボタンを押し込み続けている。
「くそっ、なんでっ!?」
しかし、凄い剣幕で怒鳴りながら、運転席を蹴りつけている。
きっと、わけのわからないまま逃げているのはサチも同じなのだろう。さっきから疲労か、それとも恐怖か、下顎をずっとガタガタと震わせている。
だけど、どれだけサチが怒鳴り声をあげても、私が焦っても、車は黙ったままだ。
そのとき。
──バンッ。
エンジン音とは違う音だった。
それに、後ろからの音だった。
絶対、人じゃない。だって、私たち二人であんなに助けを叫んで回ったのに誰も出てこなかったはずだ。
思わず、肩越しに振り返った。
手形だった。
車窓の真ん中に、“黒い”手形がくっきりと付いているのだ。
「……さ、サチ」
──バンッ。
──バンッ、バンッ、バンッ。
──バンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッ。
「サチ早くッ!!」
「わかってるってばッ!!」
半泣きのサチの声と共に、視界が明るくなったかと思えばキュルルルルと駆動音が鳴り響いた。
彼女はすぐに震えた手付きでレバーを降ろす。その瞬間、車がガクンッと跳ね、私達の身体にも強い衝撃が走る。
「えっ、ちょっ──、
「サチ、サイドブレーキ!」
私の言葉が放たれると、彼女は勢いよく足元のサイドブレーキを蹴飛ばす。途端に、シートに後頭部を叩きつけられるほどの勢いで車が動き出した。
──町には、誰もいなくなっていた。
車にたどり着く前、私達二人は山から駆け下り、一目散に民家へと走ったが、どの家も明かりが無かった。助けを呼んで叫んだし、玄関を必死に叩きもしたが、ついぞ人の気配さえ見つけられなかった。私達の両親すら出てくることはなかった。
それどころか、あの黒い人像がどこからともなく現れ始める始末。
そうして、私達はサチの車で山から出る事にしたのだ。
私達の車はすぐに民家を抜けると、今までよりもさらに真っ暗な道に出る。いや、真っ暗なんてものではない。ヘッドライトが消えれば視界は真っ黒になるだろう。
「……真っ暗坂」
隣の声音は不安げに震えていた。
月明かりすらも届かない背の高い木々、壊れた街灯、真っ暗坂は少し怖いだけの思い出のはずだった。
「いくよ……!」
サチはそう切り出すと、慎重にアクセルを踏んでいく。
ライトがなければ山道と虚空の境界の見分けすらつかない暗闇の中、曲がりくねった山道を走っているのだ。そうせざる得ないのは私も理解できる。
もっと速く走ってよと言いそうになる唇を、プルプルと噛み締めるしかない。
そうして、ヘッドライトの照らす先を見続けた。この真っ黒な中を私達二人だけ。いつ、すぐ隣の闇からぽっかりと人間のような口が広げられるかと思うと、闇の中を見る勇気なんてなかったから。
黒い影のようななにか。
突然いなくなる人々。
わけがわからない。わからないが、正直心当たりが全く無いとも言えない。
錫木家の跡地に近づいて現れたなにか達。
サチが来てくれる直前、聞こえてきたあの歌。
そして、なずなの言っていた神様。
もしかしたら、昔の私はなずなととんでもない約束をしてしまったのかもしれないと。
そこまで考えて頭を振った。なずなと私達は友達だ。仮に神様というのものとあれらが関係していたとしても、なずながこんな事をするはずがない。
「……う、うそ、だよね」
ふと、サチの言葉が私を現実に引き戻す。
走行が止まっている。
「……サチ?」
横を見ると、サチは正面を見たまま今にも泣き喚きそうな顔をしたまま凍りついていた。ヘッドライトの先を見つめたまま。
……見ちゃ駄目だ。
そう思ったのは、本能的な直感みたいなものだろうか。
けれど、すでに私の首は車の目の前の影へ向けられていた。
それは車や熊かと思った。大きな何かがそこにあった。だけど、明らかにそんなものではない。
白っぽい色の何か……いや、あれは肌色だ。肌色の大きな何かがある。
その何かには無数の突起が生えている。まるで巨大な毛虫のように。
──化け物。
「ひぃっ……」
ずるり。
ずるり。
化け物はゆっくりとこちらへ向かってくる。突起物を地面へくねらせながら。身体を引き摺りながら。無数の突起物をこちらに伸ばしながら。
いや、違う。
突起物なんかじゃない。
私もよく知っているものだ。
肌色で、細長くて、その先にはさらに細く五本に枝分かれしてて──。
ああ、あれは手だ。
人間の手だ。
すらりとしてて、だけどどこか質感のあるごく普通の手だ。
全身が手に、腕に、指に覆われた化け物が、その腕が何本も何本も蠢き、蟲の肢のように身体を、手を、腕を、指を、肉を引き摺りながら、手を、腕を、指をこちらへ向けて、手が、腕が、指が迫って、手、手、手、手、手、腕、腕、腕、腕、腕、指、指、指、指、指────。
「いやぁぁぁぁああ!!」
私が声を上げるよりも早く、サチの金切り声とともにエンジン音がけたたましく鳴り響いていた。
◆
痛みにふと目を覚ます。
頭を上げると、そこにはヘッドライトに照らされた真っ暗坂。隣にはエアバックに身を預けたまま動かないサチ。
どうやら、私達は気を失っていたらしい。
「痛っ……」
全身が痛みに悲鳴を上げている。
何が起こったのか。ゆっくりと思い返す。
手の化け物。サチの悲鳴。急速に離れていく景色。直後に凄まじい衝撃。きっと、限界を迎えたサチが、バックで急発進して後ろの崖にぶつかったのだろう。そして、あの化け物はどこかに行ってしまったのだろうか、光の先にはすでにいなかった。
隣のサチは、エアバックと運転席に挟まれてぐったりとしていた。
「……サチっ!」
友人の身体を揺する。すると彼女は唇から微かに声を漏らす。とりあえず息はあるみたいだ。
「サチ……サチ……!」
「ん……んん……」
ふと、そんな時だった。
────歌だ。
あの鼻歌。
どこからともなく、なずなの歌が聞こえてくる。
「……なずな?」
みしっ。
その無機質な音は、鼻歌漂うなかでさえたしかに聞こえた。
私の、後ろで。
手だ。
私のすぐ後ろ、車向こう側で無数の手のひらが窓硝子を埋め尽くしているのだ。
「ひぃぃっ!?」
みしっ、みしっ。
今度は、音と共に車窓が蜘蛛の巣を刻んだかのように白く染まる。
窓硝子が、割れそうになっているんだ。
「サチっ!起きて、早くっ!」
サチを強く揺するも、まだ彼女は目を覚ましそうにない。
みしみしみしっ。
音の感覚が短くなる。
嫌でもわかってしまう。もう窓硝子が保たない。
あの手の化け物が、こっちに入ってくる。
「サチぃ!お願い、起きてっ!!」
ぴしっ。
次の瞬間。
鋭い破裂音と一緒に視界に無数の肌色が飛び込んできた。
手。
手、手、手、手、手、腕、腕、腕、腕、腕、指、指、指、指、指──。
「いやぁぁ──あがっ!」
口の中に、次々に指が入り込んでくる。唇を、舌を、歯を撫でられている。
髪を、腕を、首を掴まれる。そして、窓の外側へと引っ張られていく。化け物の元へ引きずり出されていく。
手、手、手、手、手、腕、腕、腕、腕、腕、指、指、指、指、指、手、手、手、手、手、腕、腕、腕、腕、腕、指、指、指、指、指、手、手、手、手、手、腕、腕、腕、腕、腕、指、指、指、指、指────。
無限の肌色に囲まれる。
手を足を無数の腕で掴まれる。
……やだ、やだ。
口を幾多の指で塞がれる。
……助けて、お願い。
首をいくつもの腕で締め上げられる。
……苦しい、誰かぁ。
ゆっくりと二つの手のひらが目に迫ってくる。
……やだやだやだやだ死にたくなんか──。
刹那。
思い出すのはなずなの歌。
襲われて、死にそうになってずっと気付いていなかったのだけど。
まだ消えていない。
それどころか。
今、あの歌声はすぐ耳元で聴こえる。
解放された視界。
温かい光。
そこには、お雛様がいた。
それは頭の片隅に今でもひっそりと、しかしたしかにある姿である。
長く黒く艶のある髪、雪のように白く儚い肌、長い髪で見えない瞳、そして彼女に似合う幾重に重なる十二単の着物。
お雛様は、おもむろに化け物に触れる。
すると、数多の手が一斉に縮こまり始め、手が、腕が、指が私から離れていく。
一本、一本と解けていくように、指先から、手が、腕が、化け物が光の中へ消えていく。
温かい光はさらに強さを増し、ゆっくりと私を、サチをも包み込んでいく。
やがて、強い光に覆われて……。
「待って!」
力いっぱい、叫んだ。
声を上げざる得なかった。
「あなたは……」
私が尋ねるよりも早く、お雛様は微笑んだまま背を向け、極光が私達を飲み込んでしまった。
◆
頭が重い。
真っ暗。
揺れる体。
ここで、ようやくつい先程まで眠りに落ちていたことに気が付く。ただ、ガタガタと振動に揺られてあまりよい寝覚めでは無い。
ゆっくりと瞼を開ける。
そこはまだ車窓越しの山道、昼間の真っ暗坂の道中だった。
「あれ、もう起きたの?」
隣から、元気なサチの声がした。
「ごめん……寝ちゃってた」
「いいよ、むしろまだここから2時間かかるし寝ててよかったのに」
珍しく混じり気の無い顔で笑窪を浮かべた。
そっと視線を外へ向ける。暗い木陰から差し込む木漏れ日たちが、車窓に当たってキラキラしている。それとも、私がまだ寝惚けているだけかもしれない。
たった二日間の帰郷だったが、とても濃い時間となった。
「あっ、朝顔のその鼻歌ってさぁ」
また、ついつい鼻歌が溢れていたらしい。自分の思わぬ癖に驚く私を傍に、サチは嬉しそうに続けた。
「なずなが歌ってたやつでしょ?」
「……うん!」
ご意見ご感想罵詈雑言、いつでもお待ちしております。




